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人魚の女房
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眩暈がして、木陰で休んでいた。
土手の下には川が流れており、その岸のこちら側には砂利があり、向こう側には雑草がぼうぼうと生い茂っている。幅の広い川で、流れも緩やかだった。子どもたちが川の水を互いに掛け合ったりしているが、浅い川らしく、泳いでいる子供はいなかった。ただ一人、女の子が砂利にしゃがみこんで石を拾っているらしかったが、それが何故か、ちっとも寂しくなさそうなのだった。
片膝を立てて、その上に肘をつき、顎を支える体勢をとった。子どもたちの、きゃらきゃらという笑い声と、水の跳ねる音が聞こえてくる。少し、眠くなってきた。
ほんの少しうとうとしていると、一人の子どもが重そうにバケツを抱えて土手を上ってきた。先ほど、砂利の上にしゃがみこみ、たった一人で石を拾っていた女の子だった。女の子は、この年頃にしては珍しく、物怖じすることもなく私の隣に座り込んだ。それから、薄い肩を上下させたが、それがいかにもう初々しかった。忙しい動きで水筒の蓋をあけ、口をつけた。目をぱちぱちさせながら、喉を反らして水を飲む様が、美味しそうだった。
女の子は水筒から口を離すと、まるで少年のような荒さで手の甲で口を拭い、水筒の蓋を閉めた。
「こんにちは」
女の子は、ぴんと張った糸のような声で言った。
私はびっくりした。女の子に声を掛けられたからではない。女の子はこちらの方も向かず、私に無関心に見えた。女の子が自分に声をかけたとは思わなかった。女の子の声の若々しさに、私は驚いたのだった。
「こんにちは」
また、同じ調子で言われて、私は漸く、女の子が私に声を掛けていたことに気付いた。こんにちは、と戸惑いながらも返した。すると女の子は、暑いですね、と今度は一転して儚げな声で答えてくれる。
本当に、と少し笑いながら返した。女の子は川の方に顔を向けたまま、笑わなかった。
先に声を掛けられた気安さで、問うた。
「君は、他の子たちと川で遊ばないの」
「濡れるのは、好きではないので」
暑い日は、特に、という言葉が続きそうな響きだった。
女の子は、水筒の水を飲もうとして、やめたようだった。
「石を拾っていたね」
首を伸ばして、何とかバケツの中身を定めようとしながら、私は言った。
「石なんか集めて、どうするの。重いだろうに」
「伯父さんに、あげるんです。それに、重く感じるほど集めていません。それほどには」
「伯父さんが、石を使うの」
「砕いて、絵にするんだそうです」
女の子の儚い声は、芯が僅かに震えているようだが、心地よかった。きっと、歌が上手いに違いないと思った。
女の子の声は、私に、弟の妻のことを思い起こさせた。弟の妻は、少し音調のずれた歌を、楽しそうに歌っていた。最初は囁くように歌っていたのが、段々、声が大きくなっていくようだった。
弟の妻のことは、その時まで忘れていた。忘れる努力をしていた。けれど、常に私の心の奥底に引っかかっていて、それでも私はそれを必死に見ないようにして、忘れた気になっていた。それが今、水死体のように、プカリ、と浮かび上がってきた。
「ねえ、君は人魚を見たことがあるかい」
女の子は額を、掌の丸みで撫でながら、幾分気怠そうに首を横に振った。
「先生は見たことがあるって言っていたけれど、そんなにいいものじゃないって」
「そうかい。事実、いいものじゃないよ」
暑さを感じて、襟元をパタパタさせながら、首元に温い風を送った。鼻の奥に、懐かしい水の匂いが蘇るようだった。少し、寂しいような気分になったが、それだけだった。思ったような、感情の揺れはなかった。
「実はね、弟の妻が、人魚だったんだよ」
へえ、と女の子は言って、瞬きをした。汗が、目に沁みたようだった。その、頬の丸みを見ながら、話を続けた。
「漁師の網に引っかかっていたのを、弟が助けたらしくてね。それで、女房になった」
御恩を返しに来ました、と人魚は来たのだった。話に聞くような魚の尾はなく、普通の女に見えた。ただ、歯が細かく、ギザギザしていた。髪は常に濡れて、雫が滴っていた。けれど、それが床に染みを作る前に、宙で消えてしまうようだった。
人魚の女房はよく働いた。昼間は脚を生やして普通の女房の務めを果たし、夜は浴槽で眠った。人魚の女房は早い時間に眠った。
人魚の女房が眠っているのを見たことがある。浴槽に、水を張って、その上に浮いて、眠っていた。昼間はない魚の尾があった。人魚の女房は瞼が薄く、眼球が透き通るようだった。
弟と、人魚の女房の仲は、睦まじく見えた。
けれど、一年も続かなかった。
「人魚の女房が、海を恋しがるようになった」
「海から、来たんですか」
「海から、来たみたいだね」
故郷の、思い出ばかりを語るようになった。残してきた姉妹を想って、気がふさぐようだった。次第に、家事が疎かになり、家の中が埃っぽくなった。弟のことも、私のことも、疎ましいようだった。
「最後には、海に帰っちまったよ」
帰っちまったんですか、と女の子は呆けたように言った。
「弟はすっかり落ち込んでしまってね、私も、周りの人たちも、もうあんなひどい女のことは忘れろと言って、色々と慰めたり、叱ったり、煽てて励まして」
でも、ダメだった。
人魚の女房は弟に飽いたけれど、弟は人魚の女房のことが好きだったのだろう。家族の誰とも口を利かなくなり、まともに食事をとらなくなった。弟はどんどん痩せていき、体からは色が抜けていくようだった。
そして、女房を真似て、浴槽の中で眠るようになった。
「危ないんじゃないですか、それ」
「危ないよ、溺れるかもしれない。だから、やめろと言ったんだけどね」
こちらの声は弟には聞こえないようだった。
聞こえない者に、どれだけ訴えても届くはずがなかった。
「それで、最後には溶けちゃった」
弟の様子を見に、浴室に行った。弟が、兄さん、と呼んだ気がしたからだった。人魚の女房がいなくなって以来の弟の呼び声に、錯覚だと思いながらも見に行かずにはいられなかった。
弟はいなかった。水を張った浴槽に、弟の服が、かつて見た弟の女房の寝姿のように、力無く浮かんでいた。悲しいよりも先に、喪失感を感じていた。
「人魚に恋した者の、末路だろうねぇ」
「人魚に恋すると、溶けるんですか」
「溶けるみたいだねぇ」
棺の中に、弟が溶けたと思われる水を掬って、埋めた。弟が溶けた水は、棺から出て、土に染みわたり、やがて海にまで滲むのだろうか、と思ったこともある。けれど、弟はもう溶けてしまっているから、人魚の女房を見つけることができても、触れることができない。それとも、ずっと触れていると言えるのか。
溶けてしまった弟が、哀れだった。
ずっと川の方を見ていた女の子が、不意にこちらを向いた。目じりが吊り上がった、猫のような顔立ちだった。
「これ、少しあげます」
これ、と言って女の子が差し出してきたのは、女の子が先ほど口をつけていた水筒だった。遠慮すると、やけに強く勧めてくる。仕方なく、一口二口飲んだ。
「レモン水だね」
そう言うと、女の子は微かに顎を引いて、頷く様子を見せた。
水筒を返すと、もっと飲んでいいです、と言われたが、固辞した。他人が口をつけた飲み物を、積極的に飲む気にはなれなかった。水筒を受け取る女の子は、少し当てが外れたような顔をしていた。
後になって、女の子は親切心から私にレモン水をくれたわけではないのでは、という可能性を思いついた。本当は、石を詰めたバケツが思いの外重くて、荷物を減らしたかっただけかもしれない、と。しゃがみこんで、立ち上がるのが億劫になってしまった私と似たようなものだ。
弟が溶けた日も、そんなじめじめした夏の日のことだった。
土手の下には川が流れており、その岸のこちら側には砂利があり、向こう側には雑草がぼうぼうと生い茂っている。幅の広い川で、流れも緩やかだった。子どもたちが川の水を互いに掛け合ったりしているが、浅い川らしく、泳いでいる子供はいなかった。ただ一人、女の子が砂利にしゃがみこんで石を拾っているらしかったが、それが何故か、ちっとも寂しくなさそうなのだった。
片膝を立てて、その上に肘をつき、顎を支える体勢をとった。子どもたちの、きゃらきゃらという笑い声と、水の跳ねる音が聞こえてくる。少し、眠くなってきた。
ほんの少しうとうとしていると、一人の子どもが重そうにバケツを抱えて土手を上ってきた。先ほど、砂利の上にしゃがみこみ、たった一人で石を拾っていた女の子だった。女の子は、この年頃にしては珍しく、物怖じすることもなく私の隣に座り込んだ。それから、薄い肩を上下させたが、それがいかにもう初々しかった。忙しい動きで水筒の蓋をあけ、口をつけた。目をぱちぱちさせながら、喉を反らして水を飲む様が、美味しそうだった。
女の子は水筒から口を離すと、まるで少年のような荒さで手の甲で口を拭い、水筒の蓋を閉めた。
「こんにちは」
女の子は、ぴんと張った糸のような声で言った。
私はびっくりした。女の子に声を掛けられたからではない。女の子はこちらの方も向かず、私に無関心に見えた。女の子が自分に声をかけたとは思わなかった。女の子の声の若々しさに、私は驚いたのだった。
「こんにちは」
また、同じ調子で言われて、私は漸く、女の子が私に声を掛けていたことに気付いた。こんにちは、と戸惑いながらも返した。すると女の子は、暑いですね、と今度は一転して儚げな声で答えてくれる。
本当に、と少し笑いながら返した。女の子は川の方に顔を向けたまま、笑わなかった。
先に声を掛けられた気安さで、問うた。
「君は、他の子たちと川で遊ばないの」
「濡れるのは、好きではないので」
暑い日は、特に、という言葉が続きそうな響きだった。
女の子は、水筒の水を飲もうとして、やめたようだった。
「石を拾っていたね」
首を伸ばして、何とかバケツの中身を定めようとしながら、私は言った。
「石なんか集めて、どうするの。重いだろうに」
「伯父さんに、あげるんです。それに、重く感じるほど集めていません。それほどには」
「伯父さんが、石を使うの」
「砕いて、絵にするんだそうです」
女の子の儚い声は、芯が僅かに震えているようだが、心地よかった。きっと、歌が上手いに違いないと思った。
女の子の声は、私に、弟の妻のことを思い起こさせた。弟の妻は、少し音調のずれた歌を、楽しそうに歌っていた。最初は囁くように歌っていたのが、段々、声が大きくなっていくようだった。
弟の妻のことは、その時まで忘れていた。忘れる努力をしていた。けれど、常に私の心の奥底に引っかかっていて、それでも私はそれを必死に見ないようにして、忘れた気になっていた。それが今、水死体のように、プカリ、と浮かび上がってきた。
「ねえ、君は人魚を見たことがあるかい」
女の子は額を、掌の丸みで撫でながら、幾分気怠そうに首を横に振った。
「先生は見たことがあるって言っていたけれど、そんなにいいものじゃないって」
「そうかい。事実、いいものじゃないよ」
暑さを感じて、襟元をパタパタさせながら、首元に温い風を送った。鼻の奥に、懐かしい水の匂いが蘇るようだった。少し、寂しいような気分になったが、それだけだった。思ったような、感情の揺れはなかった。
「実はね、弟の妻が、人魚だったんだよ」
へえ、と女の子は言って、瞬きをした。汗が、目に沁みたようだった。その、頬の丸みを見ながら、話を続けた。
「漁師の網に引っかかっていたのを、弟が助けたらしくてね。それで、女房になった」
御恩を返しに来ました、と人魚は来たのだった。話に聞くような魚の尾はなく、普通の女に見えた。ただ、歯が細かく、ギザギザしていた。髪は常に濡れて、雫が滴っていた。けれど、それが床に染みを作る前に、宙で消えてしまうようだった。
人魚の女房はよく働いた。昼間は脚を生やして普通の女房の務めを果たし、夜は浴槽で眠った。人魚の女房は早い時間に眠った。
人魚の女房が眠っているのを見たことがある。浴槽に、水を張って、その上に浮いて、眠っていた。昼間はない魚の尾があった。人魚の女房は瞼が薄く、眼球が透き通るようだった。
弟と、人魚の女房の仲は、睦まじく見えた。
けれど、一年も続かなかった。
「人魚の女房が、海を恋しがるようになった」
「海から、来たんですか」
「海から、来たみたいだね」
故郷の、思い出ばかりを語るようになった。残してきた姉妹を想って、気がふさぐようだった。次第に、家事が疎かになり、家の中が埃っぽくなった。弟のことも、私のことも、疎ましいようだった。
「最後には、海に帰っちまったよ」
帰っちまったんですか、と女の子は呆けたように言った。
「弟はすっかり落ち込んでしまってね、私も、周りの人たちも、もうあんなひどい女のことは忘れろと言って、色々と慰めたり、叱ったり、煽てて励まして」
でも、ダメだった。
人魚の女房は弟に飽いたけれど、弟は人魚の女房のことが好きだったのだろう。家族の誰とも口を利かなくなり、まともに食事をとらなくなった。弟はどんどん痩せていき、体からは色が抜けていくようだった。
そして、女房を真似て、浴槽の中で眠るようになった。
「危ないんじゃないですか、それ」
「危ないよ、溺れるかもしれない。だから、やめろと言ったんだけどね」
こちらの声は弟には聞こえないようだった。
聞こえない者に、どれだけ訴えても届くはずがなかった。
「それで、最後には溶けちゃった」
弟の様子を見に、浴室に行った。弟が、兄さん、と呼んだ気がしたからだった。人魚の女房がいなくなって以来の弟の呼び声に、錯覚だと思いながらも見に行かずにはいられなかった。
弟はいなかった。水を張った浴槽に、弟の服が、かつて見た弟の女房の寝姿のように、力無く浮かんでいた。悲しいよりも先に、喪失感を感じていた。
「人魚に恋した者の、末路だろうねぇ」
「人魚に恋すると、溶けるんですか」
「溶けるみたいだねぇ」
棺の中に、弟が溶けたと思われる水を掬って、埋めた。弟が溶けた水は、棺から出て、土に染みわたり、やがて海にまで滲むのだろうか、と思ったこともある。けれど、弟はもう溶けてしまっているから、人魚の女房を見つけることができても、触れることができない。それとも、ずっと触れていると言えるのか。
溶けてしまった弟が、哀れだった。
ずっと川の方を見ていた女の子が、不意にこちらを向いた。目じりが吊り上がった、猫のような顔立ちだった。
「これ、少しあげます」
これ、と言って女の子が差し出してきたのは、女の子が先ほど口をつけていた水筒だった。遠慮すると、やけに強く勧めてくる。仕方なく、一口二口飲んだ。
「レモン水だね」
そう言うと、女の子は微かに顎を引いて、頷く様子を見せた。
水筒を返すと、もっと飲んでいいです、と言われたが、固辞した。他人が口をつけた飲み物を、積極的に飲む気にはなれなかった。水筒を受け取る女の子は、少し当てが外れたような顔をしていた。
後になって、女の子は親切心から私にレモン水をくれたわけではないのでは、という可能性を思いついた。本当は、石を詰めたバケツが思いの外重くて、荷物を減らしたかっただけかもしれない、と。しゃがみこんで、立ち上がるのが億劫になってしまった私と似たようなものだ。
弟が溶けた日も、そんなじめじめした夏の日のことだった。
応援ありがとうございます!
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