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水の中の娘
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水の中の娘がいると聞いたので、見に行くことにしたのだ。
見ると、確かに、水の中の娘だった。深い緑のような、鮮やかな青のような、とろりとしているような水を湛えた水槽の中で、その娘は呼吸をしていた。肌の色は、黄色みを帯びて、水の中にいるのに、温かそうだった。あどけない表情に、ついほほ笑むと、娘の方でも、ニコリ、とする。
自分に、その娘のことを教えてくれたのは、自分の友人だった。友人は、仕事を定年で退職してから、急に外に出歩くようになった。美術館の展覧会に出かけて、ポストカードを買っては知人に配る。カフェに出かけてコーヒーとサンドイッチを頼み、食事が済んだら紙のナプキンで口の周りを丁寧に拭う。劇場に足を運んで、演劇を観ることもあれば、音楽を聴くこともある。ただ、映画館には行かない。出かけるとき、友人は必ず、黒い帽子を被る。夏にはそれが、黒いリボンが巻き付いた麦わら帽子に代わる。
水の中の娘も、そのようにして見つけたのだ、と友人は言う。
水の中の娘は、水の中を、スゥッ……と移動する。水の中には正式な名前もよく分からない水草や、石があったが、それらに特に注意を払うことはなく、だからといって、全く関心がないというわけでもなく、時々は水草を撫でたり、手の中で石を転がしたりしては、遊んでいる。そして、不意に手の中で転がしていた石を投げだすと、また、スゥッ……と水の中を移動する。無暗に手を動かしたり、足を回したり、泳ぐ、という動きではない。水の中で生きる娘の為だけの道があって、そこを、辿って、体を滑らせている、という感じだった。それが、あまりにも心地よさそうだったので、楽しいのかい、と訊くと、水の中の娘は、たのしい、と唇の形だけで答えた。
本当に、こちらの言うことが通じているのかは、分からないのだよ、と、友人は言っていた。何せ、水の中にいるのだから。
水の中の娘は、いつから、水の中の娘になったのか。
水槽のガラス面に、掌をかざした。しかし、触れなかった。そのまま、触れるか、触れないかといった距離を保ちながら歩くと、水の中の娘も、水の中から、ついてきた。楽しいか、と訊くと、たのしい、と唇が動く。嬉しいか、と訊くと、うれしい、と唇が動く。寂しいか、と訊くと、さびしい、と唇が動く。自分がほほ笑むと、水の中の娘もほほ笑む。自分が悲しい顔をすると、水の中の娘も、悲しげな顔をする。
ああして、水の中にばかりいると、心というものも、いつかどこかへ流されてしまうのかもしれないね、と友人は語っていた。そう語る友人の目も、心をどこかに置いてきたように、ぼんやりしていた。
娘は切れ長の、大きな目をしていた。唇の色は、赤すぎると思われるほど赤かった。水の中で揺れる、長い黒髪の方が、この娘を、生きている、と感じさせた。
あの娘は、どうして水の中へ入ったのだろうね、と友人は言っていた。
水の中に入ることになった娘の事情なぞ、自分は知らない。友人も、どうして、などと言ったくらいなのだから、当然知らないのだろう。自ら、好んで入ったのか。何かの罰で、入ったのか。やむを得ない事情があって、入ったのか。この娘にも、水の外にいた時代があって、たのしい、とか、うれしい、とか、さびしい、とか、かなしい、とか。そういうものを感じる心が、あったのだろうか。
あの娘を見ていると、昔、関係した女を思い出すよ、と友人は言っていた。
友人が、昔、関係した女というのは、長い黒髪を上手に纏めて上げていた。何か小物を買ってやると、次の逢瀬のときに必ずそれを身に着けて待ち合わせの場所に来る。ピンと伸びた背筋を撫でると、やめて、と言われた。美しいと思ったその声も、もう、過去の声だった。逢うたびに、この女と出会うのはこれで最後のような気がした。それでも、離れれば逢いたくなった。そして、出会ってから一年の後、女は病で死んだ。友人は、女の死に目には間に合わなかった。女が死ぬのを見るのが、辛かったのかもしれなかった。
女が死んだ後、友人はその当時よくあったように尋常に見合いをして、尋常に結婚をして、子どもを育て、孫も生まれた。孫が小学校に上がる前、妻は死んだ。その葬式の後、友人と差し向かいで呑んだ。水の中の娘の話を聞いたのも、そのときだった。
怖いねぇ、と友人は言っていた。
僕はあの女を愛していた。妻のことではない。昔、関係した女のことだよ。彼女が死んだときは、本当に悲しかった。本当に、愛していたのだもの。けれど僕は、結婚した。結婚したら、妻が愛しくなった。生まれた子どもも愛しかった。孫のことも愛しい。あんなに愛した女が死んで、もう生きていけないと思ったほどだったのに、それでも僕は、あの女以外の誰かを愛することができたのだ。今だって僕は、妻が死んで自分の半分がなくなったくらいに悲しいのに、辛いのに、生きていけないと思うほどなのに。それでも、生きていくのだろう。怖いねぇ。
また別の誰かを愛することもあるのかと思うと、怖いねぇ。
水の中の娘の掌が、ガラスとほんの少しの隙間を隔てて、自分の掌と重なったように見えた。自分が動くと、水の中の娘も動く。自分がほほ笑むと、水の中の娘もほほ笑む。水の中の娘は、許しているのだ、と感じられた。感じられて、苦しくなった。
ガラスと、ほんの少しの隙間を隔てて、水の中の娘に顔を寄せた。水の中の娘も、顔を寄せてきた。黒い、長い髪が、ふわふわと揺れて、水の中の娘の輪郭を曖昧にした。赤すぎるほどの赤い唇が窄まって、接吻しようとするかのような表情になる。細い眉と眉が寄せられて、キュウ、と苦しげだった。自分は、このような表情をしているのだろうか、と思う。水の中の娘が、自分を愛しく思っていなくても、自分は、水の中の娘を愛しく思い始めているのだろうか。それは、陸の上で呼吸する自分の醜い願いか。水の中で呼吸する娘の、美しい呪いか。
あなたがいとしい、と水の中の娘は言った。
君が愛しい、と自分は答えた。
見ると、確かに、水の中の娘だった。深い緑のような、鮮やかな青のような、とろりとしているような水を湛えた水槽の中で、その娘は呼吸をしていた。肌の色は、黄色みを帯びて、水の中にいるのに、温かそうだった。あどけない表情に、ついほほ笑むと、娘の方でも、ニコリ、とする。
自分に、その娘のことを教えてくれたのは、自分の友人だった。友人は、仕事を定年で退職してから、急に外に出歩くようになった。美術館の展覧会に出かけて、ポストカードを買っては知人に配る。カフェに出かけてコーヒーとサンドイッチを頼み、食事が済んだら紙のナプキンで口の周りを丁寧に拭う。劇場に足を運んで、演劇を観ることもあれば、音楽を聴くこともある。ただ、映画館には行かない。出かけるとき、友人は必ず、黒い帽子を被る。夏にはそれが、黒いリボンが巻き付いた麦わら帽子に代わる。
水の中の娘も、そのようにして見つけたのだ、と友人は言う。
水の中の娘は、水の中を、スゥッ……と移動する。水の中には正式な名前もよく分からない水草や、石があったが、それらに特に注意を払うことはなく、だからといって、全く関心がないというわけでもなく、時々は水草を撫でたり、手の中で石を転がしたりしては、遊んでいる。そして、不意に手の中で転がしていた石を投げだすと、また、スゥッ……と水の中を移動する。無暗に手を動かしたり、足を回したり、泳ぐ、という動きではない。水の中で生きる娘の為だけの道があって、そこを、辿って、体を滑らせている、という感じだった。それが、あまりにも心地よさそうだったので、楽しいのかい、と訊くと、水の中の娘は、たのしい、と唇の形だけで答えた。
本当に、こちらの言うことが通じているのかは、分からないのだよ、と、友人は言っていた。何せ、水の中にいるのだから。
水の中の娘は、いつから、水の中の娘になったのか。
水槽のガラス面に、掌をかざした。しかし、触れなかった。そのまま、触れるか、触れないかといった距離を保ちながら歩くと、水の中の娘も、水の中から、ついてきた。楽しいか、と訊くと、たのしい、と唇が動く。嬉しいか、と訊くと、うれしい、と唇が動く。寂しいか、と訊くと、さびしい、と唇が動く。自分がほほ笑むと、水の中の娘もほほ笑む。自分が悲しい顔をすると、水の中の娘も、悲しげな顔をする。
ああして、水の中にばかりいると、心というものも、いつかどこかへ流されてしまうのかもしれないね、と友人は語っていた。そう語る友人の目も、心をどこかに置いてきたように、ぼんやりしていた。
娘は切れ長の、大きな目をしていた。唇の色は、赤すぎると思われるほど赤かった。水の中で揺れる、長い黒髪の方が、この娘を、生きている、と感じさせた。
あの娘は、どうして水の中へ入ったのだろうね、と友人は言っていた。
水の中に入ることになった娘の事情なぞ、自分は知らない。友人も、どうして、などと言ったくらいなのだから、当然知らないのだろう。自ら、好んで入ったのか。何かの罰で、入ったのか。やむを得ない事情があって、入ったのか。この娘にも、水の外にいた時代があって、たのしい、とか、うれしい、とか、さびしい、とか、かなしい、とか。そういうものを感じる心が、あったのだろうか。
あの娘を見ていると、昔、関係した女を思い出すよ、と友人は言っていた。
友人が、昔、関係した女というのは、長い黒髪を上手に纏めて上げていた。何か小物を買ってやると、次の逢瀬のときに必ずそれを身に着けて待ち合わせの場所に来る。ピンと伸びた背筋を撫でると、やめて、と言われた。美しいと思ったその声も、もう、過去の声だった。逢うたびに、この女と出会うのはこれで最後のような気がした。それでも、離れれば逢いたくなった。そして、出会ってから一年の後、女は病で死んだ。友人は、女の死に目には間に合わなかった。女が死ぬのを見るのが、辛かったのかもしれなかった。
女が死んだ後、友人はその当時よくあったように尋常に見合いをして、尋常に結婚をして、子どもを育て、孫も生まれた。孫が小学校に上がる前、妻は死んだ。その葬式の後、友人と差し向かいで呑んだ。水の中の娘の話を聞いたのも、そのときだった。
怖いねぇ、と友人は言っていた。
僕はあの女を愛していた。妻のことではない。昔、関係した女のことだよ。彼女が死んだときは、本当に悲しかった。本当に、愛していたのだもの。けれど僕は、結婚した。結婚したら、妻が愛しくなった。生まれた子どもも愛しかった。孫のことも愛しい。あんなに愛した女が死んで、もう生きていけないと思ったほどだったのに、それでも僕は、あの女以外の誰かを愛することができたのだ。今だって僕は、妻が死んで自分の半分がなくなったくらいに悲しいのに、辛いのに、生きていけないと思うほどなのに。それでも、生きていくのだろう。怖いねぇ。
また別の誰かを愛することもあるのかと思うと、怖いねぇ。
水の中の娘の掌が、ガラスとほんの少しの隙間を隔てて、自分の掌と重なったように見えた。自分が動くと、水の中の娘も動く。自分がほほ笑むと、水の中の娘もほほ笑む。水の中の娘は、許しているのだ、と感じられた。感じられて、苦しくなった。
ガラスと、ほんの少しの隙間を隔てて、水の中の娘に顔を寄せた。水の中の娘も、顔を寄せてきた。黒い、長い髪が、ふわふわと揺れて、水の中の娘の輪郭を曖昧にした。赤すぎるほどの赤い唇が窄まって、接吻しようとするかのような表情になる。細い眉と眉が寄せられて、キュウ、と苦しげだった。自分は、このような表情をしているのだろうか、と思う。水の中の娘が、自分を愛しく思っていなくても、自分は、水の中の娘を愛しく思い始めているのだろうか。それは、陸の上で呼吸する自分の醜い願いか。水の中で呼吸する娘の、美しい呪いか。
あなたがいとしい、と水の中の娘は言った。
君が愛しい、と自分は答えた。
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