儚〜ゆめ〜

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儚〜ゆめ〜

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 台所に妻が立っている。出会った頃の、二十代の姿だった。
 妻は三年前、交通事故で死んだ。私より五歳若かった妻は、四十九歳だった。
 若い妻の髪は短い。細く滑らかな首から続く肩の線はなだらかだった。着ているものは、ゆったりとした生地の長袖だった。色は卵の黄身のような黄色。卵の殻を割って、解き放たれたような、艶やかな卵の黄身ではなかった。フライパンで焼いた目玉焼きからとろりとにじみ出たような、温かみのある卵の黄身だった。その袖口を肘まで捲っている。下は、グレーのズボンで、体の線に忠実に張り付いていた。妻の脚は少年のように細く、のびやかだった。全体的に見ればテレビで見るモデルのような無駄のない体だが、身長が低いため、モデルと言うより発展途上の中学生だった。
 私は食卓に行き、そっと椅子に腰掛けた。妻は何かをボウルの中で必死にかき混ぜている。熱したフライパンからはもくもくと湯気が出ていた。
美由紀みゆきさん」
 妻に呼びかけると、背を向けていた妻は振り向いた。さっきまで真面目に引き締められていたらしい表情が和らぎ、こぶりな唇が、柔らかく開かれた。一瞬「あ」と言いかけるような表情になる。
春志しゅんじさん」
 妻は私をそう呼んだ。
「ごめんなさい。私、さっき起きたばっかりでまだご飯できていないの」
「いや、それはいいんだ。それより」
 フライパン、と言いかけて妻の方が先に気づいたらしく、湯気を立てるフライパンを見て、わ、わ、と声を上げた。妻は大急ぎで、ボウルから黄色いものをフライパンに流し込んだ。ジュウン……と鋭く後を引く音がした。妻がボウルの中でかき混ぜていたのは卵だったのだ。妻の着ているシャツが、強く色を持ったように見えた。あ、あ、と言いながら妻が菜箸でフライパンの中をつついた。
「どうしたの?」
「卵焼き」
 妻は心細い声を出した。唇の隙間から、チロリ、と人よりも少し大きな前歯が覗く。
「綺麗に焼くつもりだったのに、油を敷くのを忘れちゃったの」
 妻は言いながら、フライパンに張り付いてしまったらしい卵をどうにかしようと、菜箸でつついている。
 私は立ち上がり、妻の肩越しにフライパンの中を覗き込んだ。卵が哀れな様子でフライパンに張り付いていた。妻が菜箸でフライパンの中をつつき回すために、卵はフライパンの中でますますぐちゃぐちゃとかき回されていた。
「貸してごらん」
 妻に言って、フライパンと菜箸を受け取った。コンロの火を消し、菜箸で卵を思い切ってかき混ぜた。茶色い焦げ目がめくれて、黄色い卵の中に混じる。隣で妻がまた、あ、と声を上げた。
「こういうのは、思い切ってスクランブルエッグにしてしまおう」
 私は言って、妻ににっこりとして見せた。すると妻も、仕方なさそうな表情を浮かべて、そうね、と言った。柔らかな唇が、曖昧な弧を描いた。
 スクランブルエッグにした卵をトースターで焼いたパンの上に乗せて食べた。なんとなく物足りないと思って、その上からさらにケチャップをかけると温かなスクランブルエッグと、ケチャップの冷たさに驚いた。
 私がスクランブルエッグの上にケチャップをかけるのを興味深そうに見ていた妻は、美味しいの、と首を傾げて問うてきた。僕はあまり好きじゃないと答えたのに、妻は構わず、ケチャップをスクランブルエッグの上にたっぷり乗せて大きくかぶりついた。唇の小さい割に、大きく開く口だった。案の定、ケチャップをかけすぎたらしい妻はぎゅっと顔を顰めた。唇に、赤いケチャップがてらてら光っている。

 九時ごろ、私はリビングで作業をしていた。二十年以上会社勤めをしていた傍らで書いていた小説が、あるコンクールで受賞したのをきっかけに、作家に転身した。文芸誌で取り上げられただけの小さな賞だったが、作家に転身するには良いきっかけになるんではないかと思った。私は昔から、作家になりたかったのだ。物語を描く作家に。
 子どもも独立して働いていたので、転職するにはちょうどいいと思った。それでも一応貯金を確認すると、自分でも少し驚いてしまうくらいの蓄えがあった。酒も煙草も苦手で、唯一の楽しみといえば本を読み、作家の真似事をするくらいのことだった。
 会社を辞めることを決めた日、都会で働く娘に連絡をした。いいと思うよ、というのが娘の言葉だった。それから、笑いの混じった声で続けた。私、小さい頃、お父さんは物語を作る人だと思っていたんだよ、と。少なくとも、小学生くらいまではそう信じていた。友達にも、私のお父さんは作家さんなんだよ、と話していたらしい。
 作家さんにしては、あくせくと動いているな、と思っていたのだという。小説家や漫画家など、作家といえば一日中書斎に籠もって、じっと椅子に座って万年筆をカリカリ動かしている足元で、書き損じた原稿用紙がいくつもくしゃくしゃになって山となっているのが世間のイメージであるのに、お父さんは毎朝スーツをぴっしりと着て、どこかに出かけているから、どういうことなんだろう、と思っては、外で物語を書いたり、アイディアを練ったりしているんだな、と勝手に納得していたんだとか。
 どうして娘が、そんな勘違いをしていたのか分からなかった。私は娘のために、何か物語を書いた記憶はなかった。娘が幼かった当時も、仕事や育児の合間にペンを動かしては出来上がった短編小説をコンクールにこっそりと応募していたが、子どもに読ませるような内容ではなかった。
 けれど一つだけ、思い当たることがあった。私は娘が小学校に上がる記念に、本をプレゼントしていたのだ。オルコットの「若草物語」で、表紙に美しい四姉妹が描かれているのを見て、つい手が伸びてしまったのだ。自分で包装紙とリボンを買って、同僚の女性に教わりながら本を包んだ。幼稚園を卒園したばかりの娘にはあまり喜ばれず、私は随分とがっかりした。今思えば、幼い娘に小説をプレゼントしたことの方が間違いだったのだろう。同じ「若草物語」でも、絵本にすれば良かったじゃない、と、妻には言われたのだったか。
 そんなことを思い返しながらパソコンを開き、パチパチとキーボードを叩いた。
 私にしては一大決心をして作家に転身したものの、作家の道は思っていたよりも厳しかった。好きなものを好きなように書けばいいのかといえばそういうわけでもないことを知った。翻訳の仕事や雑誌の短編コーナーで生活費を稼ぎ、常に締切に追われているかのような焦りが付きまとう。教訓染みたことを語っているつもりはないが、人からは先生と呼ばれる。自分が先生と呼ばれるのにふさわしくない人物だとは分かっている。
 それでも、私の作品を好きだと言ってくれる人もいる。
「虹色の雨」という短編集を去年出版したが、これが悪くない評価を頂いた。久しぶりにまとまったお金が手に入り、作家になってから初めて、ファンレターというものももらった。薄桃色の封筒に入った可愛らしい便箋には、表題作の「虹色の雨」も素晴らしいが、自分は「雪が降る」が一番好きだと丁寧な言葉で書かれていた。
「雪が降る」は「虹色の雨」のなかでも比較的短い話だった。両親が離婚して父親と離れて過ごす主人公が、父親に手紙を出しに、郵便局まで向かう道のりを淡々と描いただけの物語だった。物語というより、エッセイのようだと、知人から言われた。運命的な出会いをするわけでも、何か事件が起こるわけでもない、それこそ日記のような、なだらかな物語だった。正直、好きと言ってくれる人はいないと思っていたから、ファンレターの内容は素直に嬉しかった。
 手紙を読むことが好きだった。ファンレターをもらっても、返事を書くのはやめたほうがいい、と編集部からは注意されているが、本音を言わせてもらうなら、丁寧に返事を書きたかった。私は手紙を読むのも好きだったが、手紙を書くのも好きだった。だから、私の書く小説には、よく手紙の文言が使われるのかもしれない。
 ふと作業の手を止めて時計を見ると、作業を始めてから既に一時間近く経っていた。少し休憩することにして文書を保存し、パソコンの電源を落として、硬く凝った首を回した。そこで、妻の姿が見当たらないことに気づいた。
 トイレだろうか、と思ったがその気配はなかった。台所にもいない。窓の外から庭を見てみたが、花壇を弄っている姿もなかった。美由紀さん、美由紀さん、と家の中をぐるぐる回っていると、二階の方から、はぁい、と声がした。妻が二階の寝室から、ひょっこり顔を出すのを、下から見上げた。
 私は、崩れ落ちそうな安堵を感じた。
「何をしていたの?」
 穏やかに問うと、妻は一冊の本を掲げて見せた。「虹色の雨」だった。
「春志さんの邪魔をしちゃいけないと思って、本を読んでいたの」
 まるで川の向こうから呼びかけるように、声を張って妻は答えた。私は、そんなに大きな声を出さないでも聞こえているよ、という意味を込めて笑いかけた。
「僕の本だなんて、つまらないだろう」
「そんなことないわ」
 妻はむっとしたように答えて、階段を駆け下りた。つま先立ちで、とんとん、という音がする。軽やかで、無邪気な音だった。
 実家に犬がいた。大きくて、ふかふかした犬だったが、最後には病気で弱って死んでしまった。弱っていく彼を見て、可哀そうだと思った記憶があるのに、思い出すのは彼が元気に走り回っていた姿ばかりだった。妻の走り方や歩き方は、彼のそれと似ていると、思ったことがある。
「私、『雪が降る』という話が好きよ。これって、春志さんの昔話?」
「違うよ」
 私はソファに腰掛けた妻の隣に座り、そっとその肩を抱き寄せた。妻の体の温かさに照れて、すぐに離した。
 私の両親も離婚して、父親とは離れて暮らしていた。母はその数年後、私が中学生のときに会社員の男性と再婚した。無口だったが、優しい人だった。血の繋がった父は家族の絆というものに冷淡な人で、殴られたことこそなかったが、愛情らしいものを受け取った思い出もない。母はそれに耐え切れず、私を連れて家を出たのだろう。両親も二番目の父も、今は死んでしまった。
「僕の血の繋がった父親は真面目だったが冷たい人でね、優しくされた思い出なんかなかったし、手紙を出した思い出もないよ」
「そうなの?」
 妻は意外なようだった。黒目の大きい目だ。
「しかし、なんだか奇遇だね。僕が初めてもらったファンレターにも、『雪が降る』が一番好きだと書かれてあった」
「その人、春志さんに憧れて作家を目指したりするかしら」
「さあ」
 私は苦笑した。
「僕に憧れても、碌なことにならないだろう」
「きっとそうよ」
 妻は何故か確信しているようだった。

「春志さんは、今どんな小説を書いているの?」
 また小説の作業を始めて暫く経った頃、妻に訊かれた。時計を見ると、十一時を少し過ぎていた。
「話しかけても良かった?」
 問う妻に目をやった。
 リビングには、二つのソファが直角に並べられている。私から見て縦の向きに置かれているソファの足元に、妻は座っていた。そうすると、小柄な体がますます小さく、可憐に見えた。妻はテレビを眺めながら、何気なく訊いたのだ、という体に見えた。
 寂しかったのかな、と思った。私はパソコンの電源を落としながら、大丈夫、と言った。一見すると社交的な妻は、寂しがり屋なところがあった。しかも、寂しがり屋なのを恥じているようだった。今も、その斜め後ろから見える横顔は、唇が歪むのを堪える表情だった。寂しいというより、退屈だったのかもしれないが。
「今は雑誌の企画でね、宝物をテーマにした短い話を書いているんだよ」
 妻が少し首を傾げて、私を見た。
「短いって、どれくらい?」
「ほんの、十五分くらいで読み終わる小説だよ」
「でも、書くのはものすごく時間がかかるのね」
「僕の場合だけど、一日や二日では終わらせられないな」
 妻は振り返り、微笑んだ。左手を床に突っ張るようにして、私に向かって身を乗り出している。その左手の薬指に、古い結婚指輪がくすんだ光を放っていた。若い妻の手は、痛々しいほど滑らかだった。それなのに、結婚指輪は古びているのだ。
「春志さんの宝物は、何なの?」
「知ってしまったら、面白くないだろう」
 そうかしら、と妻は首を捻った。私は妻から目を逸らし、テーブルの上に置かれた自分の手を見た。静脈の浮いた、薄く、平べったい手だった。爪の色が乾いている。キスをするよりも抱き合うよりも、妻は私と手を繋ぐ方が好きだった。
「美由紀さん、散歩がてら、カフェに行こう」
 私は言った。妻の顔が子供のように華やいだ。
「春志さんからデートに誘ってくれるなんて珍しい」
「デート?」
「夫婦が二人きりで出かけるんだから、デートです」
 デート、という久しく聞いていなかった単語に目を丸めると、妻は面白がるように肩を揺らした。それから、お化粧をするから、と言って、弾むように二階に上がった。
 私が免許を取ったばかりの頃、よく妻を乗せてドライブした。その頃、妻はまだ妻ではなかった。暫くは楽しそうにしていたが、ある日妻は私に、車はあまり好きではないの、と告白した。
 酔うんですか?と問うた私に、妻は首を横に振った。そうではなくてね、と言いかけて、少し迷うように手を揉み合わせた、妻の姿を覚えている。その頃から妻は、髪が短かった。
 そうではなくてね、私、車であっちこっちに行くよりも、あなたと手を繋いで散歩をするのが好きなのよ、分かる?
 その日、妻に言われた言葉が耳をついて離れず、眠ることにも難儀した。最初は、妻を喜ばせるつもりでしていたことが、妻にとっては迷惑だったことにショックを受けたのだと思っていた。でも、それ自体は大した傷ではないのだとも思った。理由も曖昧なまま、私は眠れなかった。
 眠れぬまま寝返りを打つと、たっぷりと水を湛えた水盆のように、頭の中が揺らぐようだった。そして、あ、と気付いた。妻は私をいつもの、春志さん、ではなく、あなた、と呼んだのだった。あなた、だなんて、長い年月を共にした夫婦のように、柔らかく。
 トイレに行って財布と鞄を持って玄関に出ても妻はまだ準備をしているようだった。私は玄関の上り口に腰掛けて、両手を合わせて指先を下に向ける体勢で、妻を待った。
 妻は出かけるのが好きだった。同時に、出かけるために準備をするのも好きなのだと、結婚してから気が付いた。妻は待ち合わせの時間は守っていたから、一緒に暮らす前までは気が付かなかった。最初の頃は待たされることにじりじりしたりもしたが、今となっては慣れたものだった。慣れなかったのは娘だった。
 娘は待つということが苦手だった。幼い頃は、特に顕著だった。落ち着かなさげな様子で、二つに結んだおさげを口元に運び、やっと準備ができた妻が来れば、遅い遅いと怒った。挙句の果てには、お母さんが遅いからもう出かけたくなくなった、と言い出し、そんな娘をなだめるのにまた時間がかかった。
 妻と結婚してから、初めて知ったことがたくさんあった。妻も私と結婚して、初めて知ったことも、きっとあっただろう。
 パタパタと動物のように忙しない足音がして、やっと妻が顔を見せた。派手な化粧ではないが、目の辺りがきらきらしている。服装まで変えていた。黒いチェックのワンピースの上に、茶色いコートを羽織っている。
「着替えてきたんだね」
「久しぶりのデートだから、張り切っちゃったのよ」
 妻はえへへ、と笑いながら、また、デート、と言った。
「目の辺りの、その、キラキラ、なんていうんだっけ」
「これ?これは、アイシャドウ」
「目の形が、さっきよりもくっきり、浮かび上がるようだね」
「そういうお化粧だもの」
 そうか、と私は答えた。
 化粧をした妻の若い顔は、初めて見たような美しさだった。

 妻とは、友人の紹介で知り合った。最初に出会った日、綺麗な人だとは思ったが、妻は殆ど何も話さなかった。こちらから何か話しかけても、小さく首を傾げるか、声を立てずに笑うばかりだった。
 帰り際、友人から、悪かったな、と言われた。普段は明るくてよく喋る子なんだけど、今日はなんだか緊張していたみたいだ、これに懲りず、また会ってくれ、と。
 すまないと感じるほどのことでもないのに、と思った。私の方こそ、あんなにおしゃれで素敵な人に、面白い話の一つもできないで申し訳ないという気持ちだった。謙虚、誠実、と人から言われていた私だったが、はっきり評価してしまえば、陰気なたちだっただろうと思う。当然、女性から好かれるような男でもなかった。また逆に、女性を積極的に好きになるようなこともなかった。
 だから、戸惑っていた。美由紀さんともっと話していたいと思う自分に。これほどまでにはっきりと、人を好きになったと自覚したことはなかった。
 一目惚れだったのだろう。
 先ほどまでただ手を繋いでいただけだったのに、いきなり腕を絡ませてきた妻に驚いた。しかも、ごく自然な仕草だった。腕に当たる妻の胸が、温かだった。
「美由紀さん、驚いてしまうよ」
 妻がふふ、と笑った。柔らかに空気が揺れる気配がした。
 恋人だった頃ですら、ここまで互いの体がくっつくことは、あまりなかったと思う。私は少し、ドキドキとしていた。顔には年相応の皺が浮いて、髪には灰色のものが混じっているのに、こんな少年のような気持ちになるのは恥ずかしいと思う。若い姿で現れた妻の姿に引っ張られているようだった。
 隣で歳をとっていく妻の姿を見るのは、花が朽ちていくのをスローモーションで眺めているようだった。あるいは、夜空に咲いた花火が消えていく様。火花がちかちかと瞬きながら、夜空の黒に溶け込んでいく様を。
 悲しい、とは思わなかった。朽ちていようが私にとって花であることには変わりなく、消えようとするその一瞬まで花火は光り輝いている。妻より美しい人はいないと思っていたし、そんな妻と共に歳を取っていくことが嬉しかった。
 坂道を上った先にカフェがある。いつからあるカフェなのか、どうにも記憶が曖昧だった。私が結婚したころにはなかったカフェだと思う。娘が生まれてからできたのだろう。こじんまりした外装で、初老のマスターとその妻が経営している。こんな人目のないようなところにひっそりと経営しているのだから、道楽だろうと思うのだが、少ないメニューの質は充実していた。
「入りましょう」
 妻は言った。
 私から妻を誘っておきながら、私はこのカフェに来たことはあまりなかった。一人暮らしになってから、ふとした拍子に思いついて立ち寄る、といった程度だった。妻は娘とともに頻繁に来ていたらしい。ビスケットが売っていて、それをお土産に買ってきてくれることがあった。
 私と妻は窓際の席に向かい合って座った。妻の姿が私以外に見えなかったらどうしよう、それに気づいたら妻は消えてしまうのではないかと思ったが、若いウエイトレスは愛想よく、二名様ですね、と言ってくれた。
 店内には私たちの他に女性の二人連れと、親子連れがいた。親子連れのほうは、子どもが少し不器用にフォークを使って、パスタを食べていた。
 妻はメニューを見ながら、何にする、と私に訊いた。
「何がおすすめなのかな?」
「トマトとチキンのサンドウィッチと書いてあるわ。でも、グラタンも美味しそう」
「じゃあ、サンドウィッチにしようかな」
「それじゃあ、私は野菜たっぷりのナポリタンで」
 妻が、すみません、と手をあげると先ほどのウエイトレスが来て、注文を聞いてくれた。少々お待ちを、と言って奥のマスターに注文を言った。マスターは頷いた。
 娘はここでアルバイトをしたいと言っていた。高校の夏休みだった。友達に誘われたと言っていた。
 娘が通っていたのはゆったりとした校風の高校で、長期休み中のアルバイトが禁止されているわけでもなかった。よく知っている店で、マスターとも顔なじみになっていた。でも、私は反対した。学生の本分は勉強でしょう、と言った。 
 皆、バイトくらいしているよ、と娘は反抗した。珍しく、頑なに見えた娘を見て、私もむきになってしまったと思う。皆って、誰なの、そういう人たちは、遊びも勉強もしっかりと両立できる人たちなんだよ、と返した。娘は黙ってしまった。娘は努力家ではあったが、数学の成績が芳しくなかった。
 私、お父さんのこと、あの時恨んだわ。就職をしてから、娘は何度も言った。恨む、という言葉を使いながら、楽しそうだった。
 妻が死んでから暫く、娘は私を気遣って頻繁に帰省するようになっていた。大学に入学してからは一人暮らしを満喫していたらしく、殆ど家に寄り付かなかったのに。
 私をアルバイトに誘ってくれたのは、マスターの親戚の子だったの。いい子だったわ。それに何より、美人だった。私たちは仲が良かったけれど、まだまだ全てを打ち明けられる、という関係には至っていなくて、だから、アルバイトの件は、いい機会だと思ったの。でも、お父さんが、どうしてもいいって言ってくれなかったから、私たちは本当に仲良くなる機会を逃してしまったわ。お母さんはすぐに、いいよって言ってくれたのに。
 恨んだわ、お父さん。
 娘は大学を卒業した後、食品関係の企業に勤めていたが、今は小学校の支援員をしている。幼稚園の頃、娘は短冊に「保育士さんになりたい」と書いていた。お姫様やアニメのキャラクターになりたいと真面目に願う年頃にしては、現実的なことを書くのだな、と思った。思慮深い子、ともよく言われた。
 幼い娘を思い出そうとすると、手紙を書いていた指を思い出す。細く、触れれば壊れそうな指だった。誰に向けて書いていた手紙だったかは分からなかった。訊いても、恥ずかしそうに笑うばかりで答えてくれなかった。妻には、ひょっとしたら教えていたかもしれない。けれど、それを訊く前に妻は死んでしまった。若い妻にそれを訊くのは怖い気がする。君は娘が誰に手紙を書いていたか分かるかい、などと。娘って、誰のこと、と無邪気に問い返されてしまったら。
 妻はナポリタンを、丁寧に食べた。私はサンドウィッチをゆっくりと頬張った。丁寧と、ゆっくりは違う。妻は食べることが好きだから、丁寧にナポリタンを口に運ぶが、私は食べることが辛いから、ゆっくりとサンドウィッチを頬張った。
 若い頃は沢山食べた。回転ずしに行けば、二十皿くらい平気で食べた。私が沢山食べると、周りの人に驚かれた。私は痩せているというわけではなかったがさして大柄でもなく、食が細い印象に見えたらしい。けれど、歳をとってから(そう感じ始めたのが、いつの頃からはどうにも曖昧だが)食べることが辛くなった。苦痛、と言ってもいいかもしれない。食べることがとにかく億劫に感じられて、昼食を抜くどころか、その日一日の食事はリンゴ一つだけ、という日もあった。この日は久しぶりに、しっかりと朝食を食べた日でもあった。
 妻は食べることは好きだったが、一気に沢山は食べられなかった。二人でレストランに入ったとき、妻は無理をしてハンバーグステーキを食べて苦しい思いをしていた。そのときは車で遠方まで出ていて、近くに休めるような場所もなかった。けれど、妻があまりにも気持ち悪がっている様子だったので、駐車場で車を止めて、後部座席で少しの間眠らせた。あれほど苦しい苦しいと言っていた妻の顔は、眠ってしまえば穏やかだった。
 思えば妻の寝顔は、いつだって穏やかだった。苦し気に顔を歪めて眠っていたのは、幼かった娘だった。妻の隣でぎゅっと顔を顰め、泣き出しそうな表情で眠っていた。けれど一度眠ってしまえば朝まで起きることは殆どなかった。私の知る限りではあるが。
 夢を見ているみたいよ、妻は言った。鬼がね、追いかけてくるんですって。怖いの、って訊いたら、少し、と答えていたわ。
 私は、守らなければ、という義務を持って、娘に接していた。守らなければ、と思うあまりに触れるのが怖いとすら思った。けれど、娘が危ない目に陥ればいつでも助けたいと思っていたし、そうするのが父親としての責務だと感じていた。守りたいと、守っていたとは違うのだと、妻から娘の夢の話を聞いて知った。
 ねえ、と妻が言った。若い顔で、歳をとったような表情で微笑んでいる。目を瞬けば、妻の表情は痛ましいほどのあどけなさに戻っていた。
「美味しいわ、これ。春志さんも、食べる?」
 言いながら、フォークに巻き付けたナポリタンを差し出してくる。甘いケチャップの匂いがした。
 サンドウィッチを半分ほど食べて、もう腹がいっぱいだった。しかし、私は微笑んで、そっと口を開けた。ナポリタンが口の中に入ってくる。しっかりとした歯ごたえだった。
「春志さんのも、食べていい?」
 妻が言うので、私はナポリタンを口の中で頬張ったまま、まだ口をつけていないサンドウィッチを妻の口元に運んだ。妻はそっとサンドウィッチを齧り、表情を綻ばせた。美味しい、とみずみずしい声で言った。歳をとるにつれて、妻の声は低く、柔らかになっていった。
 ふと、女性の二人連れの客が見えた。こちらを見て、何かひそひそと話しているように見える。歳が離れたカップル、という風に思ってくれていればいいと思いながら、私はすぐに目を逸らした。
 結局私は、サンドウィッチを半分残してしまった。妻はナポリタンを全部食べて、私の残したサンドウィッチまで平らげた。苦しくないの、と訊けば、少し、と答えるので笑ってしまった。

 妻は、今日のうちには消えてしまうのだろうかと思う。
 消えるかもしれない。けれど、今、私の目の前にいる妻が、この世のものではないなどと、誰が決めつけることができるだろうか。妻は出会った頃の、美しい姿で笑っているのに。
 夕食は和食にした。昼食に食べたサンドウィッチがまだ腹の中に残っているような気がしていたので、あっさりしたものを食べたいと思った。妻が米を研いでいる間に、私は味噌汁を作った。
 鍋に火をかける。具材は人参に、大根、玉ねぎ、じゃがいもにきのこ。
 結婚したての頃、料理が苦手な妻を手伝って、よく味噌汁を作った。しかし、いつしかそれもなくなった。妻の料理の腕が上達して、わざわざ私が手伝う必要がなくなったのだった。
 味噌汁を作ってくれたわね。妻がそう言ったのは、娘が家を出て、暫く経った頃だった。二人の生活にも慣れて、娘がいなくて寂しい、という感情にも馴染んでいた。私、春志さんの味噌汁が好きだったわ。また、食べたい。
 それなら、作ろう、と言って野菜を切った。しかし、作らなかった期間が長かったので、所々手順が朧ろだった。野菜はどうやって切ればよかったのか、味噌を入れるのが先か、豆腐を入れるのが先か。味噌の加減はどれくらいがちょうどいいのか、他にも忘れていることはないか。そんな不安を抱えながら作った味噌汁は、変な癖があるように感じられたが、妻は美味しいと言ってくれた。それでまた、味噌汁を作るようになった。
 妻と夫婦として二人きりで過ごしていた時間は、意外と短かった。こんなに短いと分かっていたなら、もっと妻と話をしたのに、とも思った。だから妻は、また私の前に現れたのかもしれない。私が何度も後悔したから。
 味噌汁を作り、魚も焼きあがり、それを炊き立てのご飯と合わせて妻と食べた。炊き立てのご飯は熱く、私たちは殆ど無言で夕食を食べた。その後、食器を片付けて、妻を先に風呂に入れた。
 妻が風呂に入っている間、またパソコンを起動して書きかけの小説に取り掛かった。
 一人の少女がいる。少女はお菓子の缶を持っている。それはゴミ捨て場から拾ったものだった。中身は当然空っぽだった。少女がお菓子の缶を洗って、最初にその中に入れたのは、すべすべとした黒い石だった。以来少女は、毎日、拾った石を缶の中に入れていく。やがて缶の中を石でいっぱいにしてやろうと思う。
 娘を海に連れて行ったとき、娘は泣いた。打ち寄せる波が怖かったのだという。せっかく海に来たのに、泳ぎもせず、砂浜で貝殻を拾うだけだった。私は娘を抱えて、つま先だけでも海水に浸してやろうとしたが、娘は頑として首を横に振った。妻も娘の怖がりように不安を感じたらしく、娘をスイミングスクールに通わせることにした。学校の授業などで水泳が始まったとき、娘が一人取り残されてしまっては大変だと思った。それに、いつ何時、水難事故に遭わないとも限らない。
 娘は最初のうちこそ素直に通っていたが、長じるにつれて、スイミングスクールに行くのを嫌がるようになった。バッグの中に水着を詰めながら、ボロボロ泣いたこともあったという。妻からその話を聞いたとき、そんなに苦痛なら無理に続けさせるのが可哀想だと思った。水に体を浮かすことさえ出来れば充分だろうとも思った。それで、娘が小学校四年生のときに、スイミングスクールを退会した。後で娘に話を聞くと、高圧的に怒ってくる講師がいたらしく、その人と顔を合わせるのが嫌だったのだ、と言っていた。少しでも通路を遮っている生徒がいると、足でつついてくるのよ、と言いながら、当時のことを思い出してくるのか悔しそうだった。娘も、足でつつかれたことがあったのかもしれない。
 幼い娘は、妻とよく一緒にいた。元々は二人で一人だったことを体現するかのように、娘は妻にくっついて歩いた。ときには私が嫉妬するほどだった。娘に必要とされる妻、妻に愛される娘、あるいはその両方に。
 妻が風呂から上がってきた。
「お仕事?」
 言いながら、私の脇からパソコンの画面をのぞき込もうとする。湿った妻の髪から、温かい湯とシャンプーの混じった匂いが、ふわりと漂った。
 妻はハッと身を引いた。妻の残り香が、柔らかく漂った。
「ごめんなさい、見ちゃいけなかった?」
「そうでもないさ」
 私は言って、いや、と言い直した。
「そうだね、完成していないものを見られるのは、恥ずかしい」
 私は文書を保存して、パソコンの画面を閉じた。うん、と伸びをすると、体の中の細かく硬いものが、パキパキと音を立てるようだった。自分で思う以上に、肩が凝っているようだった。マッサージをしてあげようか、と妻が言う。頼むよ、と私は答えた。
 妻の手が私の肩に触れた。意外と強い力で揉みこんでくる。肩甲骨の辺りに凝り固まっていたものが、湯の中に放った粉のように解れていくのを感じる。なかなか、気持ちがいい感触だった。思わず、気持ちがいいねえ、と言ってしまった。
 娘が家事を手伝ってくれたら、お小遣いを十円あげることにしていた。貯まったお金で、娘は雑誌や、お菓子を買っていた。娘が好きだと言っていたわらび餅は、もともとは妻が好きなものだった。そういえば、妻が死んだあの日も、私は妻のためにわらび餅を買って、帰るつもりだった。
「美由紀さん」
「はい、春志さん」
「君は、突然消えてしまったりしないかい」
 私の言葉に、妻は微かな笑い声を立てた。
「煙や幽霊じゃないのに、あなたを残して消えたりしませんよ」
 妻はそう言った。そうか、と思う。突然消えたりはしないのだな、傍にいてくれるのだな、と。
 妻の手は温かかった。
 このまま共に、当たり前の顔をして、明日を迎えるのではないか。
 そんなことを、思ってしまうほどに。
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