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深澄
二
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「お前にとって、今、近しくなりつつあるモノの話をする」
銀髪の男はそう言った。
朝起きると、母は既に起きていて、朝食の支度をしていた。渋みのある緑色の着物に黄色い帯を締めていた母は、フライパンに火をかけながら深澄を振り向いた。
「おはよう、深澄ちゃん」
「おはよう」
お母さん、と言った。
母と名乗る女性が現れて、三日が経とうとしている。母は深澄が、母が焼いたばかりの魚の身を解している向かい側に座って、いつものガラスのコップに水を注いで、味わうように飲んでいた。
記憶にもない、母と名乗る女性の存在を、ここまで自然に受け入れてしまうことが、「普通ではない」ということくらい、深澄にだって分かっている。けれど、受け入れてしまえば、後は簡単だった。身がすくむほどに怯えていた白い線を乗り越えて、何もなかったことに拍子抜けしてしまうくらい。
だって、母と名乗る女性は、深澄にとても優しくて、しかも、料理上手だった。受け入れてしまうには、それだけで充分のような気がした。例え、それが「普通ではない」ということだとしても。
「深澄ちゃん、今日の夕ご飯は何が良い?」
母は、幸福そうな表情で深澄に訊ねた。
深澄は少しの間、考える仕草で黙り込んだ。
「……お鍋」
「寒いものね。どんな味が良い?」
「キムチ鍋」
歯磨きをした後、深澄は学校の制服を着て、洗面所の鏡に向かいながら櫛で肩までかかる髪を梳かした。眼鏡が少し落ちて、鼻眼鏡になってしまっているのを、くい、と直す。
深澄の顔は、母に似ている。着物を着た母ではなく、アルバムに入っている写真に写っている母だった。母ほどの華やかさはないが、眼鏡の奥に守られているような、まつ毛の長い大きな目が印象的だ。深澄は母親似で、兄は父親似の日本的な顔をしているから、幼い頃は、兄や父とも似ていない自分の顔が不思議だった。
「深澄ちゃん、髪を結んであげましょうか?」
着物の、母の声だった。
「随分長くなってきたんじゃない?三つ編みにしたら、可愛いと思うわよ」
「お母さん、髪くらい自分で結べるよ」
ふわり、と髪が一房、優しく巻かれる感覚に、深澄は頭を振った。母はきっと、深澄のすぐ後ろに立っていて、深澄の髪に触れたのだ。
母の姿は、鏡に映っていなかった。
深澄は、自宅から近くにある停留所まで歩いて、バスに乗って学校に通う。学校まで歩こうとすると、一時間以上かかった。
バスには、深澄の他に乗客は数人だけだった。これから、次々と停留所からバスに人が乗り込んできて、乗客が増えていく。深澄はスクールバッグの中から文庫本を取り出して、読み始めた。父が舞台で演じる劇の、原作だった。
深澄の父は、舞台俳優なのだ。偶には、ドラマの仕事も行なっている。雑誌にも、そのインタビュー記事が載ることがあって、深澄はこっそりと、父の写真とインタビュー記事を切り抜いてノートにアルバム写真のように貼りつけて、保管している。飾り気のない大学ノートで、パッと見ただけでは何のノートかは分からないだろうが、深澄はそのノートを誰にも見せたことはない。兄だけは例外だったが、それも、兄が深澄の部屋から漫画を借りていこうとして、偶然見つけて、中身を見てしまったのだった。兄はそのことについて、感想らしいことは一言「俺たちの親父じゃないみたいだな」と言っただけだった。
父は高校を卒業すると、俳優を夢見て家を出た。昔、どこかの画家がアトリエに使っていたという小さな家で、二十五歳になるまでシェアハウスをしていたのだという。写真に写っていた母は、そのシェアハウスの住人で、父の友人だった人物の妹だったという。父は友人の顔からは想像もつかないほど可憐な母に目を奪われたが、母の方は雷に打たれたような一目惚れだった。親友の妹という立場を利用し、都合のつく限り父に会いに行き、熱烈なアピールをした。シェアハウスの住人たちで、夏にピクニックに行ったときも当然ついていき、おもちゃのようなサンドイッチを、弁当箱にギュッと敷き詰めて持ってきた。それまで、女性に積極的に好かれた経験のなかった父は、母の猛アピールに驚いたものの、美人に好かれて悪い気はせず、サンドイッチもモリモリと食べた。やがてある劇団に所属した父がシェアハウスを出ると、同じ頃に短大を卒業した母も父の後を追い、一緒にアパートで暮らすようになったという。
これが、深澄が兄から聞いた父と母の馴れ初めだった。兄は物事を誇張して話す癖があるので、余計な脚色も入っているかもしれないが、まぁ、ザッと事実だろう。
父は今、舞台の稽古の為、暫く家に帰ってきていない。父が、今の母を見たらどう思うだろう。昔、自分に情熱的なアプローチをしてきた女性とは違う、自分の子を生んで育て、カラフルなパラソルの下で笑っていた、母となった妻とも違う、そんな母と出会ったら、父は何と言うのだろう。拒絶するだろうか。それとも、受け入れるだろうか。外見など関係ない、自分の妻で、子どもたちの母なのだ、と。深澄のように。
深澄が一歳十ヶ月、兄が幼稚園児の頃に、母は車に轢かれて死んだ。深澄を、助けたのだという。兄はともかく、深澄には、母の記憶がまるでない。
深澄が、着物の母を受け入れることができたのも、或いは、その為かもしれない。
突然、バスが止まった。
深澄は文庫本から顔を上げて、赤信号だと気がついた。再び、顔を伏せて、文章を辿る。
バスの扉が開いた。
誰かが、またバスに乗ってくるのだ、と思った。バスの中は、もう大分混んでいた。座れるところといえば、深澄の隣の座席くらいかもしれない。
しかしここは、停留所ではないはずだ。
ギシ、と隣で椅子が沈んだ。
「よぉ」
疲れたような、しゃがれ声。銀色の髪。ほっそりとした、儚げな線の体。背中に背負っていた長い包みは、今は脇に抱えている。
ああ、幽霊ではなかったのだな、と思った。
それなら、妖怪か、何かそれ以外のモノか。停留所ではないところでバスを止めて、誰にも見咎められることもなく、バスに乗り込んでくるなんて。
「お前、今日、学校サボれよ」
その銀髪の男は、あっさりと言った。深澄への思いやりや配慮などない、投げやりな口調で。
「お前にとって、今、近しくなりつつあるモノの話をする」
乱れた銀色の前髪の下で輝く目の色は、吸い込まれるような黒だった。
銀髪の男がバスに乗り込んだ、次の停留所で、バスから降りた。銀髪の男は、降りよう、とは言わずに、いきなり席から立ち上がったのだ。深澄は慌てて、銀髪の男を追いかけた。
「近しいモノって?」
「ついてこい」
深澄が言うと、銀髪の男が答えにもなっていない答えを返した。歩きながら彼が名乗ったところによると、銀髪の男の名前は、ヒグラシというらしい。深澄も、自分の名前を教えたが、ヒグラシは気のなさそうな息を漏らしただけだった。
「近しいモノって」
ヒグラシを追いかけながら、深澄は言った。
「昨日言っていた、私の近くで、誰か蘇ったかって、話ですか?」
「それ以外何がある?」
ヒグラシは、素っ気なく言った。
「それ以外なかったら、こうして関わることもないだろうに」
「でも、蘇った、っていうのもおかしいです」
「何が」
ヒグラシの歩き方は悠然としていた。項で結んだ銀髪が、犬の尻尾のように揺れている。同年代の少女たちの中でもかなり小柄な深澄は、ヒグラシが一歩進むごとに、二、三歩、殆ど駆け足で進まなければならなかったが、何故だかヒグラシとは一定の距離を保ったまま、近づき過ぎることも遠ざかることもなかった。それでも、次第に歩き続けるヒグラシを追いかけることに夢中になって、深澄は無言になった。訊きたいことは、たくさんあったが。
例えば、ヒグラシのような目立つ外見の者を、周囲が気にも留めていないらしいことも、何となく気にかかった。高校の制服姿の深澄が、銀髪の男について歩いていても、声もかけられない。
そういうもの、と言われればそういうものかもしれないが、深澄には奇妙なことに感じた。
ヒグラシは深澄を振り向くこともせずズカズカ歩いて、深澄は彼に一生懸命について歩いた。やがて、息が上がってきた頃、ヒグラシは、一軒の店に入っていった。深澄はヒグラシに続いて店の中に入ろうとして、一歩下がって店の看板を見上げた。
「めぐりや」
そう書いてあった。
扉を押し開けると、チリン、と鈴が鳴った。
あちこちに、雑多なものが飾られている。意図して飾ったわけではなく、思いついた場所に思いついたものを置いているだけのようにも見えた。
振り子の柱時計。蝶の翅のようにヒラヒラしたドレス。触れれば崩れてしまいそうな本。深澄の腰くらいの背丈の、振袖を着た少女の人形。
「おい」
振袖の少女の人形に見入っていると、不意に、後ろから声がかかった。
ヒグラシが、腕を胸の前に組んで立っていた。ヒグラシよりかなり背の低い深澄は、彼から見下ろされる形になる。
「ここは、何屋さん?」
「一応、修理屋。壊れたものを直している」
ヒグラシは答えて、深澄が見入っていた振袖の少女の人形を、顎で差した。
「その振袖の子も、首と胴が外れて欠けていたんだ。孫がいたずらして、壊しちまった。爺さんが婆さんとの思い出の品だから、直してくれって持ってきた」
「何でも直せるんですか?」
「死んでなければ、な」
ここで初めて、ヒグラシはニヤリと笑った。
「それより、話がある。ついて来い」
ヒグラシは言って、振り子の柱時計の前に行くと、ずっしりとした見た目の柱時計の脇をググ……と押した。柱時計は、ズ、ズ、と重たく、低い音を響かせて、横へズレた。柱時計の後ろには、ポッカリと穴が開いていて、その向こうには階段が上へ続いているようだった。
「早く来いよ」
ヒグラシはそう言うと、自分はさっさと階段を登っていった。大股で進むヒグラシの姿は、すぐに見えなくなった。
深澄は、胸の前で、スクールバッグを抱きしめた。
砂の城が、崩れ落ちていくような不安感がある。ここまで、あの怪しい銀髪の男に素直についてきてしまったが、これから深澄にとって、楽しいことが起こるとは思えない。ヒグラシが階段を登って姿を消した今、逃げ出すならこの時以外にないとも分かっていた。
けれど、受け入れることの拍子抜けするくらいの容易さを、深澄は既に知っている。難しいのは、受け入れるまでの、その過程だ。深澄は、割とすんなりと、家で待つ母を受け入れたが。そして、それに、安らぎすら感じている。
深澄は、大きく一呼吸をすると、一歩、階段へ足を踏み出した。
銀髪の男はそう言った。
朝起きると、母は既に起きていて、朝食の支度をしていた。渋みのある緑色の着物に黄色い帯を締めていた母は、フライパンに火をかけながら深澄を振り向いた。
「おはよう、深澄ちゃん」
「おはよう」
お母さん、と言った。
母と名乗る女性が現れて、三日が経とうとしている。母は深澄が、母が焼いたばかりの魚の身を解している向かい側に座って、いつものガラスのコップに水を注いで、味わうように飲んでいた。
記憶にもない、母と名乗る女性の存在を、ここまで自然に受け入れてしまうことが、「普通ではない」ということくらい、深澄にだって分かっている。けれど、受け入れてしまえば、後は簡単だった。身がすくむほどに怯えていた白い線を乗り越えて、何もなかったことに拍子抜けしてしまうくらい。
だって、母と名乗る女性は、深澄にとても優しくて、しかも、料理上手だった。受け入れてしまうには、それだけで充分のような気がした。例え、それが「普通ではない」ということだとしても。
「深澄ちゃん、今日の夕ご飯は何が良い?」
母は、幸福そうな表情で深澄に訊ねた。
深澄は少しの間、考える仕草で黙り込んだ。
「……お鍋」
「寒いものね。どんな味が良い?」
「キムチ鍋」
歯磨きをした後、深澄は学校の制服を着て、洗面所の鏡に向かいながら櫛で肩までかかる髪を梳かした。眼鏡が少し落ちて、鼻眼鏡になってしまっているのを、くい、と直す。
深澄の顔は、母に似ている。着物を着た母ではなく、アルバムに入っている写真に写っている母だった。母ほどの華やかさはないが、眼鏡の奥に守られているような、まつ毛の長い大きな目が印象的だ。深澄は母親似で、兄は父親似の日本的な顔をしているから、幼い頃は、兄や父とも似ていない自分の顔が不思議だった。
「深澄ちゃん、髪を結んであげましょうか?」
着物の、母の声だった。
「随分長くなってきたんじゃない?三つ編みにしたら、可愛いと思うわよ」
「お母さん、髪くらい自分で結べるよ」
ふわり、と髪が一房、優しく巻かれる感覚に、深澄は頭を振った。母はきっと、深澄のすぐ後ろに立っていて、深澄の髪に触れたのだ。
母の姿は、鏡に映っていなかった。
深澄は、自宅から近くにある停留所まで歩いて、バスに乗って学校に通う。学校まで歩こうとすると、一時間以上かかった。
バスには、深澄の他に乗客は数人だけだった。これから、次々と停留所からバスに人が乗り込んできて、乗客が増えていく。深澄はスクールバッグの中から文庫本を取り出して、読み始めた。父が舞台で演じる劇の、原作だった。
深澄の父は、舞台俳優なのだ。偶には、ドラマの仕事も行なっている。雑誌にも、そのインタビュー記事が載ることがあって、深澄はこっそりと、父の写真とインタビュー記事を切り抜いてノートにアルバム写真のように貼りつけて、保管している。飾り気のない大学ノートで、パッと見ただけでは何のノートかは分からないだろうが、深澄はそのノートを誰にも見せたことはない。兄だけは例外だったが、それも、兄が深澄の部屋から漫画を借りていこうとして、偶然見つけて、中身を見てしまったのだった。兄はそのことについて、感想らしいことは一言「俺たちの親父じゃないみたいだな」と言っただけだった。
父は高校を卒業すると、俳優を夢見て家を出た。昔、どこかの画家がアトリエに使っていたという小さな家で、二十五歳になるまでシェアハウスをしていたのだという。写真に写っていた母は、そのシェアハウスの住人で、父の友人だった人物の妹だったという。父は友人の顔からは想像もつかないほど可憐な母に目を奪われたが、母の方は雷に打たれたような一目惚れだった。親友の妹という立場を利用し、都合のつく限り父に会いに行き、熱烈なアピールをした。シェアハウスの住人たちで、夏にピクニックに行ったときも当然ついていき、おもちゃのようなサンドイッチを、弁当箱にギュッと敷き詰めて持ってきた。それまで、女性に積極的に好かれた経験のなかった父は、母の猛アピールに驚いたものの、美人に好かれて悪い気はせず、サンドイッチもモリモリと食べた。やがてある劇団に所属した父がシェアハウスを出ると、同じ頃に短大を卒業した母も父の後を追い、一緒にアパートで暮らすようになったという。
これが、深澄が兄から聞いた父と母の馴れ初めだった。兄は物事を誇張して話す癖があるので、余計な脚色も入っているかもしれないが、まぁ、ザッと事実だろう。
父は今、舞台の稽古の為、暫く家に帰ってきていない。父が、今の母を見たらどう思うだろう。昔、自分に情熱的なアプローチをしてきた女性とは違う、自分の子を生んで育て、カラフルなパラソルの下で笑っていた、母となった妻とも違う、そんな母と出会ったら、父は何と言うのだろう。拒絶するだろうか。それとも、受け入れるだろうか。外見など関係ない、自分の妻で、子どもたちの母なのだ、と。深澄のように。
深澄が一歳十ヶ月、兄が幼稚園児の頃に、母は車に轢かれて死んだ。深澄を、助けたのだという。兄はともかく、深澄には、母の記憶がまるでない。
深澄が、着物の母を受け入れることができたのも、或いは、その為かもしれない。
突然、バスが止まった。
深澄は文庫本から顔を上げて、赤信号だと気がついた。再び、顔を伏せて、文章を辿る。
バスの扉が開いた。
誰かが、またバスに乗ってくるのだ、と思った。バスの中は、もう大分混んでいた。座れるところといえば、深澄の隣の座席くらいかもしれない。
しかしここは、停留所ではないはずだ。
ギシ、と隣で椅子が沈んだ。
「よぉ」
疲れたような、しゃがれ声。銀色の髪。ほっそりとした、儚げな線の体。背中に背負っていた長い包みは、今は脇に抱えている。
ああ、幽霊ではなかったのだな、と思った。
それなら、妖怪か、何かそれ以外のモノか。停留所ではないところでバスを止めて、誰にも見咎められることもなく、バスに乗り込んでくるなんて。
「お前、今日、学校サボれよ」
その銀髪の男は、あっさりと言った。深澄への思いやりや配慮などない、投げやりな口調で。
「お前にとって、今、近しくなりつつあるモノの話をする」
乱れた銀色の前髪の下で輝く目の色は、吸い込まれるような黒だった。
銀髪の男がバスに乗り込んだ、次の停留所で、バスから降りた。銀髪の男は、降りよう、とは言わずに、いきなり席から立ち上がったのだ。深澄は慌てて、銀髪の男を追いかけた。
「近しいモノって?」
「ついてこい」
深澄が言うと、銀髪の男が答えにもなっていない答えを返した。歩きながら彼が名乗ったところによると、銀髪の男の名前は、ヒグラシというらしい。深澄も、自分の名前を教えたが、ヒグラシは気のなさそうな息を漏らしただけだった。
「近しいモノって」
ヒグラシを追いかけながら、深澄は言った。
「昨日言っていた、私の近くで、誰か蘇ったかって、話ですか?」
「それ以外何がある?」
ヒグラシは、素っ気なく言った。
「それ以外なかったら、こうして関わることもないだろうに」
「でも、蘇った、っていうのもおかしいです」
「何が」
ヒグラシの歩き方は悠然としていた。項で結んだ銀髪が、犬の尻尾のように揺れている。同年代の少女たちの中でもかなり小柄な深澄は、ヒグラシが一歩進むごとに、二、三歩、殆ど駆け足で進まなければならなかったが、何故だかヒグラシとは一定の距離を保ったまま、近づき過ぎることも遠ざかることもなかった。それでも、次第に歩き続けるヒグラシを追いかけることに夢中になって、深澄は無言になった。訊きたいことは、たくさんあったが。
例えば、ヒグラシのような目立つ外見の者を、周囲が気にも留めていないらしいことも、何となく気にかかった。高校の制服姿の深澄が、銀髪の男について歩いていても、声もかけられない。
そういうもの、と言われればそういうものかもしれないが、深澄には奇妙なことに感じた。
ヒグラシは深澄を振り向くこともせずズカズカ歩いて、深澄は彼に一生懸命について歩いた。やがて、息が上がってきた頃、ヒグラシは、一軒の店に入っていった。深澄はヒグラシに続いて店の中に入ろうとして、一歩下がって店の看板を見上げた。
「めぐりや」
そう書いてあった。
扉を押し開けると、チリン、と鈴が鳴った。
あちこちに、雑多なものが飾られている。意図して飾ったわけではなく、思いついた場所に思いついたものを置いているだけのようにも見えた。
振り子の柱時計。蝶の翅のようにヒラヒラしたドレス。触れれば崩れてしまいそうな本。深澄の腰くらいの背丈の、振袖を着た少女の人形。
「おい」
振袖の少女の人形に見入っていると、不意に、後ろから声がかかった。
ヒグラシが、腕を胸の前に組んで立っていた。ヒグラシよりかなり背の低い深澄は、彼から見下ろされる形になる。
「ここは、何屋さん?」
「一応、修理屋。壊れたものを直している」
ヒグラシは答えて、深澄が見入っていた振袖の少女の人形を、顎で差した。
「その振袖の子も、首と胴が外れて欠けていたんだ。孫がいたずらして、壊しちまった。爺さんが婆さんとの思い出の品だから、直してくれって持ってきた」
「何でも直せるんですか?」
「死んでなければ、な」
ここで初めて、ヒグラシはニヤリと笑った。
「それより、話がある。ついて来い」
ヒグラシは言って、振り子の柱時計の前に行くと、ずっしりとした見た目の柱時計の脇をググ……と押した。柱時計は、ズ、ズ、と重たく、低い音を響かせて、横へズレた。柱時計の後ろには、ポッカリと穴が開いていて、その向こうには階段が上へ続いているようだった。
「早く来いよ」
ヒグラシはそう言うと、自分はさっさと階段を登っていった。大股で進むヒグラシの姿は、すぐに見えなくなった。
深澄は、胸の前で、スクールバッグを抱きしめた。
砂の城が、崩れ落ちていくような不安感がある。ここまで、あの怪しい銀髪の男に素直についてきてしまったが、これから深澄にとって、楽しいことが起こるとは思えない。ヒグラシが階段を登って姿を消した今、逃げ出すならこの時以外にないとも分かっていた。
けれど、受け入れることの拍子抜けするくらいの容易さを、深澄は既に知っている。難しいのは、受け入れるまでの、その過程だ。深澄は、割とすんなりと、家で待つ母を受け入れたが。そして、それに、安らぎすら感じている。
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