儚く遠く、近いところから

くるっ🐤ぽ

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祐志

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 同級生の少女が自殺しかけたのは、放課後、学校のトイレでのことだった。睡眠薬を大量に飲もうとしていたらしい。飲んでいる途中で具合が悪くなって吐いているところを、部活動中だった生徒が見つけて、学校医を呼んだ。その後、少女は救急車で病院に搬送された。
 少女の自殺未遂については、様々な憶測が飛び交った。学校の成績が伸び悩んでいたらしい、とか、付き合っていた他校のボーイフレンドに酷い振られ方をしたらしい、とか。学校では、いじめに関するアンケートが行われた。
 少女は、以前祐志に、付き合って欲しいと好意を告白してきた少女だった。けれどそれは、球技大会が終わって間もなくの、夏の頃だった。少女の自殺未遂に、恐らく直接の関わりがないだろうということは何となく分かっていた。自分にそう、言い聞かせもした。そうすることで、自分の中で落ち着かない、グルグルと唸るものを宥めようとした。
 夢を見た。
 ドロリと重たい泥濘に脚を取られ、沈み込んでいく夢だった。もがいてももがいても、泥濘は体に纏わりつき、祐志を底へ引きずり込もうとした。やがて祐志は、泥濘と思っていたそれらが、実は無数の手であることに気がついた。グニャグニャとした関節のない長い腕に、小さな掌がついているのだった。底へ引きずり込まれようとしながら、祐志は恐れ、けれど、受け入れるように目を閉じた。底には、何があるというのだろうか。
 目を覚ました祐志は、冬だというのにドッと汗をかいていた。枕元のスマートフォンで時間を確かめると、まだ朝の五時前だった。もう一度眠ろうとしたが、酷く腹が減って、眠れなかった。祐志は布団から起き上がった。
 一階では、直したばかりの時計が規則正しく秒針を動かす、カチ、カチ、という音が響いていた。祐志は洗面所でうがいをし、バナナを食べたが、余計に腹が減っただけだった。祐志はカップラーメンにお湯を注いで、三分待った。
 カップラーメンを啜っていると、二階から祐一が下りてきた。
「そんなもん、こんな朝っぱらから食ったら体に良くないと思うけど」
 祐一は言った。祐志は黙って、カップラーメンの汁まで一滴残らず飲んだ。漸く、空腹は癒えたようだった。
「腹が減っていたんだ」
 口元を拭いながら、祐志は言った。
「酷い悪夢を見て、目が覚めたんだ。もう一度寝ようと思ったんだけれど、腹が減って眠れなかった」
「どんな夢見たんだよ?」
「ものすごく、不快な夢だよ」
 祐志は、夢の内容を、覚えているだけ詳しく、祐一に話した。話しているうちに、段々と胃がもたれてくるようだった。やはり、こんな時間からカップラーメンなど食べるものではないのかもしれなかった。祐一は、祐志の顔色が段々と変わっていくことに気がついたようだった。そんなに不快な夢だったのか、と言う。祐志は頷きながら、口元を押さえた。
「……今は、何か気持ち悪い」
「夢のせいか?カップラーメンのせいか?」
「……これは、カップラーメンかな」
「それ見たことか」
 祐一は呆れたように言った。
「胃薬でも飲んでおけよ。朝からカップラーメンなんて食ったって知れたら、母さんに叱られるぞ」
「……薬は飲みたくない」
 女子生徒が睡眠薬で自殺しかけたことを思い出しながら、祐志は言った。
「睡眠薬じゃなくて、胃薬だよ」
 祐志の頭の中を見通したように、祐一は言った。ゾッとするほど明瞭な言い方だった。
 祐志はコップに水を注いで、胃薬を飲んだ。胃薬はすぐに効くわけでもなく、祐志は腹を押さえて呻きながら、テーブルに突っ伏した。
「そんな体勢していると、余計に具合悪くなると思うけど」
 祐一が言った。
「もう一度寝てろよ。まだ早いじゃないか」
「眠れないんだ」
「ソファで横になって、目を閉じてるだけでいいから」
 祐志は、立ち上がるときにも呻きながら、リビングのソファに横になった。背の高い祐志は、足が少し、ソファからはみ出した。祐志は重い腹を摩って、深呼吸をした。目を閉じて、夢の続きを見ることを恐れた。

 それから暫くの間、悪夢を見た。
 悪夢にも様々な種類があることを、祐志は知った。高いところから落ちたり、同じ場所をぐるぐると回ったり、わけの分からない化け物にどこまでも追いかけられたり。
 自分が、人を殺す悪夢も見た。誰を殺したのかは覚えていない。ただ、相手の胸に凶器を刺して、引き抜くときの、やけに生々しい感覚を覚えている。
 祐志は人を刺したことなどないから、実際に人を刺す感覚とは、もちろん違うだろう。分厚い肉を、包丁で切る感覚に近かったかもしれない。しかし、切るのと刺すのとは違う。祐志は夢の中で殺した相手を、冷たい目で見下ろした。夢の中で人を殺したことより、夢の中で殺した相手を、冷たい目で見下ろす自分が、祐志には恐ろしかった。夢の中とはいえ。
 否、夢の中にいるときには、それが夢とは気づかないのだ。祐志は、祐志の頭の中にあるもう一つの現実の中で、高いところから落ちたり、同じ場所をぐるぐると回ったり、わけの分からない化け物にどこまでも追いかけられたりした。夢の中で誰かを殺し、その死体を、冷たい目で見下ろした。
 災い、という言葉が思い浮かんだ。

 悪夢を見ながらも、祐志はいつも通り学校に通った。気候は段々と温かくなってきたかと思えば、急に寒くなったりした。祐一は教育学部のある大学に進学することが決まっていた。友人は、ガールフレンドに捨てられるかもしれないと、祐志に泣きついてきた。祐志は、どうにか友人を慰めなければならなかった。友人は落ち込んで、顔色が悪いようだった。友人の年上のガールフレンドは、東北の大きな美術大学に進学するらしい。友人の画力は、敢えて前向きな言い方をすれば個性的だった。この友人は、また年上のガールフレンドを追いかけて進路を決めるのだろうか、と思った。自殺しかけた少女は、病院に入院した後、すぐに退院したらしいが、その後再び学校に戻ってくることはなかった。
 ところで、悪夢のせいかは分からないが、また、自分の精神と、剣道で鍛えた肉体がそれほど脆弱なものとも思いたくはなかったが、ここ数日、祐志は夜になると微熱を出すようになった。食欲も減退した。昼間は全く問題ないので、学校にも通うのだが、夜になると、熱が出るのだった。その為に、期末試験も近づいているというのに勉強に集中することが出来なかった。祐志の成績は取り立てて優秀というわけではないが、試験で赤点を取ったことはなかった。しかし、それも今回は厳しいかもしれないと思った。特に、数学はわけが分からなかった。教科書のページを開いただけで細かい数字や小文字のアルファベットに目の奥がズクズクと痛む。それでも我慢して、公式を頭に叩き込もうとすると、脳の、どこか細い回路が焼けて千切れるようだった。そして、熱が上がってくる。
 祐一は、テストで一科目赤点を取ったくらいで死ぬことはないんだから心配するな、と言っていた。死ぬ、なんて軽々しく口にするなと、祐志は自分でも驚くような声で怒鳴った。直後、息が苦しくなるような沈黙だった。祐志はダン、ダン、と大きな足音を立てながら二階の自室に入り、バタン!と壊れるような音を立てて扉を閉めた。それから、スマートフォンで好きなお笑い芸人のコントの動画を流しながら、布団の中で横になった。目の奥が痛かった。頭も痛かった。熱もあった。そうしているうちに、眠ってしまったようだった。
 また、悪夢を見た。
 誰かの首を絞めている夢だった。それは、深澄のように思えた。喪服のような黒い着物を着て、眼鏡を外している。深澄が眼鏡を外したところなど、祐志は見たことがない。着物を着ているところも、見たことがなかった。それでも、これは深澄だと思った。本能に近い場所で。深澄は恍惚としたような、安らかに寝入るような表情を浮かべながら、祐志に首を絞められていた。その顔から段々と、肉が削げ落ちていき、生まれ変わったようにツルリとした顔になっていく。目が出来て、鼻が出来て、口が出来ていく。それは、深澄とはまるで似ていない、瓜実顔の、奥ゆかしい顔立ちの女性だった。女性は、祐志に首を絞められながら、ニコリ、と笑った。
 ああ、自分はこの人を殺そうとしているのか、それとも、ただ首を絞めているだけだろうか……
「昨夜は悪かったよ」
 翌朝、祐一に言われた。
 祐志は一瞬、何のことか分からなかった。脇の下に温度計を挟み込みながら、壁際に立って祐一を見た。
「悪かったよ……お前にも、色々あるだろうに、自分が気楽になったからって」
 そう言われても、すぐには思い至らなかった。電子音が鳴って、温度計を見てみると、熱は下がっているようだった。
「お前、昨日怒ってたじゃんか、俺の言ったことで」
 祐一が言ったことで、祐志は漸く、ああ、と気がついた。そんなこと、忘れていた。昨夜見た悪夢を思い出そうとしていたのだ。
「いや、僕の方こそごめん。調子が悪くて、怒りっぽくなっているみたいだ」
 そう言うと、確かに大した高熱ではないのだが、発熱しているときは些細なことにイライラして、落ち着かない気がする。今は穏やかで、落ち着いた気持ちだった。
「熱は?」
 父が言った。祐志は黙って、温度計を見せた。温度計に記された数字を見て、父は、ふぅん、と言った。
「今日は学校は休んで、病院に行った方がいいぞ。夜中に決まって熱を出すなんて、普通の風邪じゃないかもしれないからな」
「でも、大した熱じゃないんだよ。朝になれば熱は下がって、食欲も戻るし」
「じゃあ、今日は学校の近くの病院に寄って帰りなさいよ」
 台所にいた母が言った。
「今は試験前だから、部活もやっていないんでしょう?あそこのお医者さんは、患者さんに丁寧で優しいって聞いてるわよ」
「分かった」
 放課後、祐志は母から紹介された病院に向かった。優しげな雰囲気の医師は祐志の胸に聴診器を当てたり、喉の奥を覗いたりして見た。祐志は解熱剤と、痛み止めを処方された。深刻な病と言われることもなく、だからといって、特に原因が究明されることもなく、拍子抜けしたような気持ちだった。
 薬は効いたらしく、その夜、熱は出なかったが、また悪夢を見た。
 暗いところを落ちて、落ちて、果てもなく落ちていくような夢だった。夢の中で、祐志は腕を伸ばした。自分の腕では、ないようだった。祐志は途方もない気持ちになって、夢の中で目を閉じた。夢だと分からず、ただ、ここは遠いところなのだと思って、目を閉じた。

 期末試験が終わった週の日曜日、祐志は母に荷物持ちの為にデパートに連れて来られていた。祐一は、母に声をかけられる前に、大学から渡された、入学前の課題を終わらせなければならないなどと言って、上手く逃げおおせた。
 カートを押す母について歩いていると、深澄を見かけた。精肉コーナーで、女性と一緒にいる。今どき珍しいことに、その女性は着物姿で、長い髪をバレッタで纏めていた。瓜実顔の、奥ゆかしい顔立ちの女性だ。どこかで見たことがある女性の気がした。テレビなどで、似たような雰囲気の女優でも見たのかもしれない。女性と深澄は、何か会話をしながら、品物を吟味しているようだった。声をかけるのも躊躇われるような、仲睦まじさだった。深澄は女性のことを、お母さん、と呼んでいるようだった。
 家に帰って、期末試験で躓いたところを復習しながら、祐志は、ふと、気がついた。
 ちょっと待て。
 深澄の母は、死んだのではなかったか。
 妻と死別した後、深澄の父はずっと独身なのではなかったか。
 深澄自身も、母は死んだと言っていたではないか。
 それなのに、お母さん。

 何か、祐志には踏み込めない複雑な事情でもあるのだろうか。しかし、それでも何かが奇妙だった。小石を、無理矢理飲み込もうとしているかのような不快感と違和感があった。
 もう、勉強どころではなかった。祐志は目を閉じて、目蓋の上からグリグリと、両目を擦った。額の生え際に指を差し込んで、後ろへかき上げるような仕草をする。
 何だ……何だ……
 あの、着物の女性。

 あの……

 あの女性は、深澄の生き返った『母』なのか。
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