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花音

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◇◇◇

「ねぇ、花音が帰ってきたの」

 響子からその電話を受け取ったとき、加藤は自分の聞き間違いだと感じた。次に、響子の精神状態の安定を疑った。最後に、響子は専門の医師に診てもらうべきだ、と思った。
 響子とは、別居中だった。
「ここにいるのは辛いの」
 花音の葬式が終わって暫く経った頃、響子はポツリ、と言った。意図してそう口にしたわけではなく、抱えきれなかったものが溢れ落ちてしまったようだった。
「あちこちに、花音の匂いがする」
 響子はそう呟いて、目を見開いたまま、一滴の涙を溢した。
 加藤は、静かに涙を零し続ける響子の肩を抱き寄せることも、一緒に泣くことも出来なかった。加藤も傷を抱えていた、悲しんでいた。しかし、それは響子と同じ傷ではなかった。響子と同じ悲しみではなかった。
 加藤は、響子に寄り添うことが出来なかった。
 花音と響子と暮らしていたマンションを引き払った後、加藤は賃金の比較的安いアパートに入居した。響子も、別のアパートで一人暮らしを始めた。花音の小さな仏壇は、響子が引き取った。
 離婚しなかったのは、壊れてしまっても、花音や響子とどこかで繋がっていたいと思っていた自分がいたからだった。加藤はそうするように予めプログラミングされたロボットのように仕事をし、寝るためだけにアパートに帰った。月に一度、響子に会える日を心の支えにして、何とか日常をこなしていた。
 加藤さんと、花音の思い出が話せるのが楽しい、と響子は少しずつ笑うようになってきた。笑う響子を見て、加藤もぎこちなく笑みを浮かべた。花音の死で止まっていた二人の歯車は、ギシギシと軋みながら回転を始めていた。
 加藤が、花音と響子と家族として過ごした日々は、たったの数年だった。たったの数年だったが、花音と響子と過ごした思い出はたくさんあった。花音は小学校の課題で、鈴のついた色違いのストラップを、響子と加藤にくれた。加藤は今も、アパートの鍵に、そのストラップをつけている。響子は携帯電話に、ストラップをつけていた。
 日が昇り、朝が来て、夜になって、星が輝く。花音はどこにもいないのに。
「ねぇ、花音が帰ってきたの」
 響子は、微かに上擦ったような声で言った。
「喉が渇いたっていうから、麦茶を注ごうとしたら、水が飲みたいと言ったの。今、椅子に座って水を飲んでいるわ。ねぇ、花音が帰ってきたのよ」
 最後の声は、泣き出しそうになっていた。加藤は口から顎にかけて顔を撫でた。無精髭が掌に当たって、チクチクとした。
 響子は妄想に取り憑かれているのだろうか、と加藤は思った。花音の幻覚でも見ているのだろうか。今まで、そのようなことはなかったと思う。響子は少しずつ、ゆっくりと時間をかけて、花音がいなくなったという事実を、受け入れようとしているように見えていた。
 しかしそれは、加藤の一方的な思い込み、願望だったのだろうか。響子はずっと悲しくて、ずっと傷を負っていて、ずっと時間が止まったままだったのだろうか。
 加藤は、心療内科の医師でも、心理カウンセラーでもない。だから、こういうとき、どういった言葉を返せばいいのか分からなかった。喉の奥が、キュウ、と締まって、息苦しくなったようだった。
「そう」
 悩んだ末に、加藤は響子の言葉を否定しないことに決めた。
「そうか」
 花音が帰ってきたのか。椅子に座って水を飲んでいるのか。
「今度会うとき、花音を連れて行ってもいい?」
 響子の声は、もう、泣き出しそうではなかった。落ち着いて、穏やかな口調になっていた。
「花音も、加藤さんに会いたいと思うの。どうかしら?」
「ああ」
 加藤は、唾を飲み込んだ。喉の奥が、悲しみか困惑が、よく分からない感情で熱くなっていた。
「いいよ。花音に会うよ」
「ありがとう」
 電話を切った後、加藤は薄汚れたアパートの窓ガラスに、泣き出しそうな顔をした自分の顔が映っていたのに気づいた。加藤は布巾を絞って、窓ガラスを拭いた。溜め込んでいた洗濯物を、一気に洗濯機に突っ込んだ。狭い部屋に掃除機をかけた。卵を三個も使って、微塵切りにしたネギと塩胡椒を振って、卵焼きを作って立ったまま頬張った。洗い終わった洗濯物を、ベランダに干した。
 生きている、ということを感じていた。加藤は生きている。部屋の掃除をして、卵焼きを作って食べている。心臓が鼓動し、頭から爪先まで、血が巡っていることを感じていた。
「花音が帰ってきた」
 加藤は低い声で呟いて、自身の胸を叩いた。叩かれた、という痛みがあった。
「花音が、帰ってきた」

 待ち合わせ場所は、響子と二人でいつも会うレストランだった。
 響子は、ゆったりとした長いスカートに、薄桃色のブラウスを着ていた。加藤は、響子がスカートを履いているところを、結婚してから初めて見たような気がした。久しぶり、と笑う響子は、昼下がりの日差しを浴びて、美しく輝いていた。
 花音もいた。
 花音は、花柄のワンピースを着ていた。加藤と出会った頃と同じくらいの背丈に見えた。綺麗に生え揃ったまつ毛も、小さな鼻も、床に届かない足をブラブラさせる仕草も、花音そのものに見えた。ただし、髪は加藤と出会ったよりも長く、二本の三つ編みにされていた。
「久しぶり」
「ええ」
 加藤はまず、響子に声をかけて、響子はそれに答えた。
「花音も……」
「うん」
 花音は、最初に加藤と出会った頃のように、物怖じしない態度でニッコリ笑った。
 加藤は、花音の斜め向かい側の席に座った。
「花音、化粧でもしてるのか?」
 花音の唇が、やけに艶々と光っているように見えて、加藤は言った。花音は照れたようにエヘヘ、と笑って、コクコクと水を飲んだ。
「私がお化粧をしているのを見て、自分もやってみたいって言ったから、唇だけ塗ってあげたの」
 響子が言った。
「大人の女の人みたいだな、花音」
 花音は上目遣いに、首を傾げて加藤を見た。
「花音、何食べる?」
 加藤はメニュー表を広げながら、花音に訊いた。チーズや卵焼きの乗ったハンバーグ、黄色いお米のカレーライス、デミグラスソースがたっぷりかかったオムライス。
「お水だけでいいの」
 花音はそう言うと、コクコクと水を飲み干して、自分で新しく注ぎに行った。水しか飲まないみたいなのよ、と響子は言って、心の底から愛しげに、席に戻ってきた花音の頭を撫でた。
 加藤は、自分の食事の他に花音がよく好んで食べていた和風パスタを注文したが、花音は、本当に水しか飲まないらしく、一口も食べなかった。せっかく加藤さんが頼んでくれたんだからと、響子が小皿にパスタを少し取り分けて花音の口元に近づけても、嫌そうにそっぽを向いた。花音は、水ばかりコクコクとよく飲んで、五杯も水をお代わりした。そんなに水ばかり飲んじゃあ、腹がタプタプしないかと、加藤が笑うと、花音はキョトンとした顔をしてみせた。
 加藤は、本当に花音に会えるとは思っていなかった。また、響子が花音という少女を連れてくれば、自分はもっと動揺し、困惑するものだと思っていた。
 しかし、実際に花音に会ってみれば、加藤はそれを、すんなりと受け入れたのだった。花音は、加藤さん、と自分から加藤の手を繋いできた。花音も響子と同じように、響子との結婚前から変わらず加藤のことを、加藤さん、と呼んでいた。加藤も、無理に父と呼ばせようとは思わなかった。加藤さん、と花音が加藤を呼ぶ声が懐かしく、加藤の胸に、温かくじんわりと染み渡るようだった。花音の小さな手を握ると、キュッキュッ、と花音は何かの内緒話のように、二回握り返してきた。花音の顔を覗き込むと、大きな目が、双子の三日月のようにニッコリと細まった。
 果てのない夢から、醒めたような気分だった。

◇◇◇

 加藤の意識は、再び現実に戻ってくる。
 マサキ?
 真崎、正樹、真咲、正木……。
 特に、珍しい名前ではない。テレビで見かける芸能人などにも、そういう名前の者はいるだろう。加藤の昔の同級生にも、マサキという名前の人間はいた気がする。街ですれ違う人間の中にも、マサキという名前なり、苗字を持つ人間はいるだろう。
 しかし、ヒグラシの訊いているマサキとは、そういう類の人間には当てはまらないのだろうということは、何となく分かっていた。
 だから、知らない、と答えた。
「知らない?」
 ヒグラシは、唇の端をニヤリと上げた。そうすると、意地悪そうな、嫌な表情になる。
「いや、あんたはマサキを知っている。知らないフリをしているだけさ」
「何を言っているんだ、知らない」
 加藤は低い声で、早口に言った。
「大体、そのマサキとは何者なんだ?男か?女か?あんたはそいつを、誰に会わせようとしているんだ」
「俺はマサキを知らない。知っているのは、あんたじゃないか」
 加藤がどうにか落ち着こうとしている間に、ヒグラシはソファの背もたれに悠々と体を預けて、余裕たっぷりの態度を取った。テーブルの上にはヒグラシが飲み干したコーヒーカップと、届いたばかりのサラダが、手つかずのまま置かれている。
 ああ、この男の何もかもが憎くて堪らない。
「確かに、昔の同級生に何人か、マサキという人間はいただろうさ。でも、テレビの芸能人にだって、街中をすれ違う人間にだって、マサキという人間はいるだろう。その中から、あんたの探しているマサキを見つけるなんてことが、出来るわけないじゃないか。いや、出来るかもしれないが、とんでもなく手間がかかることだ」
「随分と、マサキが人間だということにこだわるんだな」
 加藤は唇を噛んで、膝の上で、掌に爪が食い込むほど拳を握り絞めた。そうでもしないと、今すぐこの男に掴みかかって、首を絞めかねなかった。
「俺だって、そんなめんどくせぇことはしねぇよ。そんなのは、探偵や警察の仕事だろうが」
「俺はもう、警察じゃない」
 加藤は吐き捨てるように言った。
 それは、ヒグラシにとっては、意外な言葉のようだった。加藤に、話の続きを促すように、無遠慮な視線を投げかけている。そのことに、加藤は微かな優越感を覚えた。
 一年間、休職をした後、警察官を退職した。そのことを、加藤はヒグラシに話してなるものかと、血の味が滲むほどに頬の内側を噛んだ。ドクドクと心臓が脈打って、体の血が逆流しているようだった。しかし不思議と、頭の芯は冷ややかだ。
「……あ、そう」
 やがて、どうでも良さそうに、ヒグラシは言った。
「とにかく、俺はあんたの探すマサキを知らない。残念だったな」
 加藤は、精一杯残酷な口調で言った。そのまま伝票を掴んで、立ち上がって、この銀髪の男の元から立ち去るべきだと思った。そして、今後一切関わらない。それが今の加藤にとっての、最善の選択だった。
 しかし、そうすることに一瞬の躊躇いがあった。慣れない道を、右に行こうか、左に行こうか、という躊躇いだ。そして、その一瞬の躊躇いこそが、命取りだった。
「あんたは、俺の探しているマサキを知っているぜ」
 ヒグラシは、皮肉を感じるほど淡々とした口調で言った。口元に、うっすらと、意地悪そうな笑いを浮かべている。
「知らないフリをしているだけだ。分かるだろう?」
 ヒグラシは、ソファの座り心地を確かめるように、身を捩った。
「あんたは、俺の探しているマサキを知っている」
「だから」
 加藤は、渇いた唇を舌で湿らせた。
「誰なんだよ、そのマサキは」
「知っているんだろ」
 ヒグラシは言った。
「誰かに会いたいという願いを、お前は知ってるんだろ」
 『蘇って』でも。
 以前の自分ではなくなっても。
 もう一度会いたい、と。
 加藤は知っている、その願いを知っている。
 その、残酷さも。
 全ては理解出来ないかもしれないけれど。
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