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第二章

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 リュカオンは、ここ数日具合が悪そうで、ソファにもたれて、湿らせた手拭いを目蓋の上に乗せて、ぐったりすることが増えた。その癖、夜も昼も碌に眠れないらしく、リュカオンの目の下に、青黒いくまが目立つようになった。雪芽ゆきめが来る以前から、食事を作るのはリュカオンの役割だったらしいが、ここ数日はそれもおろそかになって、フロースと雪芽が代わる代わる食事を作るようになった。しかし、リュカオンの複雑ながらも美味な味付けには、遠く及ばない。決して不味くはないと思うのだが、リュカオンはそれさえも、億劫そうにもそもそと食べる。そして、食後にはいつも、何かの錠剤のようなものを、水と一緒に、いかにも苦しそうに飲んでいる。雪芽がその薬について訊ねると、リュカオンは目蓋を手拭いで押さえながら、いかにも嫌そうに、自分の中の「狼」を抑える薬だと言った。それで雪芽は、満月が近いことを悟った。フロースはリュカオンの態度について何も言わない。満月が近づくと、いつもこのようになるらしい。この数日は、仕事さえも休んで、一日中ぐったりしている。口を利くのさえ、嫌がるようになった。雪芽は、心配のうちにも、何となく憂鬱になって、憂鬱のうちにも、何となくつまらなくなった。フロースは相変わらず物静かで、落ち着いていた。そして時々、チューリップの花びらを食べた。雪芽も、退屈まぎれに花びらを口に含んだことがあったが、最初に花びらを口にしたときのように、せてしまった。振り返ると、リュカオンが沈んだ目で、咳き込む雪芽を黙って見ていた。雪芽が来た当初、青い花瓶から零れるばかりだった赤いチューリップは、フロースに食べられるか、枯れるかして、殆どその姿を失っていた。
「狼になったリュカオンは、綺麗よ」
 フロースが言った。
 狼になったリュカオンを、見たことがあるかと、フロースに訊いたのだ。透明な水の中にぼかした絵の具が混ざったような、ほんの少しの退屈が混じった、好奇心の結果だった。リュカオンは、部屋の中で一人でぐったりしているらしかった。具合の悪そうな、言い換えれば「狼」に近づきつつあるリュカオンの姿を見ると、雪芽の気分は重くなった。
「毛皮は銀色で、目は白目の部分がオレンジ色になって、黒目の部分が金色になるの」
「怖くなかったの?」
 リュカオンとフロースと過ごす日々が続くにつれて、雪芽の口調も打ち解けてきた。
「ちっとも」
 フロースは、淡く笑って答えた。
「満月になると、リュカオンは森の奥にある、今は使われていない時計塔に上って、そこでひっそりと、狼になるの。薬のおかげで、人を襲うことはないと思うけれど、変身した姿を見られるのが恥ずかしいみたい」
「それなのに、フロースさんはどうして、リュカオンさんが狼になった姿を知っているんですか?」
「子どもの頃、こっそり見に行ったのよ。どんな風かなって」
 フロースは、その光景を思い出そうとするように、柔らかに目を細めた。そこに恐れはなく、ただ、懐かしいという感情だけが、触れれば揺らぐ布のように、存在して見えた。
「綺麗だった」
 綺麗、という言葉を、フロースは再び繰り返した。
「満月に照らされて、銀色の毛皮が、青白く輝いていたの。金色の目が、睨むようにこっちを見て、ゾクゾクした。体を撫でると、温かかった」
「触ったの?」
「こう……」
 フロースは自身の肘の窪みから、鱗の輝く手首まで、そっと撫でた。
「狼になったリュカオンは、じっとしていた。意外と、大人しかったのよ」
「噛みつかれなかったの?」
「私がもう少し美味しそうだったら、噛みつかれていたかも」
 フロースは楽しそうに言った。雪芽は、幼いフロースの影を見たような気がした。雪芽が、思わず微笑むと、フロースも、微笑びしょうを返した。
「リュカオンさんが人間に戻るまで、ずっと傍にいたの?」
「いいえ。ルーメンが私を迎えに来たから、帰ったの。私は、リュカオンが人間に戻るまで、ずっと傍にいたかったのだけれど」
「ルーメンさんは、フロースさんの保護者?リュカオンさんにとっての、マリアさんと、エリアスさんみたいなもの?」
「そう……そういうことになるのかしら?深く考えたことはなかったけれど」
 フロースは、妙な答え方をした。
「その人たちは、今、どうしているの?」
「さぁ……?」
 フロースは、また妙な答え方をした。
 雪芽は、今までずっと気になっていながら、訊けなかったことを、フロースに訊いた。
「フロースとリュカオンは、どうして一緒に暮らしているの?」
 フロースの答えは、さっぱりとしていた。
「どっちも、ひとりだったから」
 その日の午後、雪芽はフロースに教えられた道順を辿って、リュカオンが狼になるときに過ごすという、時計塔に向かった。灰色の壁はザラザラとしていて、時計塔の頂上には鐘がぶら下がっていた。くすんだ、赤い扉を掌で押すと、意外にも、鍵はかかっていないようだった。雪芽は、全身を使って扉を押し開けて、時計塔の中に入った。ステンドグラスから、暗い時計塔の中に虹色の光が差し込んでいる中を、チラチラと埃が舞っていた。曲がりくねった階段を上ると、高いところから、森から町の方まで、一気に見渡すことができた。雪芽は、この高い位置から、飛び降りたらどうだろうということを考えた。恐ろしくはなかった。狼になったリュカオンを見たフロースの気持ちも、似たようなものかもしれなかった。雪芽は、乾いた風を胃袋の奥まで吸い込んで、ゆっくりと吐き出すと、そのまま、階段を下りて帰った。
 その翌日、リュカオンは朝からいなかった。
 フロースは何も言わなかったが、あの時計塔で狼になるときを待っているのだと、雪芽には分かった。
 その日の晩は、見事な満月だった。
 雪芽は、あの時計塔の方から、狼の遠吠えが聞こえてくることはないだろうかと思っていたが、そのうち、それがフロースが狼になったリュカオンの元を訪れることはないだろうか、という考えにすり替わって、家の中から、何か、コトリ、とか、チャプン、という音がしないかと、家の中で耳を澄ませていたが、それを聞くことのないまま、いつのまにか眠っていた。
 翌朝、リュカオンは幾分か顔色が良くなった様子で、帰ってきた。
 そこに、狼の影は、微塵みじんも見えなかった。
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