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第四章

郵便屋さん

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「郵便屋さん」
 赤い自転車を押していたリュカオンは、その声に振り向いた。幼く見える少女が、転がるように駆け寄ってくる姿が見えた。その頭の横には、羊に似た、曲がりくねった角が生えている。
「手紙は?」
 少女はリュカオンの隣に並ぶと、弾む胸を押さえて、けれど、前に進もうとする勢いを押し殺しきれずに、上ずった声で言った。
「ちゃんと、リベラに預けたよ」
 リュカオンは短く答えた。少女は、不思議そうに首を傾げた。
「郵便屋さんが、届けてくれるのじゃないの?」
「『向こう側』と『ここ』を行き来できるのは、クラヴィスを持っているリベラだけだからな」
 少女は、分かったような、分からないような表情で、顎を引いて、頷く仕草をした。
 「向こう側」と「ここ」を自由に行き来できるのは、「遣いアゴ―」であるリベラだけである。だからリュカオンは、少女から「向こう側」にいた友人に宛てた手紙を預かったとき、それをリベラに託したのだ。
「一番、大事な友達だったの」
 羊の角を生やした少女は、ポツリと言った。他の人と違った見た目をしていた為に、周囲から疎まれていた彼女に、いつも味方をしてくれていた、大事な存在なのだという。この少女が住んでいた村で疫病が蔓延し、少女が生贄として捧げられる為に村の地下牢に監禁されたときも、爪が剥がれるまで少女を閉じ込める地下牢の鍵穴をこじ開けようとしてくれた。
「どうやったら、アゴ―になれるのかなぁ」
 少女が、呟いた。
「アゴ―になりたいのか?」
「だって、アゴ―になったら、自由にあの子に会いに行けるでしょう?」
 少女は、輝くように無邪気だった。リュカオンは、思わず微笑した。
「アゴ―になるには、現役のアゴ―から、直接クラヴィスを授かる必要があるらしいぜ」
 リュカオンは、少しからかうような調子で、少女に言った。少女の無邪気が羨ましく、痛ましかったからのことであった。
 リュカオンの知る限り、アゴ―は世襲制ではない。血縁や種族も関係なく、先代からクラヴィスを授かれば、アゴ―を名乗ることができる。望めば、アゴ―に自ら立候補することもできる。しかし、大抵は現役のアゴ―の指名で決まる。しかし、例えアゴ―が指名しても、クラヴィスが正しく受け継がれなければ、アゴ―を名乗ることはできない。アゴ―のクラヴィスを受け継ぐには、血縁や種族云々以前に、生まれながらの素質が必要とも言われている。いくら血反吐を吐くような努力をしても、現役のアゴ―に選ばれようとも、クラヴィスが――「王」の意思の一部を持つと言われるクラヴィスがその者を選ばなければ、正しいアゴ―にはなれない。そう考えると、最終的な決定権はクラヴィス――否、「王」にあるのかもしれない。
 雪芽のように「たどり着いたモノ」は、本当に稀なのだ。
 それはつまり――「王」に招かれたことを意味する。
 少女は、幾分か不服そうに、唇を尖らせた。
「じゃあ、リベラに直接頼むから、いいもの」
 リュカオンは、苦笑した。少女の小さな体には収まりきらない力が、少女の体を包み込んで、脈動しているように見えた。――そういうものが、実際に視えるモノもいるらしいが、リュカオンの目には映らない。ひょっとしたら、モリスやリベラ、ロサには視えているのかもしれない。
 吸血鬼ヴァンパイアは本物の「奇跡」を起こすことができる、唯一の一族とされている。リュカオンには視えないモノ――それこそ、「魂」と呼ばれるモノ――が視えていたとしても、驚くことではないかもしれない。
「お前が、次のアゴ―か」
「そうよ」
 少女は、少しツンとしたようだった。髪を結っている黄色いリボンを、指先でクルクルと弄っている。
 そういえば、フロースがまだ子どもと呼ばれるような年頃だった頃、リュカオンは、毎日のようにフロースにリボンを贈るルーメンが羨ましかった。大人になれば、ルーメンのようになれると思っていた。背が高くて、逞しくて、フロースから無条件に頼りにされるような大人だ。
 フロースは、ルーメンが大好きだったはずだ。名前のなかった彼女を「フロース」と最初に呼んだのはルーメンだ。ルーメンはフロースの庇護者で、父で、兄で、そして……
 そして――
 けれど、ルーメンはある日、突然姿を消した。アゴ―としての役目も、自分を慕うフロースも置き去りにして。
 ルーメンが姿を消したとき、彼は果たして、幾つだっただろうか。三十は越していなかったように思う。そもそも、吸血鬼は三十を越せば長生きと言われるほど、短命なのだ。今、現役のアゴ―であるリベラは、ちょうど三十である。リベラは「殺しても死ななそうな」という言葉が咄嗟に思い浮かぶほど頑健な肉体の持ち主であるが、実際は、吸血鬼としてはいつ死んでもおかしくない年齢なのだ。次のアゴ―が選ばれる日も、近いのかもしれない。
「アゴ―に選ばれたら、色んなことを頭にも体にも刻まなくちゃいけないから、大変だぞ」
「分かっているわ」
「本当かよ」
「本当よ」
 少女は、ますます、ツンとした。小さな鼻が、チョンと上向いている少女の横顔が、あどけない。
「あのさ、俺、もう行くけれど、いいかな?」
 リュカオンが苦笑しながら言うと、少女はツンとした後、チラッと横目でリュカオンを見て、少しの間拗ねたような表情をしていた。
「これでも、仕事中なの」
 リュカオンが言うと、少女は、肩を竦めた。仕方ないなぁ、と言うように。
「じゃあね、郵便屋さん」
「じゃあな」
 帰り道を行きかけた少女は、ふいと、リュカオンの方を振り向いて、ひらひらと手を振った。
「次もお手紙書くから、リベラによろしく」
 リュカオンはそれに、ひらひらと手を振って、答えた。
「お返事がきたら、ちゃんと、私に教えてね」
 リュカオンは、ゆっくりと自転車を押して、歩き出した。
 羊の角を生やした少女が「ここ」に来たのは、五十年前のことだと聞いている。
 大事な友達からの返事は、望めそうにない。
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