追放された王女は、冷徹公爵に甘く囲われる

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第8章 強硬策 ― 檻は公に閉じられる

夜が深まるにつれ、公爵邸の空気はわずかに変わっていった。

それは音のない変化だった。兵の配置が増え、巡回の間隔が短くなり、扉の開閉ひとつにも張り詰めた気配が滲む。エリシアは部屋の窓辺に立ち、闇に沈む庭を見下ろしていた。昨日までと同じ景色のはずなのに、胸の奥が落ち着かない。

王家は引かない。
それだけは、はっきり分かっていた。

背後で、控えめなノックが響く。使用人だ。夕食を運びながら、短く告げた。

「本日は、お部屋でお召し上がりください。夜間の外出はお控えを」

丁寧な言い方だったが、命令に近い。エリシアは頷いた。ここでは、彼女の身の安全が最優先だ。それは同時に、逃げ場が完全に閉ざされていることも意味している。

食事を終え、灯りを落としても、眠気は訪れなかった。昼間の応接の間、セドリックの視線、王家の言葉。胸の奥で、何かがざらつく。だが、そのざらつきを押さえ込むように、別の感覚が残っていた。ルシアンの手。短い言葉。逃がさないという確信。

そのとき、遠くで金属音がした。

ほんの一瞬。だが、耳が拾ってしまう程度には、異質な音だった。続いて、低い怒号。抑えた声で指示を飛ばす気配。エリシアの心臓が早鐘を打つ。来た。そう直感した。

扉が、内側から強くノックされる。

「エリシア」

ルシアンの声だった。即座に扉が開く。彼は外套を羽織り、剣帯を締めている。昼間とは別人のような、戦場の気配をまとっていた。

「動きがあった」

短い報告。「王家の兵が、外壁を試している」

試している。穏やかな言い回しだが、意味は明白だ。威圧、牽制、あるいは奪取。そのどれか、もしくはすべて。

「……どうなりますか」

エリシアの声は落ち着いていた。驚くほど、恐怖が前に出てこない。逃げるという選択肢が、すでに消えているからだろう。

「問題ない」

ルシアンは彼女の前に立ち、視線を合わせた。「だが、今夜で終わらせる」

終わらせる。その言葉に、胸が小さく跳ねる。

「来い」

彼は迷いなく手を差し出した。昨夜と同じ手だが、今度は拒否の余地を残さない。エリシアは一瞬だけ躊躇し、それからその手を取った。指先が絡む。しっかりと、逃げられない握り方。

廊下へ出ると、空気が一段冷たい。兵が整然と並び、主の動きを待っている。誰一人、エリシアを見て不躾な視線を向けない。それが、彼女が守られている証だった。

中庭へ出る扉の前で、外から声が聞こえた。

「ヴァルグレイヴ公爵! 王家の命だ! 第三王女エリシアを引き渡せ!」

夜気を裂くような怒声。エリシアの身体が反射的に強張る。王家の兵だ。数は多くないが、選び抜かれた精鋭だろう。

ルシアンは足を止めない。扉を開け、中庭へと進み出る。松明の光が揺れ、闇の中に武装した兵たちが浮かび上がる。

「無断侵入だ」

ルシアンの声は低く、よく通る。「退け」

「これは正当な命令だ!」

前に出てきた将校が声を張る。「第三王女は王家の所有物――」

その言葉が終わる前に、空気が凍りついた。

「所有物ではない」

ルシアンの声が、鋼のように冷える。彼は一歩前に出た。たったそれだけで、兵たちが息を詰める。

「彼女は、ここにいる」

言葉と同時に、彼はエリシアを引き寄せた。肩を抱く。公然と。ためらいのない動作だった。エリシアの身体が、彼の胸に触れる。体温が伝わり、呼吸が重なる。

「そして」

彼は続ける。「私が囲っている」

ざわめきが起きる。囲っている。その言葉の意味を、誰もが理解する。保護ではない。庇護でもない。所有とも違う。だが、最も強い拘束。

「王家が彼女を捨てたのは事実だ」

ルシアンは淡々と告げる。「不要だと判断し、追放した。今さら取り戻す権利はない」

「公爵! それは――」

「黙れ」

短い一喝。将校の言葉が途切れる。

「これ以上踏み込めば、敵対行為と見なす」

ルシアンの視線が兵たちをなぞる。「ここは私の領地だ。王家の権威は及ばない」

沈黙が落ちる。兵たちは、進むべきか退くべきか、判断を迫られていた。エリシアは、ルシアンの胸に触れたまま、その場に立っている。怖い。だが、逃げたいとは思わなかった。

将校が歯を噛み、声を絞り出す。「……本気で、王家を敵に回すつもりか」

「最初からだ」

ルシアンは即答した。「私は、王家に従ったことはない」

それは誇張でも挑発でもない。ただの事実だ。

やがて、将校は手を上げた。兵たちが、渋々ながらも一歩、また一歩と引いていく。松明の光が遠ざかり、闇に溶ける。

中庭に、静寂が戻った。

ルシアンはエリシアを抱いたまま、しばらく動かなかった。彼女の背に回された腕が、しっかりと存在を主張している。守るためであり、逃がさないためでもある抱き方。

「……終わったんですか」

エリシアが小さく問う。

「今夜の分はな」

彼は視線を外さずに答える。「だが、これで明確になった」

「何が、ですか」

ルシアンは、少しだけ彼女を見下ろした。松明の残光が、その目に影を落とす。

「君が、誰のものか」

言葉が、胸に落ちる。所有と言われたわけではない。それでも、その意味ははっきりしていた。公に示された囲い。王家の前で、選ばれたという事実。

彼の腕が緩み、だが離れない。エリシアは、そっと彼の衣を掴んだ。無意識だった。怖さが、まだ完全に消えていない。

「……後悔は?」

ルシアンが問う。

エリシアは一瞬だけ考え、それから首を振った。「ありません」

声は震えなかった。自分でも驚くほど、はっきりしている。

「戻りたいとは、思いません」

「よし」

また、その一言。短い肯定。だが、胸の奥に強く残る。

ルシアンは彼女を抱いたまま、屋内へ戻った。扉が閉まり、鍵がかかる音がする。外界から切り離された音。

部屋に入ると、彼はようやく彼女を離した。だが、距離は近い。近すぎて、息がかかる。

「今夜は、ここにいろ」

命令のようでいて、保護でもある言葉。「王家は、もう君に直接触れられない」

「……それは、あなたが」

「私が囲ったからだ」

淡々と告げられたその言葉に、エリシアの胸が熱くなる。囲われた。その事実が、恐怖よりも先に、安堵を連れてきた。

「覚えておけ」

ルシアンは低く言う。「今夜から、君は“取り戻される存在”ではない。“奪われない存在”だ」

奪われない。その響きが、心に深く残る。

彼はそれ以上何も言わず、扉へ向かった。だが、出ていく直前、足を止める。

「……怖かったら、呼べ」

振り返らずに言う。その声は、いつもより低く、少しだけ柔らかい。

扉が閉まる。

エリシアは、その場に立ち尽くしていた。胸の奥で、何かが確かに変わったのを感じる。王家に捨てられた王女ではない。奪われる対象でもない。

囲われた存在。
逃げ場のない檻の中で、初めて安心して息ができる。

その夜、エリシアはようやく眠りについた。
夢の中で、誰かの腕に抱かれている感覚を覚えながら。
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