『伝想家』 ~匠の技の守り人~

光り輝く未来

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伝想家

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 朝起きて、寝室のカーテンを開けると、抜けるような青空が窓の外に広がっていた。
 妻は台所で食事の支度をしていた。
 匠は妻のおんぶひもの中で寝息を立てていた。
 わたしは妻の頬にキスをして、匠を起こさないようにそっと頭を撫で、椅子に座った。

 みそ汁とアジの一夜干しとほうれん草のおひたしがテーブルに並べられた。

 大好きなものばかりだった。
 みそ汁をすすって、ほうれん草とご飯を口いっぱいに頬張ると口福こうふくが満ち満ちてきて、思わず頬が緩んだ。

「よく眠れた?」

「うん、眠れた。元気いっぱい」

「そう。良かった」

 ただそれだけの会話だったが、目の前に座る妻の笑顔を見ていると、なんとも言えない幸せを感じた。
 すると、その幸せに自分も参加したいと思ったのか、匠が目を覚ました。
 そして妻の肩越しにわたしを見た途端、「パパ」と可愛い声を発して手を伸ばした。
 おんぶ紐を解いて匠を腕の中に収めると、今度は妻の方を向いて、「ママ」と言って、手を伸ばした。
 妻が受け取って抱っこしたが、すぐにまたわたしを見て、「パパ」と言った。
 そんな感じでわたしと妻の間を何度も往復したので中々ご飯を食べるようにはならなかったが、そんなことはどうでもよかった。
 世界一の妻と世界一の息子がいるだけで幸せだった。
 これを至福しふくと言うんだろうな、としみじみ思った。
 これがいつまでも続いて欲しいと心から思った。

        *

「じゃあ行ってくる」

 玄関で妻と匠の頬にキスをし、バイバイと手を振り、バス停に向かった。

 バスは空いていた。
 ガラガラといっていいほど空いていた。
 しかし、席には座らず、つり革を持って、前を見つめ続けた。
 フロントガラスに映る景色ではないものを見つめ続けた。
 それは、自らの意志が引き寄せた未来設計図だった。
 人生を賭けて挑戦する使命だった。
 吊革を強く握りしめて、顎を引いて、しっかりと目に焼き付けた。

        *

 目的地が近づいてきた。 
 ブレーキ音と共にバスが止まった。 
 バスを降りて、空を見上げると、雲一つない快晴だった。

「申請日和だ」

 自分に言い聞かすように呟いた。
 そして、大きく深呼吸をしてから法務局の建物の中に入った。

 椅子に座って、書類を確認した。
 登記とうき申請書、
 登録免許税納付用台紙、
 OCR用申請用紙、
 定款ていかん
 払込証明書、
 発起人の決定書、
 就任承諾書、
 印鑑証明書、
 調査報告書、
 財産引継書、
 資本金額計上証明書、
 印鑑届書。

 大丈夫だ。
 すべて揃っている。
 ほっとして目をつむると、妻と匠の顔が浮かんだ。
 そして、オヤジとオフクロと妹の顔も。

 さて、

 自らを促すように声を発してから、窓口に向かった。

「お願いします」

 書類一式を担当者に渡すと、すべての書類が揃っているか一つ一つ確認したのち、登記申請書の会社名のところに指を置いた。
 そして、わたしに視線を戻して、確かめるように小さな声で読み上げた。

「間違いありません」

 わたしは頷いて、書類に記載した会社名に目を落とした。

 伝想家。

 担当者は申請書類を受理し、わたしに微笑みかけた。
 その微笑みの中に、古の大工の笑顔を見た気がした。

 完

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