62 / 79
漣
5
しおりを挟む
これがここに流れる現実かと、「…ははは、」乾いた笑いしか出てこない。
たった、たった少し話した程度の人間だからこそ、わからない。
よく、師に「気が短い」と叱られたことを自然と思い出した。
いくらでも、牢獄のように狭まったこの堂すら自由で、しかし自由なのに生きた心地がしないと感じてくる。
それほどここは自分と離れている。ある意味無差別で自分と変わらない筈なのに。
師も捨て友も捨て、僕は一体どこに足をつけるのか。
なんの神かは知らない、だが仏像が自分を見下ろしている。
いつもそれは確かに感じているような気がした。
苦無は鉄砲ではないが刃だ。
今更それを感じた高杉はただ何も言えなくなったまま、翡翠が手当てをする手順をぼんやりと眺めた。まるで、現実に引き戻ったかのように。
そんな中、翡翠がふと、「酒はないんですか」と訪ねてくる。
「酒は浄化に丁度ええんやけど」
そう、睨み付けるような視線はやはり何処か娑婆の者では無いと感じた。
「…逃げ回っていた」
それだけを聞けば戸の付近に座り見守るのみだった朱鷺貴が「持ってくる」と立ち去った。
ふう、と一息吐いた翡翠が「あと一歩で殺してましたよ」と、低く唸るように言う。
「…そうか」
きっとそうだ。
あの、血のように流れた漣の感情が沸き起こる。
「そうだろうな…」
だから、身を斬るような刃の音が耳の奥から聞こえてくるのだろうか。
「僕の師はとても強い人だったよ」
仏はいつでも見下ろしている。
「頑固で、勝手で…」
「師が死んでしまった」。
この男が寄越したこの男の同志が言った事柄も思い出された。
「…僕はきっと師にも怒られるだろう。志というのは、それほど正しく残酷なものだ」
きっと多くは語らないだろう。
この男には執着とは違う、捨てきった複雑な陰が絡んでいる。ある意味仏が説く「逢、殺」と同じものが見える気がした。
「志を託すものは皆傲慢なのかもしれません。情はどうしてもそれを濁らせる瞬間がある」
「…僕は優しさという利己で無駄なものが捨てきれていない、捨てられないんだ、たったそれだけで」
「優しさとは強さでしょうか高杉さん、」
そしてハッキリと「わてはそうは思わない」と彼は言った。
「それを捨てない志を斬り捨てることはわてには出来ない。貴方を例え傷付けることが出来たとしても。
役違いですが、それ故わての志と違えればいくらでも貴方の首を狩ります。捨てはしませんが夜にはお発ちください」
「…君は優しいな」
返すなら、間違いなく敗北はした。
しかしまだ血は流れ落ちているらしい。
「あの坊主が言ったことがあります。
『正しくないから罰せられる、だが正しいと思っている方は意思、信念の違いで理解が出来ないだろう』
と」
気付かないようにと気を使ったのか、坊主がこっそりと戸の隙間から酒を置いたのが見えた。
それに気付いた翡翠は酒を手に取り、少し血が止まったその足に遠慮もなくぶっかけてくる。
「痛ぇ、」という言葉は最早飲み干して歯を食い縛った。思ったよりも深手で、だが自分は生きている、その場所が奈落か現実かとさ迷うようで。
「高杉さん。役不足ですがこんな説法もあります」
という翡翠が漸く笑うのに、やはり現実であると色を見た気がした。
「舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。
色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。
と。
般若心経です。舎利子とは息子やら教え子やらを指すらしいです。
次に会うときはお亡くなりになったときの方が自然ですよ。勿論気持ちや志ではなく、身体が、です」
…それは酷く透明で大きなものだろうか、夜の空に嘆いたあの日の悔しさには、確かに潮風が混じっていたのだ。
…やはり教えというのは偉く利己的で頑固で勝手な、血生臭い物だ。どこへ行き何をしたとしても。
漸く痛みに麻痺し、慣れたところで「酒でもやらないか」と高杉は翡翠に持ちかける。
「やりませんよ」と言いながらまたその酒をぶっかける様は軽やかだった。
「夜長までこれで眠れず過ごしてくださいね」
柵を捨て、その先に待つものが自由だという教えがある。
それがもし、と翡翠は考えた。
たった、たった少し話した程度の人間だからこそ、わからない。
よく、師に「気が短い」と叱られたことを自然と思い出した。
いくらでも、牢獄のように狭まったこの堂すら自由で、しかし自由なのに生きた心地がしないと感じてくる。
それほどここは自分と離れている。ある意味無差別で自分と変わらない筈なのに。
師も捨て友も捨て、僕は一体どこに足をつけるのか。
なんの神かは知らない、だが仏像が自分を見下ろしている。
いつもそれは確かに感じているような気がした。
苦無は鉄砲ではないが刃だ。
今更それを感じた高杉はただ何も言えなくなったまま、翡翠が手当てをする手順をぼんやりと眺めた。まるで、現実に引き戻ったかのように。
そんな中、翡翠がふと、「酒はないんですか」と訪ねてくる。
「酒は浄化に丁度ええんやけど」
そう、睨み付けるような視線はやはり何処か娑婆の者では無いと感じた。
「…逃げ回っていた」
それだけを聞けば戸の付近に座り見守るのみだった朱鷺貴が「持ってくる」と立ち去った。
ふう、と一息吐いた翡翠が「あと一歩で殺してましたよ」と、低く唸るように言う。
「…そうか」
きっとそうだ。
あの、血のように流れた漣の感情が沸き起こる。
「そうだろうな…」
だから、身を斬るような刃の音が耳の奥から聞こえてくるのだろうか。
「僕の師はとても強い人だったよ」
仏はいつでも見下ろしている。
「頑固で、勝手で…」
「師が死んでしまった」。
この男が寄越したこの男の同志が言った事柄も思い出された。
「…僕はきっと師にも怒られるだろう。志というのは、それほど正しく残酷なものだ」
きっと多くは語らないだろう。
この男には執着とは違う、捨てきった複雑な陰が絡んでいる。ある意味仏が説く「逢、殺」と同じものが見える気がした。
「志を託すものは皆傲慢なのかもしれません。情はどうしてもそれを濁らせる瞬間がある」
「…僕は優しさという利己で無駄なものが捨てきれていない、捨てられないんだ、たったそれだけで」
「優しさとは強さでしょうか高杉さん、」
そしてハッキリと「わてはそうは思わない」と彼は言った。
「それを捨てない志を斬り捨てることはわてには出来ない。貴方を例え傷付けることが出来たとしても。
役違いですが、それ故わての志と違えればいくらでも貴方の首を狩ります。捨てはしませんが夜にはお発ちください」
「…君は優しいな」
返すなら、間違いなく敗北はした。
しかしまだ血は流れ落ちているらしい。
「あの坊主が言ったことがあります。
『正しくないから罰せられる、だが正しいと思っている方は意思、信念の違いで理解が出来ないだろう』
と」
気付かないようにと気を使ったのか、坊主がこっそりと戸の隙間から酒を置いたのが見えた。
それに気付いた翡翠は酒を手に取り、少し血が止まったその足に遠慮もなくぶっかけてくる。
「痛ぇ、」という言葉は最早飲み干して歯を食い縛った。思ったよりも深手で、だが自分は生きている、その場所が奈落か現実かとさ迷うようで。
「高杉さん。役不足ですがこんな説法もあります」
という翡翠が漸く笑うのに、やはり現実であると色を見た気がした。
「舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。
色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。
と。
般若心経です。舎利子とは息子やら教え子やらを指すらしいです。
次に会うときはお亡くなりになったときの方が自然ですよ。勿論気持ちや志ではなく、身体が、です」
…それは酷く透明で大きなものだろうか、夜の空に嘆いたあの日の悔しさには、確かに潮風が混じっていたのだ。
…やはり教えというのは偉く利己的で頑固で勝手な、血生臭い物だ。どこへ行き何をしたとしても。
漸く痛みに麻痺し、慣れたところで「酒でもやらないか」と高杉は翡翠に持ちかける。
「やりませんよ」と言いながらまたその酒をぶっかける様は軽やかだった。
「夜長までこれで眠れず過ごしてくださいね」
柵を捨て、その先に待つものが自由だという教えがある。
それがもし、と翡翠は考えた。
0
あなたにおすすめの小説
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる