回游魚は夢をみる【途中完結】

二色燕𠀋

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夜陰に潜む

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 …先生はああは言ったけども。

 僕は自分が酷くちっぽけに感じた。
 枕の血は真っ白に消えた。

 「よかったわね」と中川さんは言ってくれたけど、僕はなんだか不思議な気持ちで夜、その枕に顔を埋めることになった。

 …“浮”と言う字。

 僕は勝手に意味深さを感じている。あの、浮かぶような昨夜の景色が思い起こされてはまだ血の臭いがするような気がして、どうしてもちらちらと障子の先を見ようとしてしまう。

 全てが見透かされた気がして、本当のところ落ち着かなかった。

 半紙というものは裏から見ても黒いけれど、間違いは墨の染み具合で案外わかりやすいものだ。
 例えば、墨が足りないと重ねて書き足した時、裏を見ればハッキリと濃さが違う。どこから書き足したのかというのすら一目瞭然になるのだ。

 どこもかしこもそんなパッチワークだと言う気がするそれは、なるほど、「書など嫌いだった」と言うのは、そうなのかもしれない。
 しかし先生は自分でこうも言った、「余程の変わり者ですら飛び込もうとは出来ないだろう」と。

 ……そんな雑音を心で唱えるがやはり我慢も出来ず気になる。
 「ちょっとだけ」という、誰も見もしない理性故に、僕は静かにこっそりと少しだけ障子を開け、僕の部屋よりも奥まったゆずさんの部屋の方を見るもはっきりとは見れない。

 庭には今夜も月の光が差し込んでいる。そんな静けさにふと、川が月を映している。
 首が少しもたげるようなその部屋の作りは、丁度池が見やすいのだと気が着いた。

 …至って不自然だが。

 だとしたら、昨晩に僕が池の側の木陰に隠れ息を荒げたそれも、万が一にゆずさんに見透かされていたのかもしれないと今更急にそわそわ、ドキドキし始める。

 反射な生理現象にまた熱を孕み、それはみるみる焼けるように熱くなって、僕は、だけども障子を閉めないままに布団へ籠りあの潤んだ瞳を頭のなかで思い浮かべた。

 ハッキリとしているがどこか、自然で、ぼんやりともしていたように思う。

 僕の部屋から池は真っ直ぐに見える。
 あの、着物の下に隠された、白く滑らかな中に浮かんでいた赤くぼんやりした痕。

 目を瞑れば暗闇の中にあの艶ばかりが浮かんでくる。

 先生も顔を埋めたのだ。

 利き手で包み込み、ゆるゆると底から蠢く血潮のような感情に僕も呑まれそうになる。
 息も苦しい酸欠状態に痺れるような白い光が、まるで蛍のように沸き上がってきた。

 …あの影は。
 あの影はしなやかで、一定に揺れていた。その影は暗く見えたけれどその先は、一体。

 滑らかで、絹のようかもしれない、だけど全ては想像し得ない、それ故あの表情が唯一月明かりのようにハッキリと浮かんでくる。火照ってぼんやりしたあの艶めき。

 僕はそれを見下ろして生唾を嚥下するのだ。

 あの、整った表情が少しだけ崩れるように…額に薄く汗が浮かび薄い眉を少し潜め…その薄唇が少しだけ開かれ「旦那様」と、聞き取りにくい声で言われたなら………。

 しなやかで、僕より低体温そうな手触りを感じそうになったとき、掌に熱い滑りの感触を得て正気に戻った。

 現実は、冷たい月明かりの池。

 僕はそれに空虚…いや、痺れてじわじわ…じんじんと痛む胸の鼓動に息が上がりかけていた。

 …途端、全てに謝りたくなった。
 誰も見もしていないでありきたりな自然、日常なのに、後悔へ落ち込むのは急速だった。
 ただ、ひとつ浮かんでくるのは「ごめんなさい」で結局開け放たれたまま部屋なんて見れやしない。渇く前にティッシュを探して手を拭う。

 …虚しい。

 それしか浮かばない。僕は最低で矮小で汚い人間だ。
 だけど。

 一度沸き起こった暗い解放感に、すきま風が入ってくる。
 僕は静かにこっそりと、障子を閉めた。

 それが妙に生々しく、ひとりでは出来ない、あの…浮かび上がる景色が見たいと貧相な欲望が沸いてきて、まだ滑りが取り去れないと、結局こっそりと台所まで行って手を洗う以外に方法がなかった。

 それからすぐにダルさで疲れた僕はいつ寝たのかわからなかったが、ゆずさんを組敷いていた。

 夢の中の彼は腕で顔を隠し聞き取りにくく「酷い子」と僕をなじる、僕は彼の着物を少し開けてその滑らかな胸に口を付け、あの位置に赤い痕を付けたのだが、次の瞬間にはいつもよりも柔らかな表情で汗を僅かに滲ませる先生の顔と天井、汗が首筋に滴る姿を見ては、それ以上もなく朝日に目が覚めてしまった。

 また鼻血が枕に付着していた。頭が寒かった。

 その冷え具合は単調に「まだ鼻血でよかった」と、痛いほどに切ない下半身が治まるのをただただぼんやりと、障子の向こうを眺めて待つしかなくなっている。

 僕を起こしに来た中川さんが「あら、圭太ちゃん!?」と驚く頃には、いつもの僕に戻れていた。それが、酷く虚しいと感じるほどに。
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