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夜陰に潜む

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 2日後に漸く36.3℃まで熱が下がり、後悔をした。

 先生は「今度は鼻水か」と笑い飛ばしてくれたけど、折角初めて…弟子としてというか、大きな役目があったのに。
 僕は昔からタイミングと、要領が悪い。

 それでも布団に籠った熱はやりきれずにいて持て余していた。だが気力がないのが風邪というものである。

 展示会は一月後、展示期間は二週間で土日を休演にする。展示会の2日前までは作品を作り込み、後2日はレイアウトを決めるのだそうだ。

 先生はそれまでの創作期間、学校の秋休みまでは通常業務、その他はずっと書斎に籠っていた。
 僕はというと、決め事として先生が部活に赴かない火、木の夕方は先生と一緒に籠る、それ以外は自由でいつも通りだった。

 ゆずさんは季節の変わり目に丁度、僕よりも長めに風邪を引いた。時期が被ったのもあってか夜長灯りが灯るのも減り、更に襖は開けられることがなくなってしまった。

 それでも週一程度、先生はゆずさんの部屋へ行くようで、しかしそれはとても凪いでいるよう、静かに温め合っているように穏やかだったようだ。

 僕の夢は膨らむばかりだったが、心なしか僕は書に力強く没頭できたような気がした。
 「一段と良くなった」と先生も褒めてくれたし、そして先生もまた、流れる柳のよう、微細な払いの中にどこか幹を感じる力強さを孕んでいるようで、前よりも度々僕は自分の力なさに凹むことが増えた。

 決まってそれは、夜の後に。

「滾るようだな、圭太」

 先生は僕の「流動」を眺めてそう言った。
 その日の先生の「潮彩」はとてもなでやかで静かな強さを感じるものだった。

 奥の部屋から、咳が聞こえてくる。

「…ゆずさん、長いですね」
「昔からそうなんだ。季節の変わり目にはめっきり弱くて。微熱もまだあるし…」
「何かお持ちしましょうか。
 先生、明日から2日は特に忙しいですね」
「そうだな」

 先生はふぅ、と息を吐き半紙にゆっくり、最後の一枚、「刹那」と書いた。
 流す所作、止まる所作、払う所作、跳ねる所作。
 僕は息を飲んでそれを眺めるだけ。

 この企画で一番素晴らしい書だ、と、惚れ惚れした。
 半紙から字が浮かび飛び出して来そうな躍動感、なのに切なさがある単語に「先生、」と僕はついそれのみで言葉を失ってしまう。

 どうにも、どうにも敵わない。
 心に刺さりとても痛く感じた。

 鮮明に思い出した。
 僕はそう、この息が止まるような感覚でここを選んだんだ。

 夕方の穏やかな時間に「…よし、」と先生は呟き、それから奥の部屋を眺める瞳はとても、無表情の下で哀愁を帯びたように見えた。

「今日は部活の最終日だ。
 俺が出たらゆずに茶を運んでやってくれないか。ほうじ茶なんかが良いかもしれない。
 10分程ゆずの部屋で庭を眺めて、行ってくるよ」
「畏まりました」

 僕にそう言い付けた先生は立ち、トントンと戸を叩いてからゆずさんの部屋を開ける。
 戸の奥で半身を起こしたゆずさんの、潤んだ瞳と合ってしまい、僕は気まずく「では、」と書斎から立ち去った。

 障子が開く音と「少し庭を眺めようか」とゆずさんに言う先生の声に僕はどこか、もどかしいと感じていた。
 だが先生もきっといま、もどかしいはずだ。

 その下にも、非常に熱い物は宿っている。

 それから先生は間もなく家を出て行った。
 僕は先生の言いつけ通りにほうじ茶を運んだが、ゆずさんは薄く瞳を閉じ、まるで死んだように眠っていた。

 起こすのも身体に触るし、縁側へ回りそこに茶を置いておこうと思ったが、少し開いていた障子、きっとこの横顔は庭を見ていたのだろう。
 着物から覗く首筋や全ての美麗さに僕は何をしようとしていたか、一瞬にして忘れてしまった。

 …この綺麗な顔。どこか確かに、そう、壊れてしまいそうな切なさを感じる。

 先生はもどかしいのだ。

 ふいに手でその首筋に触れてしまったと気付いたのは、暖かさというよりは体温の高さが伝わってきたからだった。
 当たり前にその薄い目蓋は開かれ、ぼんやりと僕を見たゆずさんにしまった、と、目的を思い出す。

「…身体がお熱いですね。ほうじ茶をお持ちしましたが…」

 微笑む表情に艶を見る。

 起き上がろうとするゆずさんに「大丈夫ですか」だなんて、ならどうしようというのだ。自分は今深く動揺している。

 息が少し上がりそうだ。

 ゆずさんは本当に僅かばかり震えるように肩を上下させている。苦しいのかもしれない。
 僕は取り敢えず一杯だけ湯飲みにほうじ茶を注ぎ、「取り敢えず…」と、結局上手く喋れないままだった。

「…こまめに…来ますから。苦しかったら…」

 そうだ。
 「痛くないか?」「苦しかったら言ってくれ」というセリフは先生とゆずさんの秘密だった。

 思い出してしまった途端にぶわっと胸が熱くなる。

 僕がそれを知っているということを恐らく知らないだろうゆずさんは、小さく頷いてまた身体を横たえた。

 ゆずさんに布団を掛けてあげるのに、少しだけ近くなったゆずさんの熱い息や、白い肌のきめ細やかさを目前にしては勝手に手が震えそうになる。
 理性を保つ。

「…では。お夕飯も、呼びに来ます、」

 お暇し障子を閉める際に彼が一瞬、僕の先にある池を、熱が冷めないままに眺めていた。
 彼はその一瞬の真顔からまたうっすらと苦しそうに微笑んだ。

 あぁ、いまもどかしくて僕も底冷えする程に熱い。

 そして僕は早足で部屋に戻り、むず痒い、いや、ぐちゃぐちゃでわからない痺れに、布団に入り息荒くすることになった。

 あの表情。あれを求める先には庭があり、その先に…僕の部屋があるじゃないか。

 あの喉元が上擦ったとき。
 あの手が僕の背や、首筋や……もしもここに絡んでしまったら。熱くて堪らないだろう。

 しかし考えが膨らみ一瞬にして終わったとき、相当な敗北感に襲われる。これは、毎度そうで。

 あぁ、もどかしい、歯を噛むほどに。

 僕は気付けば寝てしまっていた。
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