蜉蝣

二色燕𠀋

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月夜

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 空太は蛍に構わず、先程蛍が盛大に×をつけた原稿にも手を伸ばした。

 正直なところ、作家の心情としてそれはあまり人目に公開したくないのだが。まぁそうは言っても仕方のない。そこにそれが置いてある時点で今回それは言及する立場でない。

「…これはこれで好きだけどなぁ。雰囲気あって」
「まぁ雰囲気小説だからね」

 最早蛍は諦めて台所に立つことにした。空太には言っても詮が無いことだ。

 ぼんやりと、しかし入り込むようにして人の原稿を模索しながら、「今回のテーマは?」と空太に聞かれた。そんなものは、

「雰囲気小説」

先程答えた。

「ふーん」
「あの、粟谷あわや空太そらたさん」
「なんでしょう」
「君は、」

 話してる最中に空太は没原稿を置き、スケッチブックを開いてしまった。最早聞く気はないらしい。

勝手なやつ。

 そう憎まれ口を叩くが、しかし蛍は蛍で、案外空太の、その愉快そうでいて真剣な表情でスケッチを捲る空太の横顔はわりと好きなのだ。
 なんだか、夢が見れるような気がして。

 夢という言葉には大抵二つの意味がある。
睡眠時の幻覚。
希望や将来への期待。

 そういえばどちらも、起承転結というものがないな、と蛍はふと思った。真剣にスケッチブックを覗く胡散臭い服装のセンスをした男をぼんやりと眺めて思う自分は多分煮詰まっている。しかしそれはそれで仕方ない。だってそれが実際の上柴楓の感性なのだから。

 いや…煮詰まっている、と言うよりは沸いている、なのかもしれない。湯で例えるなら。ではまだ、やはり足りないのか。

「蛍?」

 呼ばれてもピンと来ない。顔を上げて目が合って漸く「あ、あぁ」と蛍は我に返る。
 完璧に今の自分は上柴楓モードだった。

「どしたの?」
「ん?」
「心ここに非ずだよそれ。茄子は?鶏肉はお前の目の前にあるよ」
「うん…」
「ちょっと、上柴先生、」
「はい、作ります」

 薄ら笑いで、しかし空太は心配そうに溜め息を吐いて立ち上がり、床にスケッチブックを置いた。

 これは本格的に腑抜けている。少し焦って漸く蛍は冷蔵庫までの一歩を踏み出し、今朝採れて保管しておいた、ざるに入った茄子を取り出す。
 「蛍、」と真後ろから肩を叩かれ声がして、蛍は「うわっ、」と驚いて直立不動に硬直した。突然動きを止めたせいで、力が抜けて笊を落としそうになった。
 それを見て何が面白かったのか、空太は笑いだし、「俺がやりますよ」と蛍に言う。

「上柴先生はどうぞ執筆の方を」
「…は?」
「俺はほら、上柴楓が作品を落とさないと副職がないので」
「いやぁ、だって…」

 と言う蛍の抗議も聞かず、空太に着流しの袖を引っ張られ、促されるように腰をパンと叩かれた。これは本腰を入れろという嫌味なんだろうか。
 そして蛍は半ば強引に再びちゃぶ台へ押し戻される。

 渋々座ると目の前の台所から、「そらたの渾身の作品がそちらです、インスピレーションどうぞ」と、空太が茄子でスケッチブックを指してくる。

 それってあまりお行儀が良くないだろうよ、という悪態をついてやろうかと思ったが、空太がすぐに手元に視線を戻してしまったので、止めた。

「一枚は描いた。5枚は撮った」

 渾身の、と豪語したわりには進みが遅いようだ。

 そらたの絵のスタイルは、先程のようにポラロイドで写真を撮ってから始まる。
 自分で何気なく写真を撮り、そこから絵を描く。本人いわく“写真に近い絵”が描きたいらしい。しかしデッサンというヤツは、死ぬほど退屈なのだそう。

 写真をモデルに絵を描く。なんともこんがらがった感性と概念だが、確かにまぁ、言われてみればそらたの絵は、“写真”ではない。絵になる前の写真を見ているせいか、「じゃぁ写真で良いじゃない」とは言わない。また違った創作と世界観は作品に間違いなく入っているからだ。

 今回は公園のベンチ、真っ青な空、会社のデスク、噴水。かぐやがちゃぶ台の上で丸くなっているのが最後、一番上に重ねられていた。
 これはいつの間に撮ったんだろう。

「かぐや…」
「行儀悪いよなぁ」
「いつの間に撮ったの」
「そーゆー瞬間ってあるんだよ」

 そーゆー物なのか。これって狙ってないと、今日の経緯を考えたら絶対に撮れない。なかなか日常に入り込んで来たものだ、いつの間に。だってどう考えてもこれは今日撮ったものだ。前回はこのスケッチブックに貼ってなかったのだから。
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