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紫煙
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縁側でぼんやり、かぐやと蛍は池の鯉を眺めていた。
休日の昼下がり。煙草でも吸ってぼんやりと、起きたばかりの寝ぼけた頭を活性化させようと腑抜けていた最中だった。
今日は休日。日がな一日のんびりと店やら家の掃除をしたり執筆でもして時間を潰そうかという腐りかけた感性で昼間起きした所存。
そういやそうそう、この庭の鯉、いい加減餌でもやった方が、なんか情緒が安定するもんかと曲がった惰性で蛍が池を眺めていた矢先、廊下の木材が慌ただしく足音を運んだ。
何事かと、原因の方を見てみると、「ほた、蛍!」と、相当慌てたように幼馴染みの空太が駆け込んだ。
今日の空太の服装センスは相変わらず、ベージュのスーツに赤ネクタイという、どこと無く出版とは縁の無さそうなビジネススタイル。全体的に最早空太の服装はお笑い芸人のような胡散臭さだった。この出版社には服装のざっくりした規定等はないのだろうか。
廊下を走ってきた空太は、蛍の真横で見事、綺麗に滑るように正座する。
これは喜劇の一シーンか。果たしてそのスーツの膝は擦りきれないのだろうかと冷静に蛍は思う。冬物ならば大丈夫か、ただ、発火したりはしないのだろうか。
「おはよう、何?」
「お、おはよう。
いや遅いだろ。今起きたの?」
「さっき」
「あそう、飯は?」
「夢の中で蕎麦食べた」
「じゃぁ蕎麦を食いに行こう、いま、まさに今!」
「えー」
この男なぜこんなに慌てているのだろうか。と言うか忙しないのだろうか。
「あれ?…空太、仕事は?」
「今絶賛仕事中だよ上柴先生」
と言うことは空太がここに来たのは仕事関係の話があってなんだな。
確かに空太はちゃんとビジネス用の鞄を片手に持っている。出版社営業職が平日のこんな真っ昼間に休みの本屋に訪れるなんて、そうでもない限りはあり得ない話か。
「仕事?」
「はい、そうであります」
やりとりが蛍にはコントにしか思えなくて、空太にどう切り返そうか少々困惑した。
「今日は定休日なので営業は」
「いやいやいや!ちょっと待ちなさいよ違うよ!」
「まさしくコントだね」
耐えきれず蛍は吹き出してしまった。空太はそれに対し非常に奇妙な顔、と言うよりは困惑したような表情を浮かべるしかない。
「仕事って?」
「あ、そうそう」
蛍が話の先を促すと、空太は漸く切り替えて持参した鞄の中を漁る。
それで漸く蛍の脳も覚醒を始め一度伸びをすると、膝の上を陣取っていたかぐやが然り気無く優雅に離れて行った。
手が少し荒れている。最近乾燥しているからかなぁとぼんやり蛍は考えた。
「『紫煙』の扉絵、俺が書いたのは御存じ?」
「あぁ、そうなの?」
「やっぱりね。はい、これ」
空太はカバンから、明日発売予定の『月刊 文蝶』を取り出して付箋紙のページを開き掲げてくる。
間違いなく上柴楓の新連載のページであり、絵はそらたの物だった。
というか、この絵。
扉絵の、縁側で月を眺めながら煙草を吸う女の後ろ姿。横の白猫。
背景色はオレンジ、庭に移る姿や色彩が月だとわかる。この世界観、確かに上柴楓の『紫煙』だ。だがこの絵の背景はどう考えても今眺めているこの縁側ではないか。
では一体、この女は誰だろう。
「これ、いつ撮ったの?誰?」
「ついこの前だよ。これは君ですよ」
「は?」
いや、まぁ確かに絵は背中ですけど。それともモデルが?確かに絵の女くらいには、まぁ肩くらい、無精が祟り髪が伸びたかもしれないが、この絵はどうみても女性だ。肩の感じとかなんか体格が。
物語の主人公も、女だ。内気だがどこか頑固な25歳、取り残されてしまったかのような屋敷に猫と住み寂しいけど、煙草の煙を見て、心の中で昔を激しく懐かしむくらいの純粋な娘で。古傷を、触って確かめては自殺未遂をしてしまうような、そんな。
「モデルが俺なんですか」
「うーん、てか君を描きましたね。だって蛍こんな感じじゃん」
「いや…」
まぁ確かに頼りない体型ですけど?それを敢えて定義するというのはなんか、この男は自分に喧嘩を売っているのだろうか、案外気にしているというのに。
「野山さんが恐らく夕方に来るよ。
お前さ、この話あの後速攻で一日で書き上げたの?」
「そうだよ」
「ひやぁ…」
空太はなんだか空気が抜けたような、変な奇声のような感嘆のような溜め息のような声を漏らした。
打ち合わせの時点で確かに、野山さんなり空太なり、それなりに手応えのある反応だった。蛍としては最早吹っ切れて、思い付くままに書き連ねた短編連作のまだ、一話目なのだが。
「取り敢えずこんな感じで良いかい、扉絵」
「はい、はい。まさしくぴったりです」
「取り敢えず蕎麦食いに行きましょうか渚さん」
渚とは、紫煙の焦点、つまり主人公というか語り手となったこの絵の、女の名前だ。
「…なんかそれ嫌だな」
「は?なに?違う女の名で呼ばれたくないって?」
「…執筆したいから帰って」
「ごめんごめん!冗談だって!」
露骨に蛍は不機嫌そうな表情で、空太はそれにたじろいだ。しかしどうも、上柴先生は依然、機嫌を損ねて立て直さず苛ついたご様子。
手元に置かれていたセブンスターの箱を開け、数少なくなったうちの一本を取りだして咥える。古くなり味を出した銀のジッポライターから香るオイル。
まさしく紫煙。一口目の火点けよりも二口目の方が印象的、というのは確かに、言われてみればそうかもしれない。
諦めて空太は自分も、ジャケットからハイライトを取り出して吸うことにした。漸く、そっぽ向いてしまった蛍は空太を神妙に見る。
空太を、と言うよりは昇る煙かもしれない。昼下がりにもハイライトの煙は真っ直ぐ、まさしく紫煙というには相応しく揚々と雲まで煙が登っていく。
空太は長年これを吸っているが、作品を読むまでそんなことは、意識をしたことはなかったような気がする。
休日の昼下がり。煙草でも吸ってぼんやりと、起きたばかりの寝ぼけた頭を活性化させようと腑抜けていた最中だった。
今日は休日。日がな一日のんびりと店やら家の掃除をしたり執筆でもして時間を潰そうかという腐りかけた感性で昼間起きした所存。
そういやそうそう、この庭の鯉、いい加減餌でもやった方が、なんか情緒が安定するもんかと曲がった惰性で蛍が池を眺めていた矢先、廊下の木材が慌ただしく足音を運んだ。
何事かと、原因の方を見てみると、「ほた、蛍!」と、相当慌てたように幼馴染みの空太が駆け込んだ。
今日の空太の服装センスは相変わらず、ベージュのスーツに赤ネクタイという、どこと無く出版とは縁の無さそうなビジネススタイル。全体的に最早空太の服装はお笑い芸人のような胡散臭さだった。この出版社には服装のざっくりした規定等はないのだろうか。
廊下を走ってきた空太は、蛍の真横で見事、綺麗に滑るように正座する。
これは喜劇の一シーンか。果たしてそのスーツの膝は擦りきれないのだろうかと冷静に蛍は思う。冬物ならば大丈夫か、ただ、発火したりはしないのだろうか。
「おはよう、何?」
「お、おはよう。
いや遅いだろ。今起きたの?」
「さっき」
「あそう、飯は?」
「夢の中で蕎麦食べた」
「じゃぁ蕎麦を食いに行こう、いま、まさに今!」
「えー」
この男なぜこんなに慌てているのだろうか。と言うか忙しないのだろうか。
「あれ?…空太、仕事は?」
「今絶賛仕事中だよ上柴先生」
と言うことは空太がここに来たのは仕事関係の話があってなんだな。
確かに空太はちゃんとビジネス用の鞄を片手に持っている。出版社営業職が平日のこんな真っ昼間に休みの本屋に訪れるなんて、そうでもない限りはあり得ない話か。
「仕事?」
「はい、そうであります」
やりとりが蛍にはコントにしか思えなくて、空太にどう切り返そうか少々困惑した。
「今日は定休日なので営業は」
「いやいやいや!ちょっと待ちなさいよ違うよ!」
「まさしくコントだね」
耐えきれず蛍は吹き出してしまった。空太はそれに対し非常に奇妙な顔、と言うよりは困惑したような表情を浮かべるしかない。
「仕事って?」
「あ、そうそう」
蛍が話の先を促すと、空太は漸く切り替えて持参した鞄の中を漁る。
それで漸く蛍の脳も覚醒を始め一度伸びをすると、膝の上を陣取っていたかぐやが然り気無く優雅に離れて行った。
手が少し荒れている。最近乾燥しているからかなぁとぼんやり蛍は考えた。
「『紫煙』の扉絵、俺が書いたのは御存じ?」
「あぁ、そうなの?」
「やっぱりね。はい、これ」
空太はカバンから、明日発売予定の『月刊 文蝶』を取り出して付箋紙のページを開き掲げてくる。
間違いなく上柴楓の新連載のページであり、絵はそらたの物だった。
というか、この絵。
扉絵の、縁側で月を眺めながら煙草を吸う女の後ろ姿。横の白猫。
背景色はオレンジ、庭に移る姿や色彩が月だとわかる。この世界観、確かに上柴楓の『紫煙』だ。だがこの絵の背景はどう考えても今眺めているこの縁側ではないか。
では一体、この女は誰だろう。
「これ、いつ撮ったの?誰?」
「ついこの前だよ。これは君ですよ」
「は?」
いや、まぁ確かに絵は背中ですけど。それともモデルが?確かに絵の女くらいには、まぁ肩くらい、無精が祟り髪が伸びたかもしれないが、この絵はどうみても女性だ。肩の感じとかなんか体格が。
物語の主人公も、女だ。内気だがどこか頑固な25歳、取り残されてしまったかのような屋敷に猫と住み寂しいけど、煙草の煙を見て、心の中で昔を激しく懐かしむくらいの純粋な娘で。古傷を、触って確かめては自殺未遂をしてしまうような、そんな。
「モデルが俺なんですか」
「うーん、てか君を描きましたね。だって蛍こんな感じじゃん」
「いや…」
まぁ確かに頼りない体型ですけど?それを敢えて定義するというのはなんか、この男は自分に喧嘩を売っているのだろうか、案外気にしているというのに。
「野山さんが恐らく夕方に来るよ。
お前さ、この話あの後速攻で一日で書き上げたの?」
「そうだよ」
「ひやぁ…」
空太はなんだか空気が抜けたような、変な奇声のような感嘆のような溜め息のような声を漏らした。
打ち合わせの時点で確かに、野山さんなり空太なり、それなりに手応えのある反応だった。蛍としては最早吹っ切れて、思い付くままに書き連ねた短編連作のまだ、一話目なのだが。
「取り敢えずこんな感じで良いかい、扉絵」
「はい、はい。まさしくぴったりです」
「取り敢えず蕎麦食いに行きましょうか渚さん」
渚とは、紫煙の焦点、つまり主人公というか語り手となったこの絵の、女の名前だ。
「…なんかそれ嫌だな」
「は?なに?違う女の名で呼ばれたくないって?」
「…執筆したいから帰って」
「ごめんごめん!冗談だって!」
露骨に蛍は不機嫌そうな表情で、空太はそれにたじろいだ。しかしどうも、上柴先生は依然、機嫌を損ねて立て直さず苛ついたご様子。
手元に置かれていたセブンスターの箱を開け、数少なくなったうちの一本を取りだして咥える。古くなり味を出した銀のジッポライターから香るオイル。
まさしく紫煙。一口目の火点けよりも二口目の方が印象的、というのは確かに、言われてみればそうかもしれない。
諦めて空太は自分も、ジャケットからハイライトを取り出して吸うことにした。漸く、そっぽ向いてしまった蛍は空太を神妙に見る。
空太を、と言うよりは昇る煙かもしれない。昼下がりにもハイライトの煙は真っ直ぐ、まさしく紫煙というには相応しく揚々と雲まで煙が登っていく。
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