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雨雫
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夕飯を済ませ寝室兼自室に戻り、蛍は酒を傍らに、空太は灰皿を側に置いてお互いにただ黙々と作業を進めた。
紙が擦れる音。今日はやはり紙が冷たい。インクの吸い込みも若干ながらよくない。しかしそれもこの短編にはぴったりだ。
明日には晴れてしまうとしたら、このシーンは今のうちに書いておきたい。この湿った室内は今しか見れないのだ。
たまたま置いてあった居酒屋のマッチが擦れない。やっと擦れても煙草の火がつきにくい。これも雨の日特有。だがイライラする前には空太がジッポを貸してくれる。
これはこれできっとうまくまわっているのかもしれないな、そう思ってまた蛍は原稿用紙に向かう。たまに外に出ていく空太も、慣れた事情だった。
気持ちは晴れない、湿ってしまったとしても少しは明るいような気もする。今日の雨はそんな湿り気だ。だから、明日は、晴れてくれるといいがどうも雨は止みそうにない。これ以上鬱陶しい文は書きたくないのだが。
****
与えられた未来は、窓に浮いた雨雫のように淑やかな風景。視界はぼやけるような空間を作り出した。浴室とそれ以外との若干の気圧変化が日常を魅せる。
友人はどんな思いであの絵画を最期、テーブルに遺し置いたのか己の想像が乏しい。絵を刺したナイフの冷たさまで、視界でありありと、リアルに物々しく手には残ったと言うのに。彼の忠告を私は無視した心情で今、ナイフを湯銭に溺れさせているのだろうか。
****
心に残るあの傷はそう、ナイフというそれが正しい。一見の凶器は狂気に変わり狂喜するものだと、甘美なのか罪悪なのかの判断を今、つけかねている。自分はそうして束縛し、我が儘を通してきたのだ。しかしそれをネタにするにはそれなりの闇に病みが募り、怖じ気付いてこうしか、こうして伝えることしか出来ないでいる。
自分とは何か、他者とは何か、友人、家族、恋人、全て、人とは一体なんなのか。
己がなければ他者を感じない。しかし他者は、自分がいなくても生まれて死ぬことが出来る。自分も類い稀なくそのカテゴリーに入っている。
誰もが気付いていて触れない部分。そこに踏み込んでみるには現実では。
「蛍、」
肩に手が置かれ、声を掛けられて我に返り振り向いた。振り向き様に、万年筆を持った利き手をそのまま、裏拳をかますようにあげてしまった。
しかし空太も、蛍のそれにはお手の物、慣れている。滑舌と耳障りのよい、しかしいつもよりは低く耳元に届く小さな声で、「飲みすぎだ」と蛍の拳を取り降り下げた。
ふと灰皿と酒瓶を確認すればなるほど、煙草はあれから5本、一本あった一升瓶は目分量で6杯は飲んでいる。時計はあれから2時間。書きながらと考えたらまさしく流し込んでしまったようだ。
さて文は大丈夫だろうかと、散文になっていやしないか、誤字は大丈夫かとここ4枚くらい勢いで書いてしまった作文用紙を手繰り寄せようとすれば、「やめとけ、上柴先生」と、空太に止められた。
だがそれに関しては「うるさい」とはね除ける。自分は今の文脳が最適なんだ。今じゃなければこの感性は醒めてしまう、蒸発して晴れてしまっては意味がない。
アドレナリンとアルコールの相乗効果。正直、ここでやめてしまってあの虚無へ放り込むのは、また殺すしかなくなる。自分を、上柴楓を、涛川蛍を。
「止めないで欲しい。悪いが一人にしてくれないか」
作文用紙から目を背けない。現実に戻らないための密かな抵抗だ。
それを聞いて空太は黙って煙草とスケッチブックとカメラを持ち、部屋を出て行った。
空太は空太でまぁ上手くいっているし、なにより気持ちはわかる。原稿はしかしあとで読んでやろうと思った。
どちらかと言えば空太の方が創作から現実に引き戻ってしまった。仕方がない。無理に写真を撮ろう、描こう。今の自分にはそれがいい。
そこではっと気付いた。
音楽を聴こうかと思ったがウォークマンを部屋に忘れた。これは、あまり捗らないかもしれない。
仕方なく雨音を聴きながらスケッチブックに向かうことにした。しかし、鉛筆はそれからどうも止まってしまいがちになった。
雨の日は嫌でも思い出すのだ、あの日を。あの、蒼白の顔をして車内に残されていた蛍の姿を。
いま例え蛍はこうして生きていたとしてもあれは空太のなかではショックだった。いまでも、昨日のこと、いや、ついさっきのことのようにありありと思い出せる。自分の疾患なのだ、あの情景は。
「ゆうちゃんはきっと、あの子を愛せなかったんだな。ただ、俺にすら話してはくれなかった」
父親はいつか自分にそう語った。かつて友人だった男に対し、やけに擦れた最後だと感じたものだ。
「お前のように俺も友人が苦しむ姿を見たって何も出来ない。漸くあいつは…」
なんだって言うんだ。
だから怖いんだ。俺はあんたほど、諦めはよくなくてまだまだ人に、執着がある。けれどあんたを非難はしない。
…いや、ホントはわかってる。諦めが良い悪いではない。ただただ、往生際が悪いのだ、自分は。
あの時救えたから良いとか悪いとかじゃない。捨てきれない。自分はいつでも。
筆が鈍ったのは結局蛍も一緒だった。
雨は雫を集めて水溜まりを作る。川が出来て海が出来る。感情を集める感覚もそうだ。喜怒哀楽、歓喜と憤怒と哀愁と楽天。最初は好調、間にマイナスが降り混ざり、最後、笑えるように晴れるはずなのだが。
お互いの感情は共鳴するが交じり合わない。合流を恐れる。怒濤は災害になるような気がしてしまう。化学変化や自然災害に怯えるのが人間だから。
本当は、それだけの理由ではない。
決壊を一度してしまえば再建が難しいと言うのを経験しているから、踏み出せない。しかし、もとより再建出来ているのか互いに理解をしていない、瘡蓋を瘡蓋のまま水に曝しているだけなのにどうして、それを見て満足も覚えるのか。これも一種の依存かもしれないが、それには互いに気付かない。十何年、青春から立ち止まった橋の上なのだ。
結局雨は止まないまま、互いに作業は難航し、30分後に蛍が、廊下で行儀悪く方膝ついて寝転ぶ空太に驚きつつも、二人で寝室に戻って対談の話をしながら寝てしまった。
そして、ついに対談となる。
紙が擦れる音。今日はやはり紙が冷たい。インクの吸い込みも若干ながらよくない。しかしそれもこの短編にはぴったりだ。
明日には晴れてしまうとしたら、このシーンは今のうちに書いておきたい。この湿った室内は今しか見れないのだ。
たまたま置いてあった居酒屋のマッチが擦れない。やっと擦れても煙草の火がつきにくい。これも雨の日特有。だがイライラする前には空太がジッポを貸してくれる。
これはこれできっとうまくまわっているのかもしれないな、そう思ってまた蛍は原稿用紙に向かう。たまに外に出ていく空太も、慣れた事情だった。
気持ちは晴れない、湿ってしまったとしても少しは明るいような気もする。今日の雨はそんな湿り気だ。だから、明日は、晴れてくれるといいがどうも雨は止みそうにない。これ以上鬱陶しい文は書きたくないのだが。
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与えられた未来は、窓に浮いた雨雫のように淑やかな風景。視界はぼやけるような空間を作り出した。浴室とそれ以外との若干の気圧変化が日常を魅せる。
友人はどんな思いであの絵画を最期、テーブルに遺し置いたのか己の想像が乏しい。絵を刺したナイフの冷たさまで、視界でありありと、リアルに物々しく手には残ったと言うのに。彼の忠告を私は無視した心情で今、ナイフを湯銭に溺れさせているのだろうか。
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心に残るあの傷はそう、ナイフというそれが正しい。一見の凶器は狂気に変わり狂喜するものだと、甘美なのか罪悪なのかの判断を今、つけかねている。自分はそうして束縛し、我が儘を通してきたのだ。しかしそれをネタにするにはそれなりの闇に病みが募り、怖じ気付いてこうしか、こうして伝えることしか出来ないでいる。
自分とは何か、他者とは何か、友人、家族、恋人、全て、人とは一体なんなのか。
己がなければ他者を感じない。しかし他者は、自分がいなくても生まれて死ぬことが出来る。自分も類い稀なくそのカテゴリーに入っている。
誰もが気付いていて触れない部分。そこに踏み込んでみるには現実では。
「蛍、」
肩に手が置かれ、声を掛けられて我に返り振り向いた。振り向き様に、万年筆を持った利き手をそのまま、裏拳をかますようにあげてしまった。
しかし空太も、蛍のそれにはお手の物、慣れている。滑舌と耳障りのよい、しかしいつもよりは低く耳元に届く小さな声で、「飲みすぎだ」と蛍の拳を取り降り下げた。
ふと灰皿と酒瓶を確認すればなるほど、煙草はあれから5本、一本あった一升瓶は目分量で6杯は飲んでいる。時計はあれから2時間。書きながらと考えたらまさしく流し込んでしまったようだ。
さて文は大丈夫だろうかと、散文になっていやしないか、誤字は大丈夫かとここ4枚くらい勢いで書いてしまった作文用紙を手繰り寄せようとすれば、「やめとけ、上柴先生」と、空太に止められた。
だがそれに関しては「うるさい」とはね除ける。自分は今の文脳が最適なんだ。今じゃなければこの感性は醒めてしまう、蒸発して晴れてしまっては意味がない。
アドレナリンとアルコールの相乗効果。正直、ここでやめてしまってあの虚無へ放り込むのは、また殺すしかなくなる。自分を、上柴楓を、涛川蛍を。
「止めないで欲しい。悪いが一人にしてくれないか」
作文用紙から目を背けない。現実に戻らないための密かな抵抗だ。
それを聞いて空太は黙って煙草とスケッチブックとカメラを持ち、部屋を出て行った。
空太は空太でまぁ上手くいっているし、なにより気持ちはわかる。原稿はしかしあとで読んでやろうと思った。
どちらかと言えば空太の方が創作から現実に引き戻ってしまった。仕方がない。無理に写真を撮ろう、描こう。今の自分にはそれがいい。
そこではっと気付いた。
音楽を聴こうかと思ったがウォークマンを部屋に忘れた。これは、あまり捗らないかもしれない。
仕方なく雨音を聴きながらスケッチブックに向かうことにした。しかし、鉛筆はそれからどうも止まってしまいがちになった。
雨の日は嫌でも思い出すのだ、あの日を。あの、蒼白の顔をして車内に残されていた蛍の姿を。
いま例え蛍はこうして生きていたとしてもあれは空太のなかではショックだった。いまでも、昨日のこと、いや、ついさっきのことのようにありありと思い出せる。自分の疾患なのだ、あの情景は。
「ゆうちゃんはきっと、あの子を愛せなかったんだな。ただ、俺にすら話してはくれなかった」
父親はいつか自分にそう語った。かつて友人だった男に対し、やけに擦れた最後だと感じたものだ。
「お前のように俺も友人が苦しむ姿を見たって何も出来ない。漸くあいつは…」
なんだって言うんだ。
だから怖いんだ。俺はあんたほど、諦めはよくなくてまだまだ人に、執着がある。けれどあんたを非難はしない。
…いや、ホントはわかってる。諦めが良い悪いではない。ただただ、往生際が悪いのだ、自分は。
あの時救えたから良いとか悪いとかじゃない。捨てきれない。自分はいつでも。
筆が鈍ったのは結局蛍も一緒だった。
雨は雫を集めて水溜まりを作る。川が出来て海が出来る。感情を集める感覚もそうだ。喜怒哀楽、歓喜と憤怒と哀愁と楽天。最初は好調、間にマイナスが降り混ざり、最後、笑えるように晴れるはずなのだが。
お互いの感情は共鳴するが交じり合わない。合流を恐れる。怒濤は災害になるような気がしてしまう。化学変化や自然災害に怯えるのが人間だから。
本当は、それだけの理由ではない。
決壊を一度してしまえば再建が難しいと言うのを経験しているから、踏み出せない。しかし、もとより再建出来ているのか互いに理解をしていない、瘡蓋を瘡蓋のまま水に曝しているだけなのにどうして、それを見て満足も覚えるのか。これも一種の依存かもしれないが、それには互いに気付かない。十何年、青春から立ち止まった橋の上なのだ。
結局雨は止まないまま、互いに作業は難航し、30分後に蛍が、廊下で行儀悪く方膝ついて寝転ぶ空太に驚きつつも、二人で寝室に戻って対談の話をしながら寝てしまった。
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