水に澄む色

二色燕𠀋

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「伊織」

 伊織の耳元に声が湿った。

 竜二は口に鎮痛剤を入れ、お茶を含ませて伊織の口へゆっくり、ゆっくりと流し入れる。

 水槽の濾過機の音が、こぽこぽと流れる朝の時間。

 生温い口の中、程よい体温を感じて、もう少しこのままが良いと伊織は思ったが、口を離した竜二が「鎮痛剤」と不器用に言う。

「…おはよう」
「おはよう。朝飯はパンと飯、どちらにしますか」
「…寝坊した?」
「まぁ15分ほど」

 そう言われて伊織がケータイを確認すれば5時30分。
 水曜日。今日は自分が朝の担当だと「ごめん」と竜二に謝った。

「起こせばよかったのに」
「言うて俺も面倒だったし」

 さてと、と起き上がる竜二に伊織は抱きつき、「パンでいいよ」と言った。

「じゃぁパンにしますけど」
「うん…」

 離さない伊織に「パンにはしますけどダメですよ」と竜二は忠告した。

 竜二の忠告に伊織は顔をガン見するけれど「俺の意思は固いです」と更に忠告を重ねる。

「…まだ今日はダメです」
「水曜日ですよ」
「そうですね」
「痛いのも治った」
「そりゃよかった、どんなもん?」
「全然。使える」
「バカ」

 軽く叩いて「懲りてねぇなバカ女」と伊織をなじった。

「痛い」
「それくらいで痛いんじゃあかんですね。仕事は行って頂きますけど」
「怒ってる」
「当たり前ですよね、代わりに夜は美味いもん作ったるよ」
「何?」
「カレー」
「うーん」
「初彼記念です」
「つまんない」
「凄く美味いカレー」
「想像出来ない」
「想像出来ないくらい凄く美味いカレー」
「取り敢えずパンでいいです」
「うわなんで怒るかわかんねぇ」

 不貞腐れて漸く離れた伊織を置いてキッチンに立つと、伊織は起き上がりもせず水槽を眺めている。
 仕方ないなと、「まぁ今日は俺暇だから」と、食パンをトースターに入れながら竜二は伊織に声を掛ける。

「カレー仕込むくらいの暇さなんで」

 何事?と伊織が振り向けば「状況により、ですよね」と答えた。

「ん?」
「ただしソクバッキーとしては嘘を禁じる、これは我が家の家訓にします」
「…嘘吐いたことあった?」
「こういうのは先手を打てばいいんだよ。俺って優しくない?」
「あっそう…」

 ふと向き直りぼんやりとケータイを眺めて開いた伊織に、こちらから見えないもんかと眺めてしまう竜二は昨日の、「軟禁は解いてやってくれ」という吉田の言葉を思い出した。

 うるせえな吉田さん、こういうのはパンチラと一緒なんだよと思えば「ん?」と伊織は言った。

「あれ、先輩から昨日メール来てる」
「抜けてんなぁ。心配してたんだぞ昨日。俺はまぁ連絡取ってたからなんとかいいだろうけど、大体そういうの、仕事関係だってあるんだ」
「ご飯食べに行こうって」

 ちん、とパンが焼ける。竜二はレタスとハムとトマトと何にしようと冷蔵庫を眺めながら、あ、聞いたわそれ、言っていいもんかと思ったが、そもそもソクバッキーをナメてないかこいつと、「は?なに?」と少し声を低くしてみた。

「昨日だった」
「お前なぁ」
「ご飯は浮気に入る?」
「人による」
「だよね。まぁ誤送信だってさ」
「俺を試すな全く」

 え、それでいいんだと伊織は思ったが、それよりもこの、枡から連絡があったとはどういうことだと考える。
 うーんどうしようかと伊織が悩んでいれば「なに?」とやけに竜二が聞いてくる。

「いや…」
「…まぁちなみに誤送信したって聞いてたけどね」
「やっぱり」
「まぁね、即謝罪のメールを打ってきたからね」
「余程だね」
「な。それくらいまぁ不安定だったんだろ、お前が」
「あと桝くんから電話あったってさ」
「は?」
「うん、会社に」

 ナメられているが…仕方ないかと「なんだそれ」と乗ってやることにして、サンドイッチを運んだ。

「お茶は?」
「あ、思わず忘れた。てか何故態度がデカいんだお前」
「うーん…」
「あ、はいごめんそうですね、お前二つのこと出来ないんだった」

 浮気は出来るくせにな。
 不思議だこの電波ちゃんは。俺くらい追求力がないと誰も気付かないんだから。
 …いや、それほどにこの電波が空気だとも言える。

 しかし…伊織が言ってくれてほっとしたのが少しある。吉田さん、知らない体ってのはなかなか忍耐力がいるなと、お茶とコップを持って再び隣に座り、「いただきます」をし、少し寄せるように抱き締めて然り気無くケータイを見た。
 吉田は本当に正直だと思った。
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