stay away

二色燕𠀋

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 少しだけ話をしたし、車椅子は持ってあげた。

 お兄さんはステージ2で、たまに身体が痛くなるそうだ。
 悪いところは取ったけれど、それだけだとまだ、治らないと言っていた。

「…俺の方が元気ですね…なんか」
「そうか?多分俺の方がばり元気だぞ」

 はは、とお兄さんは笑ったが、いや、そんなことはない。申し訳ないし、せめて映画くらいは付き合おうと、あの時そう思ったのかもしれない。

 病室が物凄く広かったのを覚えている。
 教えで言うところの“カースト”のランクが高そうな人、という感じだった。

 …最期ってもしかしてこんな感じなのかな…。
 不謹慎にも、そう考えた。

 お兄さんは椅子を出すわけでもなく、ベッドに座れと促し、布団に潜った。
 映画を観られるというのもVIPぽい、というかまるで自宅のような気軽い雰囲気だった。

 その映画は高校生の青春物の、不良のやつだった。

 ちょっと…缶を咥えさせて踏みつけるシーンとか、「うぅ、」とついつい目を逸らすことが多かった。
 けれどお兄さんは楽しそうに「ここ音楽超良くね?俺の推し」と…いやぁこの人どうかしてる…とは思いつつ、手摺りのシーンで、この人もしかしてこれを俺に観せたかったのかな、と思ったりもした。

 手擦りを離して手を叩く、度胸試しのシーン。

 実際きっとあり得ないだろうけど、初めて出会った人に観せられた、観たことのないタイプの映画。

 曇り空みたいな気持ちが、いつの間にか変わっていた。

 丁度映画が終わる頃、看護師さんが「一之江いちのえさん!」と、怒りながら入ってきて、お兄さんは映画をぱっと消してしまった。

「…ちょっとちょっと!老若男女所構わずナンパするの、やめてくださいよ!」
「おはよー吉田ちゃん。今日もおっぱいデカいね。飯?」
「もーなんなんですか!
 君はどこの子!」

 お兄さんは看護師の胸をふにふにと軽く触り少し肘打ちを食らっていた。
 そんなことってあるんだと、新鮮だった。

「あ、えっと…206の…」
「ここの20にまる代後半じゃ、内科の結構な患者じゃん。ほらな、俺の方が元気。なんとなくそんな」
「一之江先生・・はいーから!タバコ臭いしいー加減に」
「はいはいはいはい。送ってってやんなよ、俺はいーから」
「あ、すみません、自分で帰れます…すみませんでした」

 頭を下げ部屋を出ようとしても「いやいや」だの「貴方ね!」だのとやりあっている。
 「俺高校教師だったんだよ?」だとか「精神科医じゃなかったです!?」だとか、そうだったのか…あの映画、高校生死んでたけど…あまり観せていいやつじゃなさそうだったけど…でも。

 帰り道は、ゾンビじゃなくなっていた。

 すぐにその看護師さんが「ごめんね、送ってく!」と来てくれて、「ありがとうございます」と言った自分の声色が高くなったのもわかった。

「あと…はい」
「ん?」

 そのとき俺は、看護師さんから紙を貰った。
 アドレスか何かと、“一之江陽介”と書いてあった。

「渡されたから。あの人、明日退院なの」
「…そうだったんだ」
「君は?」
「…加賀谷慧です」
「わかった、伝えとく。でも、誰にでもああで困っちゃうんだよねー。悪い人じゃないけどさ。セクハラされてない?」
「え、あの…俺男です…」
「あぁ、そうなの」

 あまりに軽く流されたし、次には「昔、教え子さんを亡くしちゃったみたい」と、違う話しに変わってしまった。

「えっ」

 でも、それ以上を聞く前に、担当のナースステーションに着いてしまった。

 俺はポケットにウォークマンを見つけ、「あ、」となったが、看護師さんに「慧くんどうしたの?」と部屋に連れて行かれるし、看護師同士で話し始めたしで、言う機会がなくなってしまった。

 またいつも通りな日常に戻りそうだったが、少し慌てたように主治医が来る、そんな慌ただしさ。

「…慧くん、一之江先生に会ったんだね」
「え、」

 色々話していくうちに、あの人はどうやらどこかの病院の院長先生で、精神科医というのも本当だったと知る。
 「何か…あったかな?思い出しちゃった?」と、その日病棟を移そうかとまで言われてしまったが。

「いえ、大丈夫ですよ、すみません、少し外が見たかったんです」

 そして薬は変わり、眠れなくなることはなくなった。

 午後に来たおばあちゃんとおじいちゃんも「なんかあったら、せっでな、」とよそよそしくなったが、まずはウォークマンを返して欲しいと伝えた。

 結局そのウォークマンは、未だに俺の手元に残っている。
 返したはいいが、「やるよ」と付箋が貼られ、また返ってきたのだ。
 流石に今は壊れてしまったけれど、なんとなく捨てられない。

 それから数日、看護師さんはマメにくるようになり、残った病院生活がガラッと変わった。

 結局、彼がその後どうなったのかは、知らない。

 あの連絡先を失くしてしまったことに少し勿体なさを感じたのは、大人になってからだった。
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