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Act.4

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 このドアはとても開けにくい、開きにくい。ドアノブに手を掛けたときに一瞬、そんなことが過る。風が強かったりすれば押されてしまうし、雨の日には取っ手が湿ってしまう。

 外に出るのが少し、怖い。

 開いたけれど少し突っ掛かり。
 閉めるときは勢いが勝手についてしまう。うるさかったかもしれない。この家からこっそり出て行くことはまず不可能なんだ。

 太陽が痛いのか、気圧が痛いのか、眩暈に似た頭痛を感じ右の蟀谷を指圧する。これって本当に痛い場所はここではない気がする。

 駐車場の砂利が光って見え少し視界が狭くなるけれど、風が吹いて心地好く感じる。思ったより今日は散歩くらい出来る気がする。

 屋根部分の日陰から出ればまた頭痛はするのだけど、その先の道は右に行こうか左に行こうかと頭痛を押さえた右手の小指が視界に入る、左に行こう。

 人通りは少ないけれど僕はいま何も持たない軽装で、僕を見た人は何を思うんだろうか、こんな昼間に外を歩く何も持たない20代の男性。きっと怪しいに違いがない。

 振り払うように肩を回してみた。あぁ、世界は思ったよりも広い。ここはきっと誰も通らない道だから迷ったらどうしようかな、どうなるのかな。
 けれどマスクを忘れてしまった。そうか、僕の肺はそれでも排気ガスに溺れてゆく。意識すれば急に肺が痛いような気がしてしまうのだ。

 家のまわりをぐるっと回ってみようかな。この辺に何があるかくらいわかっていても損はないはずだ、あぁそうだ確か付近には川があったなぁ。

 取り敢えず川でもいいから行ってみようと通りに出れば高架線に電車が走っている。
 川縁には案外あっさり着いて自転車だって通るし犬の散歩にだって出くわす。

 あれ、凄く久しぶりだ。犬なんて。
 飼い主を引っ張っているのか共に歩いているのかはわからないけれど、小さな柴犬。通りすぎて少し振り返る。可愛い。けれど犬は振り向かない。

 高架下まで歩いてみようかな。あの下はやっぱりビックリするほどうるさいのだろうか。
 宛がないのに歩いている、誰も僕など気にもしないし、いや、通りすぎた人たちはなんだあいつと一瞬思うかもしれないけれどそれで終わり。一瞬で僕は消えていくだろう。

 意外と散歩は好きかもしれないと思い始めた。どうして宛がないんだろう、どこに行ったって何をしたってすぐ終わって行く、あぁ、良い天気だし起きたら五十嵐は洗濯でもするのかなぁ。いま僕は植物でもないのに光合成をしている気分だ。栄養になるのかな。みんなこんな日は外に出た方がいいよ、多分。

 誰も知らない、僕は川縁を歩いているけれど、そもそも過去を捨て生まれ変わった僕はまともではなかったから、どうやってどこで発見されたのかは知らないけれどこんな川縁とかで血塗れだったのかなぁ。
 けどいまこの付近の人がそれを、例えば柴犬がそんな僕を見つけてしまったとき、どんな顔でビックリするんだろう。

 とか、そんな事を考えているだなんて本当に誰も知らないんだ、それとも少しくらいは「この人なんだか危なそう」と過るのかなぁ。でも僕にもその人にもまるっきり関係はなくて日も沈むのだろう。

 はぁ、疲れたなぁ。

 一休みしようと高架下の日陰に入ればカルキのような生臭い川の臭いがする。綺麗でない川。
 綺麗でない蒼い、殆ど雑草な芝生。

 不衛生なのは間違いないし一瞬抵抗だってあったが、もうこの川の臭いに包まれた時点で僕は清潔でもなんでもないと、あのゲイビデオが頭にちらついた。だから、その場に座れた。

 向かいにホームレスが住んでいるのが目につく。
 青いビニールとか、そんなもので出来ている家、彼はこの川が氾濫したらと考えもしないのだろうか、流されたらその家と同じような待遇の水死体になるだろうけど、身元不明でどこで発見されるかもわからなくて。僕の血はいくらか川に流れて、想像してみる。その時、例えばこの傷から体内にはどれだけの汚水が入水したのだろう。
 膝を抱えても小指が目に入る、僕は誰かの小指を噛み切ったのだろうか、いや、骨に行き着くだろうから多分、それは夢なんだろう。

 いくらでもこの高架下がまともに思えた。けれど電車のうるささは耳を破りそうで、僕は多分10分程度をぼんやりとそうしてから漸く五十嵐の家に帰ろうと思った。

 けど帰れるだろうか。
 あぁ、けど例えば僕がこの川に流されても道に迷っても誰にも関係はないし、五十嵐がどう思うか想像も出来ない。それもどうでもいいと思ったら、何故か穏やかな気がしてしまう。
 衛生的には悪いかも知れないけれど、いつかなんでも良くなる。

 やっぱり立ち眩みがした。よくわからないけど帰ってお風呂に入ろう、不衛生だし、なんだか足元が特に痒い気がしてきたし。

 サンダルで来てしまったことに、今更ながら気が付いた。どうにも砂は入った、足の裏が埃っぽい。これも洗おう。
 帰路の間そればかりに気が沈み早足になった。
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