アマレット

二色燕𠀋

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亡霊はその場所で息を潜めて待っている

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 …あの子供が切なそうに車を降りたことが引っ掛かっている。
 複雑だ。

 下校時間に拘るとすれば門限やらと、当たり前に答えには行き着いたのだけど。
 俺は、彼女がどういう答え返してくるかと少し試したくなった。

 藤川瑠璃が確実に一瞬だけ戸惑ったのは「君は思うより上手くやれてない」と提示したときだった……と。

 夕方から夜に変わりゆく公園の影でぼんやり考えるのはそんなことだった。

 暇すぎてタバコも消費して、ぼちぼち答えが返ってくるだろうというリミットに近付く。
 普通にドタキャンか本当に現れるか。そんな答えは読めない。

 しかし確か…鬱小説では「鳥は卵から無理に出ようとする」、それは必要な破壊だと確か、書いてあった。漱石も似たようなことを書くのだから多分、大多数の鬱病が考え得る答えなんだろう。

 俺は果たして鬱病だったか。
 まぁ、そうだったんだろう。そして今、生まれ変わった気分になれたわけではない。案外世の中などそうして綺麗でもないと学んだつもりだ。

 リミット来たりか、5分か3分の位置らしいしなとケータイを少し眺めていれば、着信があった。

 さあ、答えはどちらだろうと電話に出れば、「……っしもし…、」と、聞き取れない声が聞こえてきたのだから、…身構ていなかった。

「…もしもし?」

 …なんだ?
 自棄に酸素の薄い雰囲気だ。

『…ぁ、あの、』

 …なんだ?
 自然と耳を済ませれば…微かに聞こえる誰か…吐息と、一定リズムの擦れる音。
 嫌な予感しかしなくなった。

「どした」
『たっ、』

 藤川瑠璃の声はまるで、絞る、いや、絞められるように不自然に切れるのだから急にそわそわし始めた。
 …まるで警鐘が鳴らされたように感じる。

『っはっはっはっはぁ!』

 男の狂ったような笑い声に、一瞬にして上昇な焦り、血液のような物が自分から引いていくのを感じた。

 向こう側で電話がガシャッと物々しい音を立て、「じゃぁ大丈夫だなぁっ!」完璧に男の声がして、「おらっ、おらっ、」と煽る声と「うっ、あぁっ、」と苦しそうな藤川瑠璃の切れた声がする。

 これは……。

 静かに状況を聞いていれば完璧にレイプ現場だが、相手は、「にぃ、ちゃ……、」兄貴か。

 ……家庭が崩壊しているというのは通説だがなるほど、家庭内の性的虐待。援交にある闇の奥パターンだ。

 藤川瑠璃はずっと声を圧し殺したように喘いでいる。
 息を潜めていれば『瑠璃は兄ちゃん、好きだもんなぁ』と、滑ったような声がして咄嗟に通話を切ってしまった。

 …くらいに、背筋に悪寒、いや、完全なる恐怖が全身に走った。
 …これは結構ヤバイやつ。

 寒気がする。
 …どうしたらいいか。
 いま完全に、この先の人が無事でない。

 ケータイを確認すれば、よかった、自然録音の機能を俺は切っていなかったようだ。

 …電話をしたら逆撫でる。だが、確実に俺がここに行くにはどうするべきか。

 まずはショートメールを打ってみようと考えた。パッと見相手は気付かないだろう。
 文字盤を見て一発で浮かんだのは「待ってる」の一言だった。

 …どれほど時間を有するかはわからないし意味などなく出来ることも一つもない可能性が大の大だ。
 それなら、それで……。

 いや、流石にこうなれば人間もどかしいようだ。歯が痒くていたたまれなくなる。当たり前だ、彼女はいまこれ以上の気持ちで、だが誰も何も踏み入れなかったから……。そうか。

 そわそわしかしないでタバコを吸ってもあぁあ、イライラ、いやもうやり場がない。早くしろ、その1分が、いいから早くしろ、手掛かりもない。周辺を探せば「藤川」はあるか?

 結局がむしゃらに車から出てしまった。

 藤川瑠璃が歩いて行ったのはえっと、どこかで向こう側に入ったはずだ。
 1本向こうなら近い、入った道なりの方が近いけど。この周辺には一軒家しかないし。なんとなくで路地に入ってみた。

 歩きながら表札を見ていくが甚だ「藤川」はない。

 よもや、苗字が違う可能性だってあるわけで。かなり無謀でも、仕方がない。
 何も出来ずに終了するパターンの方が強く出ている。 

 道をどう入って行こうかというのも不明すぎる。何度もケータイを見た。

 …警察に言うべきかもしれないが、果たしてこの状況は彼女のなかで、露呈するのはどう…傷付いてしまうかというのすらぐるぐるする。

 …歩いている最中に藤川瑠璃が電話を寄越してきた。

 自分でもかなり息が上がるようだと気付くが構っている暇はない。電話の相手が件の兄貴だったパターンなら「警察呼んだぞ」と冷徹に言ってやろう、などと考えたが。

 相手の様子を聞こうと、すぐは声を潜めようとしたが即、藤川瑠璃の「もし……」と、苦しそうで脱力した声が聞けた。

 …これは、兄が側を漸く離れたのかもしれないが油断は出来ない。

「…どう?」

 必要最低限で尋ねた。

『あのっ、』

 擦り切れそうだ…。

「…抜け出せんの?」
『…へ、』
「行こうか、」

 そんなところにいるべきじゃないよ。

『兄は、』

 喋りにくそうで、嗚咽を殺している。

「……うん」

 間が長く感じる。
 しかし彼女が懸命に話そうとしているのは確実だった。

『……ない、からっ、』
「……わかった。せめてGPSとか」

 喉の奥が詰まるような音が聞こえる。
 ……聞いているこちらまで辛くなるじゃないか。

『……道入って……ぇっ、に、二件、あの、二世帯の…っ、』
「はいよ……」

 切った。

 うーん、多分歩き過ぎたな。いや、一本違うかもしれないが二世帯住宅はかなり大きいヒントだ。
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