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末期の船
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私は生きることに疲れてしまった。いや、厳密には仕事などでの人間関係が嫌になった、と言った方が正しいな。
誰にも死に際を見られたくなかったので、でかい釣具屋に売っているようなゴムボートを買って、海に向かい、水の中で死ぬことにした。
仕事終わり、車にボートを積んでいざ海へ向かった。今日も最悪な一日だった。仕事の締め切りが来月だったのだが早く終わらせたかったらしく、なんでお前はまだ終わっていないんだととんでもなく怒鳴られた。
キレるのは分からなくもないが、せめて締切日を過ぎてからブチギレてほしい。こっちだってやらなきゃいけないことはそれ以外にたくさんあると言うのに。
机をバンバン叩きながら無能だのなんだの言い散らかして、目を一回転させあたかも呆れた態度を取る。元々性格が悪いのは知っていたが、いざ自分に向けられると嫌なものである。まぁ、今日死ぬからどうでも良いが。
私が死んだらみんなどうなるのだろう。
みんな驚いたり悲しんだりするのだろうか。例の上司は後悔するのか。もし俺のせいであいつが死んだんだと後悔していたら不謹慎だが笑えてくる。あのおっさんにはそのまま一生心に傷を負って死を迎えてほしいものだ。
そんな最低なことを考えながら海の中を進んでいく。正直水深的に死ぬことはできるだろうが、恥ずかしい話ここまで来て死ぬのが怖くなっている。誤魔化すためにまた沖へと進んでいく。
しかし、先ほど自分が死んだ後の上司についていろいろ思ったが、ここまで最低なことを考えるとは自分に引いてしまう。
思えばいつからこんな人を不幸を願うようなことを考えるようになったのか。自分が恥ずかしい。
心の余裕があるとかないとかよく聞くが、これが無いと言うやつか。
生きているうちに嫌なことが多々あると、つい他のものに当たってしまう。立ち寄ったコンビニの店員や街中で肩がぶつかった相手などに。今思えばきっと彼らには自分は上司であるあのおっさんと同じに写ってたに違いない。なんだ、俺も同類ではないか。
そう思うと、上司もいろいろ溜まってたのだろう、と今になって思う。初めからクズな人間なんてこの世にいないはずだ。みんな何かきっかけがあって今の性格が形成されている。
辛いことがあり、ストレスが溜まり、そしてそれを周りにばら撒く。撒かれた側の人間たちは、同じようにストレスが溜まって、また同じように撒き散らす。
今の日本はこれの塊のような国かもしれない。みんなストレスを抱え、憂鬱になりながら、それでも生きるために必死になっている。泣きたくなるような話ばかりだ。
テレビやネットに関しても、昔はみんな笑って見ていたものが、今ではすぐ炎上したりと、何かと大変である。芸能人たちはみんな大変そうだな。
きっと吐口として粗探しをされ、何もおかしくないところを無理に指摘されている。そんなことばかりで規制がかかり、思えばテレビのコンテンツ減った気がする。
こう考えると、私たちはみんな子供のようだ。自分がイライラしてるから、と、周りにあたったりこのコンテンツが嫌いだからと文句を言い散らかしている。
世の中は自分を中心に回っているわけではないのだ。当たり前だが今気づいた。
ふいに我に返った。今更何を考え事をしているんだ。私は死ぬのだ。どのみち明日が来ればまた憂鬱な1日の始まりだ。こんなのはもううんざりだ。いざ海中へ...
と、思ってみたが
やはりだ
怖い、 いや、 悲しくなってきた
今まで育ててくれた親のことが浮かぶ
私には両親がいる。田舎の両親が。
ふと昔見た子供が自殺して取り残された親を密着した番組を思い出した。
その番組には外では平気な顔した夫婦が、家では子供の遺影を見て毎晩泣いている姿が画面いっぱいに映し出されていた
俺の両親も同じ思いをするのだろうか、間違いなくそうだろう、それはあまりにも申し訳ない。
そしてそれと同時にもう1つ思い浮かんだ言葉が2つくらいあった。
これも昔に読んだ偉人の名言集みたいな本に書いてあった、アインシュタインの
「誰もが天才だ。しかし、魚の能力を木登りで測ったら、魚は一生、自分をダメだと信じて生きることになるだろう。」
と言う言葉。
もう1つはボブ・マーリーの
「ひとつのドアが閉まっている時、もっとたくさんのドアが開いているんだよ」
この2つである。
もしかしたら私には、まだ可能性があるかもしれない。幸せになる可能性が。
人生は長い、だいたい80年ってとこか。
私はまだ3分の1程度しか生きていない。もし行動を起こせば、何か変化があるかもしれない。しかし、いざ転職したり新しい挑戦をしたとしたら周りはなんて言うだろうか。止められたり、馬鹿にされるのは目に見えている。やはりやめよう、馬鹿馬鹿しくなってきた。
そう思ったが、やはりこの思考が頭から離れない。幸せ、幸せになれるのか、俺が。
どうせ人生は一度しかない。死ぬ前に幸せになるための手を尽くして、それでダメだったらさよならしよう。
挑戦や行動を馬鹿にして止めてくる奴らもいるだろうが、そいつらの言うことが正しいとは限らないし、そもそもあいつらは俺の人生の何者でもない。責任だってとっちゃくれない。行動しなけりゃ何も変わらんのだ。
そう考えると、急に視野が広くなった気がしてきた。もう少し現世で遊んでみるか、そう考えると何故だか楽しくなってくる。
気に入らないもんは見なけりゃ良い。嫌ってくる奴らは勝手に嫌ってくれて構わない。俺は俺の好きなようにいきるのだ。
とにかく死ぬのはやめだ。明日は会社も休もう。精神科にでも行ってみるか。行った経験がないから少々不安だが。だが行けば何かしら知ることはあるだろう。その後はその時考えれば良い。
俺が自殺未遂するとは思わなかったように、将来はいい意味で予想しなかったことが起きるかもしれない。期待しすぎるのはよくないので、冷静になり自分を落ち着かせる。
何があるかわからないが、とりあえず生きてみよう。俺の代わりなんていくらでもいる、今の仕事は他の誰かに任せて、俺は行動するのだ、自分のペースで、誰の人生でもない俺の人生を幸せにするために。
誰にも死に際を見られたくなかったので、でかい釣具屋に売っているようなゴムボートを買って、海に向かい、水の中で死ぬことにした。
仕事終わり、車にボートを積んでいざ海へ向かった。今日も最悪な一日だった。仕事の締め切りが来月だったのだが早く終わらせたかったらしく、なんでお前はまだ終わっていないんだととんでもなく怒鳴られた。
キレるのは分からなくもないが、せめて締切日を過ぎてからブチギレてほしい。こっちだってやらなきゃいけないことはそれ以外にたくさんあると言うのに。
机をバンバン叩きながら無能だのなんだの言い散らかして、目を一回転させあたかも呆れた態度を取る。元々性格が悪いのは知っていたが、いざ自分に向けられると嫌なものである。まぁ、今日死ぬからどうでも良いが。
私が死んだらみんなどうなるのだろう。
みんな驚いたり悲しんだりするのだろうか。例の上司は後悔するのか。もし俺のせいであいつが死んだんだと後悔していたら不謹慎だが笑えてくる。あのおっさんにはそのまま一生心に傷を負って死を迎えてほしいものだ。
そんな最低なことを考えながら海の中を進んでいく。正直水深的に死ぬことはできるだろうが、恥ずかしい話ここまで来て死ぬのが怖くなっている。誤魔化すためにまた沖へと進んでいく。
しかし、先ほど自分が死んだ後の上司についていろいろ思ったが、ここまで最低なことを考えるとは自分に引いてしまう。
思えばいつからこんな人を不幸を願うようなことを考えるようになったのか。自分が恥ずかしい。
心の余裕があるとかないとかよく聞くが、これが無いと言うやつか。
生きているうちに嫌なことが多々あると、つい他のものに当たってしまう。立ち寄ったコンビニの店員や街中で肩がぶつかった相手などに。今思えばきっと彼らには自分は上司であるあのおっさんと同じに写ってたに違いない。なんだ、俺も同類ではないか。
そう思うと、上司もいろいろ溜まってたのだろう、と今になって思う。初めからクズな人間なんてこの世にいないはずだ。みんな何かきっかけがあって今の性格が形成されている。
辛いことがあり、ストレスが溜まり、そしてそれを周りにばら撒く。撒かれた側の人間たちは、同じようにストレスが溜まって、また同じように撒き散らす。
今の日本はこれの塊のような国かもしれない。みんなストレスを抱え、憂鬱になりながら、それでも生きるために必死になっている。泣きたくなるような話ばかりだ。
テレビやネットに関しても、昔はみんな笑って見ていたものが、今ではすぐ炎上したりと、何かと大変である。芸能人たちはみんな大変そうだな。
きっと吐口として粗探しをされ、何もおかしくないところを無理に指摘されている。そんなことばかりで規制がかかり、思えばテレビのコンテンツ減った気がする。
こう考えると、私たちはみんな子供のようだ。自分がイライラしてるから、と、周りにあたったりこのコンテンツが嫌いだからと文句を言い散らかしている。
世の中は自分を中心に回っているわけではないのだ。当たり前だが今気づいた。
ふいに我に返った。今更何を考え事をしているんだ。私は死ぬのだ。どのみち明日が来ればまた憂鬱な1日の始まりだ。こんなのはもううんざりだ。いざ海中へ...
と、思ってみたが
やはりだ
怖い、 いや、 悲しくなってきた
今まで育ててくれた親のことが浮かぶ
私には両親がいる。田舎の両親が。
ふと昔見た子供が自殺して取り残された親を密着した番組を思い出した。
その番組には外では平気な顔した夫婦が、家では子供の遺影を見て毎晩泣いている姿が画面いっぱいに映し出されていた
俺の両親も同じ思いをするのだろうか、間違いなくそうだろう、それはあまりにも申し訳ない。
そしてそれと同時にもう1つ思い浮かんだ言葉が2つくらいあった。
これも昔に読んだ偉人の名言集みたいな本に書いてあった、アインシュタインの
「誰もが天才だ。しかし、魚の能力を木登りで測ったら、魚は一生、自分をダメだと信じて生きることになるだろう。」
と言う言葉。
もう1つはボブ・マーリーの
「ひとつのドアが閉まっている時、もっとたくさんのドアが開いているんだよ」
この2つである。
もしかしたら私には、まだ可能性があるかもしれない。幸せになる可能性が。
人生は長い、だいたい80年ってとこか。
私はまだ3分の1程度しか生きていない。もし行動を起こせば、何か変化があるかもしれない。しかし、いざ転職したり新しい挑戦をしたとしたら周りはなんて言うだろうか。止められたり、馬鹿にされるのは目に見えている。やはりやめよう、馬鹿馬鹿しくなってきた。
そう思ったが、やはりこの思考が頭から離れない。幸せ、幸せになれるのか、俺が。
どうせ人生は一度しかない。死ぬ前に幸せになるための手を尽くして、それでダメだったらさよならしよう。
挑戦や行動を馬鹿にして止めてくる奴らもいるだろうが、そいつらの言うことが正しいとは限らないし、そもそもあいつらは俺の人生の何者でもない。責任だってとっちゃくれない。行動しなけりゃ何も変わらんのだ。
そう考えると、急に視野が広くなった気がしてきた。もう少し現世で遊んでみるか、そう考えると何故だか楽しくなってくる。
気に入らないもんは見なけりゃ良い。嫌ってくる奴らは勝手に嫌ってくれて構わない。俺は俺の好きなようにいきるのだ。
とにかく死ぬのはやめだ。明日は会社も休もう。精神科にでも行ってみるか。行った経験がないから少々不安だが。だが行けば何かしら知ることはあるだろう。その後はその時考えれば良い。
俺が自殺未遂するとは思わなかったように、将来はいい意味で予想しなかったことが起きるかもしれない。期待しすぎるのはよくないので、冷静になり自分を落ち着かせる。
何があるかわからないが、とりあえず生きてみよう。俺の代わりなんていくらでもいる、今の仕事は他の誰かに任せて、俺は行動するのだ、自分のペースで、誰の人生でもない俺の人生を幸せにするために。
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