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第一部
序・ある夏の日(その1)
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強い日ざしが、プールサイドのコンクリートをじりじりと照らしつけている。もやもやと揺れるかげろうの彼方では、つきぬけるような青空の真ん中に入道雲がぽっかりと浮んでいる。土ぼこりの立つ校庭の傍らの花壇では、黄色いひまわりや真っ赤なカンナの花が色鮮やかに咲き誇っている。空の机が並ぶがらんとした教室は、運動部員たちのかけ声と吹奏楽部員が奏でる楽器の音が窓の外からかすかに響いてくる以外、薄暗くしんと静まり返っている。じっとしているだけでも汗がふき出しそうな、風もない真夏の昼下がり。
ここ夕凪中学は神戸の街の西の郊外の、駅から高台に上った住宅街に位置し、校舎からは穏やかな瀬戸内海や、淡路島との間にかかる明石海峡大橋も一望できる。眼下に見下ろす明石海峡も、夏の強い日差しを浴びて波間がキラキラと輝いている。そしてその校内のプールでは、夏休み中にもかかわらず、水泳部員たちの威勢のいいかけ声が響いてくる。夏になると大会が連続する上、三年生にとってはこの夏の大会で引退して高校受験に専念することになるので、練習にも自然と熱が入るようになっていた。屋外のプールで練習を繰り返すうちに、どの部員も水着の跡だけを残して日焼けで真っ黒になっていた。
準備運動や基礎トレーニングが終り、三年生の部員たちがプールの端の飛び込み台の前に横一列で並ぶと、藤坂潮音もその中に混じり、飛び込み台に上った。彼は水泳部員の中ではむしろ小柄でおとなしい方だったが、中学入学と同時に水泳部に入部し、練習を重ねるうちにめきめきと腕を上げていった。すぐ隣のコースのがっしりとした体格の生徒は、彼と同じクラスの椎名浩三。彼は水泳部のホープで、スポーツ枠で水泳の名門高校に推薦入学することも有力視されている。
潮音は両目にゴーグルを当て、揺れる水面をじっと見つめた。そして息を大きく吸い込むと、心の中で緊張の糸がぴんと張り詰めるのを感じた。そして潮音は、コーチの笛の合図とともに全身をすらりと伸ばして、プールの中に身を踊らせると、手足を動かして力の限り水をかいた。しかしどの部員も、ムダのないフォームで勢いよくプールの水面を切り裂いていく。
潮音がターンしてスタート地点に戻ったのは、浩三が潮音に大きく差をつけて悠然とゴールを決めた後だった。潮音が遅れてゴールインすると、浩三が勢いよく潮音に手を差し出してきた。潮音はガッツポーズでそれに応えた。
ふと一息つくと、女子部員の方からも歓声が上がっている。彼女たちの多くは浩三に向けて熱い視線を送っていたが、その中で一人の女子部員がプールから上がり、スイミングキャップを取って悠然とした身ぶりでセミロングの髪についた水滴をはらうと、男子部員たちの目は彼女にくぎづけになった。
彼女の名は尾上玲花。水泳だけでなく勉強の成績も学年のトップクラスで顔も美人とあって、男子の間にはひそかに熱をあげている者も大勢いる。シンプルな水着は彼女の抜群のプロポーション、そしてそこから伸びたすらりとした手足を余すところなく強調していた。彼女が強い日ざしが照り返すプールサイドに立つと、辺りに一陣の涼風が吹いたような感じがした。
潮音もしばらく玲花の姿に見とれていると、浩三にこづかれた。
「藤坂、なに尾上さんに見とれとるんや。練習再開やで」
潮音は我に返ると、少々照れくさそうな表情で練習に戻った。
練習が終るのは、影が濃さを増して長く伸び、涼しい風が吹きはじめるころだった。校内から眺められる明石海峡の色も、ほんのりとした暮色に染まりつつあった。水泳部の部員たちはシャワーを浴びて、一斉に更衣室へと戻った。
女子部員たちの間からは、シャワーを浴びる間もにぎやかなおしゃべりの声が絶えることがない。彼女たちの話題は、浩三のことで持ちきりだった。しかし玲花の隣でシャワーを浴びていたどこか控えめそうな少女は、玲花の姿と自分自身とを見比べながら、しきりにため息をついていた。
「どないしたん? 塩原さん」
玲花はその少女に声をかけた。その「塩原さん」と呼ばれた少女は、びくりとして玲花に目を向けた。
「いや…尾上さんって美人やしスタイルかてええし、どないすれば自分もそないになれるんかなって…。私はこのところタイムも全然伸びとらへんし勉強かてはかどってへんし、せめて尾上さんくらいになれるんやったら、もっと何に対しても前向きになれそうな気がするんやけど…」
もじもじしながら自信のなさそうな口ぶりで話す少女に、玲花はそっと声をかけてやった。
「そんなん気にせえへんかったらええのに。塩原さんはもっと自分に自信持った方がええと思うよ」
玲花がとりすました口調で話しても、その少女、塩原優菜は身構えたまま、玲花が髪の手入れをしている様子をじっと眺めていた。ちょうどそのとき、二人のそばでおしゃべりしていた女子部員の一人が声をかけてきた。
「優菜、尾上さんとそんな話して、まさか好きな男の子でもおるんとちゃうの?」
優菜は顔を真っ赤にして声をあげた。
「そんなことあらへんってば」
「そんなに照れくさそうにするってことは、やっぱり図星ってことやん」
その女子部員の言葉に優菜はますます顔を赤らめて、はにかんだ表情をしながら唇をかみしめていた。
その一方で、潮音と浩三もシャワーを浴びると、連れだって更衣室へと向かった。
「椎名、お前ってやっぱりすごいよな。オレなんか全然かなわないよ」
「いや、藤坂かてタイムはだいぶ縮まっとるやんか。人のことなんか気にせんで、もっと自分に自信持ちや」
「でもお前はこの夏の大会でも決勝まで行けそうだもんな。そうなったらスポーツ推薦だってもらえそうだし。オレなんかせいぜい予選出るのが精一杯だよ。あーあ、帰ったらまた勉強だ」
そう言ってため息をつく潮音に、浩三は少し意地悪な顔をしながら声をかけた。
「ところでお前、さっき尾上さんの方ばかり見とらへんかったか?」
「い、いや…その」
潮音が顔を赤らめてあわてたそぶりをするのを、浩三はにやにやしながら眺めていた。
「いや、尾上さんってほんまにめっちゃ美人やし、スタイルかて抜群やからな。潮音の気持ちもわかるで。でもだからといって練習サボったらあかんよ。第一お前に尾上さんはもったいないよ」
浩三にたしなめられて、潮音はしゅんとした表情をしながら、タオルで体についた水滴をぬぐった。
着替える前、潮音は浩三の方にちらりと目を向けた。彼はさすがに水泳部のホープというだけあって、背が高く肩幅も堂々としているし、日ごろから筋トレで鍛えているたくましい胸や手足も贅肉がなくきりりと引き締まっている。それに比べると潮音は背丈も低くて肩幅も小さい。顔つきもどちらかというと女顔で、浩三の精悍な顔に比べるとあどけなさが抜けてはいない。潮音は浩三と自分を見比べてみて、ふとため息をついた。
実は潮音にとって、身長が百六十センチに満たないほど背が低くて小柄なことは大きなコンプレックスだった。クラスで背の順に並んでも、潮音の順番はいつも前の方になってしまう。潮音は水泳をやっているからにはもっと背が高くなればと常に思っているものの、なかなか背が伸びないことに対してもどかしさを抱かずにはいられなかった。潮音は軽くため息をつくと、そそくさと制服のワイシャツを手に取ってそれを着込んだ。
ここ夕凪中学は神戸の街の西の郊外の、駅から高台に上った住宅街に位置し、校舎からは穏やかな瀬戸内海や、淡路島との間にかかる明石海峡大橋も一望できる。眼下に見下ろす明石海峡も、夏の強い日差しを浴びて波間がキラキラと輝いている。そしてその校内のプールでは、夏休み中にもかかわらず、水泳部員たちの威勢のいいかけ声が響いてくる。夏になると大会が連続する上、三年生にとってはこの夏の大会で引退して高校受験に専念することになるので、練習にも自然と熱が入るようになっていた。屋外のプールで練習を繰り返すうちに、どの部員も水着の跡だけを残して日焼けで真っ黒になっていた。
準備運動や基礎トレーニングが終り、三年生の部員たちがプールの端の飛び込み台の前に横一列で並ぶと、藤坂潮音もその中に混じり、飛び込み台に上った。彼は水泳部員の中ではむしろ小柄でおとなしい方だったが、中学入学と同時に水泳部に入部し、練習を重ねるうちにめきめきと腕を上げていった。すぐ隣のコースのがっしりとした体格の生徒は、彼と同じクラスの椎名浩三。彼は水泳部のホープで、スポーツ枠で水泳の名門高校に推薦入学することも有力視されている。
潮音は両目にゴーグルを当て、揺れる水面をじっと見つめた。そして息を大きく吸い込むと、心の中で緊張の糸がぴんと張り詰めるのを感じた。そして潮音は、コーチの笛の合図とともに全身をすらりと伸ばして、プールの中に身を踊らせると、手足を動かして力の限り水をかいた。しかしどの部員も、ムダのないフォームで勢いよくプールの水面を切り裂いていく。
潮音がターンしてスタート地点に戻ったのは、浩三が潮音に大きく差をつけて悠然とゴールを決めた後だった。潮音が遅れてゴールインすると、浩三が勢いよく潮音に手を差し出してきた。潮音はガッツポーズでそれに応えた。
ふと一息つくと、女子部員の方からも歓声が上がっている。彼女たちの多くは浩三に向けて熱い視線を送っていたが、その中で一人の女子部員がプールから上がり、スイミングキャップを取って悠然とした身ぶりでセミロングの髪についた水滴をはらうと、男子部員たちの目は彼女にくぎづけになった。
彼女の名は尾上玲花。水泳だけでなく勉強の成績も学年のトップクラスで顔も美人とあって、男子の間にはひそかに熱をあげている者も大勢いる。シンプルな水着は彼女の抜群のプロポーション、そしてそこから伸びたすらりとした手足を余すところなく強調していた。彼女が強い日ざしが照り返すプールサイドに立つと、辺りに一陣の涼風が吹いたような感じがした。
潮音もしばらく玲花の姿に見とれていると、浩三にこづかれた。
「藤坂、なに尾上さんに見とれとるんや。練習再開やで」
潮音は我に返ると、少々照れくさそうな表情で練習に戻った。
練習が終るのは、影が濃さを増して長く伸び、涼しい風が吹きはじめるころだった。校内から眺められる明石海峡の色も、ほんのりとした暮色に染まりつつあった。水泳部の部員たちはシャワーを浴びて、一斉に更衣室へと戻った。
女子部員たちの間からは、シャワーを浴びる間もにぎやかなおしゃべりの声が絶えることがない。彼女たちの話題は、浩三のことで持ちきりだった。しかし玲花の隣でシャワーを浴びていたどこか控えめそうな少女は、玲花の姿と自分自身とを見比べながら、しきりにため息をついていた。
「どないしたん? 塩原さん」
玲花はその少女に声をかけた。その「塩原さん」と呼ばれた少女は、びくりとして玲花に目を向けた。
「いや…尾上さんって美人やしスタイルかてええし、どないすれば自分もそないになれるんかなって…。私はこのところタイムも全然伸びとらへんし勉強かてはかどってへんし、せめて尾上さんくらいになれるんやったら、もっと何に対しても前向きになれそうな気がするんやけど…」
もじもじしながら自信のなさそうな口ぶりで話す少女に、玲花はそっと声をかけてやった。
「そんなん気にせえへんかったらええのに。塩原さんはもっと自分に自信持った方がええと思うよ」
玲花がとりすました口調で話しても、その少女、塩原優菜は身構えたまま、玲花が髪の手入れをしている様子をじっと眺めていた。ちょうどそのとき、二人のそばでおしゃべりしていた女子部員の一人が声をかけてきた。
「優菜、尾上さんとそんな話して、まさか好きな男の子でもおるんとちゃうの?」
優菜は顔を真っ赤にして声をあげた。
「そんなことあらへんってば」
「そんなに照れくさそうにするってことは、やっぱり図星ってことやん」
その女子部員の言葉に優菜はますます顔を赤らめて、はにかんだ表情をしながら唇をかみしめていた。
その一方で、潮音と浩三もシャワーを浴びると、連れだって更衣室へと向かった。
「椎名、お前ってやっぱりすごいよな。オレなんか全然かなわないよ」
「いや、藤坂かてタイムはだいぶ縮まっとるやんか。人のことなんか気にせんで、もっと自分に自信持ちや」
「でもお前はこの夏の大会でも決勝まで行けそうだもんな。そうなったらスポーツ推薦だってもらえそうだし。オレなんかせいぜい予選出るのが精一杯だよ。あーあ、帰ったらまた勉強だ」
そう言ってため息をつく潮音に、浩三は少し意地悪な顔をしながら声をかけた。
「ところでお前、さっき尾上さんの方ばかり見とらへんかったか?」
「い、いや…その」
潮音が顔を赤らめてあわてたそぶりをするのを、浩三はにやにやしながら眺めていた。
「いや、尾上さんってほんまにめっちゃ美人やし、スタイルかて抜群やからな。潮音の気持ちもわかるで。でもだからといって練習サボったらあかんよ。第一お前に尾上さんはもったいないよ」
浩三にたしなめられて、潮音はしゅんとした表情をしながら、タオルで体についた水滴をぬぐった。
着替える前、潮音は浩三の方にちらりと目を向けた。彼はさすがに水泳部のホープというだけあって、背が高く肩幅も堂々としているし、日ごろから筋トレで鍛えているたくましい胸や手足も贅肉がなくきりりと引き締まっている。それに比べると潮音は背丈も低くて肩幅も小さい。顔つきもどちらかというと女顔で、浩三の精悍な顔に比べるとあどけなさが抜けてはいない。潮音は浩三と自分を見比べてみて、ふとため息をついた。
実は潮音にとって、身長が百六十センチに満たないほど背が低くて小柄なことは大きなコンプレックスだった。クラスで背の順に並んでも、潮音の順番はいつも前の方になってしまう。潮音は水泳をやっているからにはもっと背が高くなればと常に思っているものの、なかなか背が伸びないことに対してもどかしさを抱かずにはいられなかった。潮音は軽くため息をつくと、そそくさと制服のワイシャツを手に取ってそれを着込んだ。
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