裸足の人魚

やわら碧水

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第一部

第一章・鏡(その3)

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 翌朝潮音が目を覚ますと、パジャマは寝汗でじっとりと濡れていた。ベッドから起き上がっても、頭からは重苦しさがひかなかった。何か気がかりな夢を見たような気がするのだが、思い出すことができない。

 さらに潮音が違和感を覚えたのは胸と腰だ。胸の奥にはなにかむずむずするような感触がつきまとい、腰の奥にもなにかすっきりとしない、重苦しいものを感じた。

 制服に着替えようとパジャマを脱いだとき、潮音は思わずどきりとした。二つの胸が、ごくわずかにではあるが盛り上がっているように感じたのだ。

 潮音は心臓が高鳴るのを感じた。乳首に手を触れてみると、なぜかはっと軽くため息をついてしまった。さらに素肌に手が触れると、心なしかその素肌が敏感になったかのような感じがした。下着がわりのTシャツを着ると、その下から乳首がぽつりと透けて浮き出しているような気がしたので、あわててワイシャツを着込んだ。朝食のとき、則子は体調が悪いなら学校を休めばと声をかけたが、潮音は入試前の大事な時期を落すわけにはいかないと思い学校に向かった。

 潮音が学校に着くと、浩三も潮音の様子が普通ではないことに気がついたようだった。浩三は心配そうな面持ちで潮音に声をかけた。

「潮音、大丈夫か。顔色悪そうやけど」

「あ、ああ、なんとか…」

「気いつけや。入試前の今の時期に体調崩したら一大事やからな」

 しかし浩三は、先週までは全く元気だった潮音の様子が、何の予兆もなかったにも関わらず一転して不調になっていることに不安を覚えざるを得なかった。そしてその日は授業中も気分がすぐれなかったとはいえ、潮音もなんとか一日を無事に過ごすことができた。

 しかしその翌日になると、潮音の胸はかすかながらさらに突っ張っていた。制服の黒いズボンをはいたとき、なんとなくヒップのあたりが窮屈に感じる反面、ベルトの部分がゆるくなっているように感じた。さらにトイレに行って用を足すときも、心なしか勢いがないかのように感じた。

 それでもなんとか学校に来ると、校門でばったり暁子と優菜に出会った。暁子も昨日から潮音の体調が思わしくないことをいぶかしんで、潮音にそのことをきいてみたが、潮音はただ「なんでもない」と言ってごまかすしかなかった。優菜は黙ったまま、ただ不安げな表情で潮音を見守っていたが、暁子の疑念は晴れることがなかった。

「潮音、なんか声が少し高くなってない? カゼひいたの?」

 潮音は困惑した表情を浮かべながら、暁子と優菜のもとを立ち去ろうとした。しかしそのときの潮音の後ろ姿を見て、暁子は黒い学生服の詰襟からのぞくうなじが色白になっているのに気がついて思わず息をのんだ。暁子はその潮音の姿に何かただならぬものを感じて、これ以上潮音に何も声をかけることができないまま、しばらくその場に立ちすくんでいた。優菜はその傍らで、さらに顔面を蒼白にさせたまま身体をこわばらせていた。

 そして授業が始まってからも、潮音の頭の重苦しさはますます激しくなっていた。さらに重苦しい痛みが間断なく潮音の下腹部を襲い、とうとう潮音は休み時間に教室を移動する最中に、立つことすらままならなくなって、廊下の床面に倒れこんでしまった。潮音のまわりに人垣をつくった生徒たちも、数日前まで元気だった潮音の容態の変化に戸惑っていた。

 保健室に運ばれてからも、重苦しい痛みが間断なく潮音の下腹部を襲い、起き上がることすらままならなくなった。潮音の体の変化は、いよいよ本格的に加速し始めたのだ。額に汗を浮かべて激しく呼吸をしながら苦しげな表情を浮かべる潮音を見て、保険医はただごとではないとさとると、すぐに病院に電話して潮音を救急車に乗せた。

 病院の医師たちにとっても、このような症状は今までに見たことがないものだ。潮音は病院のベッドに寝かされると、ようやくぐっすりと眠りに落ちていった。そしてそのまま、すぐに潮音は病院の奥で精密検査を受けることになった。その日は綾乃、そして則子や雄一も仕事を早く切り上げて病院へとかけつけたが、面会はかなわなかった。

 病室のベッドで検査を受けている間も、潮音は目を覚まそうとしなかった。しかしその間に、潮音の体の変化の度合いはますます速まっていった。二つの胸はますます大きくふくらみ、丸みを帯びた弾力のあるものへと変っていった。全身の肌は血の色がひいて蒼白になっただけでなく、つややかできめ細かくなっていった。体毛も太くてごわごわしたものから産毛へと生え変り、ウエストはくびれて細みを増す反面、ヒップは大きくふくらんでいった。そして肩はなで肩になり、手足も筋肉が落ちて細いしなやかなものへと変っていった。さらに髪も、普通では考えられないような速いスピードで伸びていった。

 医師たちはそのような潮音の体の変化を目の当りにして、いったいどうすればいいのか、どのような治療を施せばいいのか、一切面会謝絶にしたまま手をこまねいて見守る以外になかった。


 潮音の下半身のレントゲン写真を見て、潮音の担当医の黒田圭太くろだけいたは考え込んでいた。そこに写っていたもの…それは子宮と卵巣だった。一方で睾丸こうがんは溶けるようにしてなくなり、股間の膨らみも小さくなってあたかも体内に吸い込まれるかのように退化し、女性のものへと姿を変えつつあった。

 黒田はそんなばかなと思いながらも、目の前にこうまであからさまに現実を見せつけられると、それを信じないわけにはいかなかった。潮音は本当に回復できるのか、仮に回復できたとしてもその後の人生をどのように送ればいいのか、医師として何ができるのか──考えれば考えるほど、疑問は深まるばかりだった。

 ちょうどそのとき、医務室のドアをノックする音がした。医務室に入ってきたのは潮音の祖父の敦義だった。敦義の表情からは、苦悩と憔悴しょうすいの色がありありと浮かんでいた。

「藤坂さん、今ここにいるあなたの孫の潮音君はあなたの家の土蔵で保管していた古い鏡に触れたときから身体に異状をきたしたようですが、何か心当たりはないでしょうか」

 黒田に尋ねられると、敦義は一呼吸おいて口を開いた。

「あの鏡はうちに昔から伝わっとった物なんやけど、今になって保管されている文書を見て由来を調べてみたんや」

 そして敦義は鏡の由来を語り始めた。

──その鏡は明治の昔、敦義の先祖にあたる藤坂家の当主の令嬢の持っていたものだった。彼女には意中の人がいて結婚の約束まで交わしていたが、その相手の家が事業に失敗して破産したために、結婚話は破談になってしまう。ほどなくして彼女は悲嘆のあまり重い病にかかり、若くしてはかない生涯を終えたのだった。──それ以来その鏡を持つ者には不幸が訪れたため、令嬢の無念がその鏡に宿っているのではとうわさされるようになった。そのため神社の宮司が、厄払いをして鏡を土蔵の奥深くに封じ込めたのであった。

 そして敦義は、おそらく鏡の奥に封じられた令嬢の無念、そして生きたいという意志が潮音の体に取りついたものだろうと語った。

 敦義が語り終えると、真剣な表情で話の一部始終に聞き入っていた黒田が、神妙な面持ちで口を開いた。

「まさかこのようなことが本当にあるとは。我々としてはどのようにすればよいのでしょうか。…でも敦義さん、あなたもだいぶ疲れているようですね。お孫さんのことが心配なのはわかりますが、今は我々が何かできるわけでもないから、ゆっくり休んだ方がいいですよ」

「すいまへん、私も孫がいきなりこんなことになって、それ以来ずっと心配で夜もなかなか寝られんかったもんで…。でもあくまで臆測やが…この鏡にとりついた魔力はさほど悪質なものではないようや。潮音の体をつくりかえはしたものの、それ以外の点で危害を加えることはないやろう」

「ということは…我々としてはそのお嬢様のことを信じて、おとなしく行方を見守るしかないのですか。でも問題は、潮音君が果たしてその現実を受け止めることができるかどうかですな。むしろ症状が回復してからの方が大きな問題でしょう」

 敦義も黙ってうなづくと、医務室を後にした。
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