裸足の人魚

やわら碧水

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第二部

第二章・嵐の予兆(その6)

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 翌朝潮音は、起床時間よりかなり早く目を覚ました。潮音は緊張のためによく眠れなかったのだろうかと思ったが、周囲を見渡しても潮音のクラスメイトたちはまだ眠りこけたままだった。しかし寺島琴絵の寝ていた布団だけはもぬけの殻になっていたので、潮音は琴絵はどうしたんだろうと思いながら部屋を後にした。

 潮音が玄関から外に出ると、早朝の澄んだ光が辺りを照らしていた。森の木の芽の香りを含んでしっとりとした高原の空気は、ひんやりとして肌寒ささえ感じさせた。潮音が目を凝らしてみると、琴絵は藤棚の下にあるベンチにたたずんでいた。琴絵も潮音の姿に気がつくと、軽く手を振った。

「おはよう、藤坂さん。なんか眠そうにしてるけど、よく寝られなかったの?」

「寺島さんこそそこで何してるの?」

「ちょっと散歩してただけよ。ここの朝の空気は気持ちいいからね」

 そして琴絵は思い切り伸びをすると、花壇一面に植えられたポピーやパンジーの葉や花びらに、朝露がきらきらと輝いているのに目を向けた。潮音がそのような琴絵の優しげなまなざしを眺めていると、昨日はどこか内向的で、クラスの中で孤立しているようにも見えた琴絵の顔も、澄み渡った朝の木漏れ日を浴びて明るく輝いているように見えた。

 潮音は同時に、琴絵は松風の少女たちの中ではどちらかというと目立たない感じがするけど、やはり内面は繊細で優しい人なのだと感じていた。潮音は琴絵ならば、自分が少し前まで男だったことを明かしても、自分のことを奇異の目で見たりせずに受け入れてくれるかもしれないと直感し始めていた。そこで潮音が口を開きかけたときだった。

「あの、実は…」

 そのとき森の奥から野鳥の鳴き声が聞こえてきた。琴絵は聞き耳を立てて、その鳥の名を言い当てるとその特性について説明してみせた。潮音はここで、自分のことを打ち明けるタイミングを逃してしまったと感じた。

「寺島さんって何でも知ってるんだね」

「うちのお父さんは、私が小さい頃からよく私を連れて山にバードウォッチングに行ってたからね。そんなときには、私はここに生えてるような花を押し花にしてたのよ」

「でも寺島さんも、もっとみんなと仲よくしたらいいのに」

「こういう行事になると、みんなでだれそれに彼氏がいるとか、ファッションや流行がどうだとかいう話したり、枕投げとかやったりするんでしょ。私はそういう乗りってどうも苦手だからね」

「オレは寺島さんのこうやって自分をしっかり持ってるとこは偉いと思うよ。でもだからといって、わざわざまわりと壁作ることなんかないのに」

 そこで琴絵は、潮音がいきなり自分のことを「オレ」と言ったのに目を丸くした。潮音はしまったとばかりに口をつぐんだ。

「ふうん。藤坂さんは自分のこと『オレ』って言うんだ。なんか面白いじゃない。でもみんなや先生の前でそんな言葉づかいしない方がいいわよ。うちの学校って変におかたいところがあるからね」

 潮音は琴絵が自分の心の中まで見透かしているような気がして、一瞬どきりとした。しかしなんとかしてそこから気を取り直すと、潮音は口を開いた。

「私…だってそんなに人のことなんか言えないけど。寺島さんはこうやって私と話するくらいだから、心は優しい人だと思うよ」

「なんか藤坂さんって、高等部から入ってきた子の中でもほかの子とはちょっと違うわね。でも私とは何か気が合いそうな気がするわ」

 ここで潮音は、思いきってスマホを取り出すと、その中に保存してある、詰襟の学生服を着た中学生のときの自分の写真を画面に映し出して琴絵に示した。琴絵は潮音の唐突な行動に一瞬戸惑いの色を見せたが、しばらくの間スマホの写真と潮音の姿を交互に見比べていた。

「この男の子…たしかに藤坂さんにちょっと感じが似てるような気がするけど、それがどうかしたの?」

「実はこれ…中学のときのオレの写真なんだ」

 琴絵が驚く間もなく、潮音は全てを打ち明けた。琴絵は始めこそ潮音の話をただ驚きながら聞いていたが、しばらくして落ち着きを取り戻すとにんまりとした笑顔を浮かべた。

「なかなか面白い話じゃん」

「寺島さんは…こんな話聞いて平気なの」

「それを言うなら、あなたこそどうして私に今のような話したの」

「なんか知らないけど…寺島さんならオレのことわかってくれそうな気がしたから」

「それは褒めてるのかしら…ともかくこのことは、ほかの子にはあまりペラペラしゃべらない方がいいわね。私も内緒にしておくわ。ところでそろそろみんなも起き出すころだから、宿舎に戻った方がいいんじゃない?」

 そして琴絵と潮音が宿舎に向かうと、玄関の方から暁子の声がした。

「潮音、朝ごはんの前に布団片づけなきゃ」

 潮音が暁子に急かされて宿舎に戻ろうとすると、紫が潮音と琴絵の前に出てきた。

「藤坂さん、寺島さんと何の話してたのよ」

 そこで琴絵がさっそく答えた。

「私が朝早く起きて散歩してたら、藤坂さんが出てきただけよ」

 琴絵の言葉には、紫も納得したようだった。

「寺島さんがそう言うのなら、大丈夫だと思うけど…もしかして藤坂さんも眠れなかったの? ともかくこれから洗面所は混むから、早く準備した方がいいわよ」

 潮音は紫に急かされながら、自分たちが泊まっていた部屋に向かった。


 朝食が終ると、皆で近くのハイキングコースを散策することになった。春の訪れを迎えて、山の木々には萌黄色の新芽が萌え始め、遊歩道沿いにはタンポポやイヌノフグリなどの花が咲き誇っていた。少しぼんやりと霞がかかった春の空には、うららかな陽光が一面に満ち溢れ、それが梢の間から漏れていた。遊歩道のそばで八重桜が咲き誇っているのを目にすると、少女たちは歓声をあげた。

 潮音もそのような少女たちの一群と連れだって遊歩道を歩くうちに、自分のまわりにいる少女たちとも少しづつ話ができるようになっていった。潮音は彼女たちに混じって周囲の景色を眺めているうちに、ようやく心の中に積もったわだかまりが多少なりともほぐされていくような気がした。

 やがて一行がさらさらと音をたてて流れる小川のほとりに着くと、美鈴はさっそく歓声をあげた。

「この川の水、澄んでてめっちゃきれいやな」

 澄み切った水面には、春の光が反射してキラキラと輝いていた。さっそく美鈴をはじめとする数人の少女たちは素足になって、小川の流れに足を浸した。潮音も遠慮がちに川に入ってみると、美鈴は素足で水をはねながらその場ではしゃいでみせた。

 そしてみんなで山の頂上の見晴し台に着くと、そこでしばらく眺望を楽しんだり遊んだりした。そこで暁子が、景色を眺めながら潮音にさっそく声をかけた。

「あたし、潮音がこの学校でみんなとちゃんとやっていけるか心配だったんだ。でも今のあんたはけっこう楽しそうにしてるじゃん」

 そのように話す暁子も、どこかほっとしたような面持ちだった。潮音はうっかり「オレ」と口を開きそうになって、あわてて口をつぐんだ。

「バカだな。暁子も私…のことばかり気にしてないで、もっと自分が楽しめばいいのに」

「でもこうしてると、春休みで潮音や優菜と一緒に、瀬戸内にあるあたしのおじいちゃんの家に行ったことを思い出すよね」

「ああ…あれは楽しかったな。これからも暁子と一緒にいろんなことできたらいいのに」

 潮音がそう言って、春霞の漂う山の景色を眺めていると、背後から呼び止める声がした。そこに立っていたのは紫と琴絵だった。

「石川さんって…藤坂さんと家も近所で小学校も中学校も一緒だったみたいね」

 暁子は紫の表情や口ぶりから、紫の聞こうとしていたことの意味を即座に察した。その傍らでは、琴絵も黙ったまま腕を組んで、その場のやりとりをじっと見守っていた。

 暁子は落ち着いた表情で紫に答えた。

「私は藤坂さんとは家が隣同士で、小さな頃からずっと一緒だったし、この半年で藤坂さんの身に何が起きたかもみんなわかってます。だから藤坂さんをあまり変な目で見るのはやめて下さい」

 しかし紫は、暁子をなだめるように言った。

「石川さん…私たちは同じ学年の同じクラスじゃない。どうしてそんなかしこまった言葉で話す必要あるのよ」

 そして紫は琴絵と一緒にその場を離れる間際に、暁子に声をかけた。

「石川さんも藤坂さんのフォローをちゃんと頼んだわね」

 紫と琴絵が去った後、暁子は潮音を物陰に連れ込んで言った。

「峰山さんと寺島さんには話したのね」

「オレはもともとバレたってかまわないと思ってたよ。オレはもともとやましいことなんか何もしてないし、そもそもウソやごまかしなんていつかはきっとバレるものだからな。それよりほんとの自分の姿すらごまかしながらつき合うのはもうたくさんだ」

「そういうウソのつけない不器用なとここそが、あんたのいいところよね」

 暁子はため息混じりに答えた。


 午後になって宿舎に戻って制服に着替え、帰りのバスに乗り込むころには、美鈴たち高等部組も入学式のときの緊張感は薄れて、中等部組ともおしゃべりを楽しむことができるようになっていた。

 やがてバスが学校に着いて一同が解散すると、潮音と暁子は一緒に帰宅しようとした。二人は優菜にも声をかけたが、優菜は楓組の生徒と一緒に遊びに行く約束ができたと言って、申し訳なさそうに潮音の申し出を断った。ちょうどそのとき、紫が潮音に声をかけてきた。

「藤坂さんは私と同じ森末バレエ教室に通ってたということは、家の最寄り駅も一緒だし家もそんなに遠くなさそうね。ちょっと藤坂さんの家に寄っていいかしら。石川さんとも家隣同士なんでしょ?」

 潮音は紫のようなお嬢様が家に来ると聞いて、慌てふためくしかなかった。暁子も呆気に取られたように潮音を見守っていた。
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