裸足の人魚

やわら碧水

文字の大きさ
78 / 298
第二部

第三章・エトワール(その7)

しおりを挟む
 ゴールデンウィークも後半になって、潮音が紫と一緒に神戸の街に行くことに決めた日が来た。その日は空はすっかり青く晴れ上がり、新緑やツツジの花が五月のまばゆい陽光の中でより色鮮やかさを増していた。

「姉ちゃん、服借りるよ」

 綾乃も自分の服を自由に着てもいいと言ったので、潮音はちょっと考えた末に春物の落ち着いた色合いのブラウスに、軽やかな生地のワンピースを重ねることにした。

 潮音はワンピースを着終ると、鏡台の前に腰を下ろして髪のセットを念入りに行い始めた。それを見て綾乃は、いぶかしむように言った。

「潮音、今日は何か気合入ってるじゃない。普段暁子ちゃんと遊ぶときはそんなことしないのに」

「ちょっと聞いたんだけど、峰山さんの家は大会社の役員で、家もお屋敷だって言うからな。こんなお嬢様相手に、あまりみっともないかっこして行くわけにはいかないだろ」

「でもこうして見ると、ほんとに好きな男の子とデートしに行くみたい」

 綾乃が冷やかすように言うと、潮音はむっとしながら言葉を返した。

「いいかげんにしないと怒るぞ」

「でも潮音、まだ時間大丈夫だよね。だったらもうしばらくの間、じっとしてなさい」

 そして綾乃は、潮音の顔にかすかにナチュラルメイクを施した。唇にはうっすらとルージュが塗られ、肌にもファウンデーションが施された。まつ毛もマスカラで形を整えられると、潮音も両目がぱっちりしたかのような気持ちになった。潮音はその間、心の奥の琴線までもがくすぐられるような気がして、気恥ずかしさのあまり顔を赤らめて、ワンピースの中で両足を固く閉ざしてしまった。

 ようやく化粧が終ると、潮音はぽつりとつぶやくように言った。

「姉ちゃん…女って毎日こんな面倒なことしてるのかよ。今だって毎朝学校行くとき、髪の手入れとかするの大変なのに」

「慣れると楽しくなるよ」

 潮音はまだ、その綾乃の言葉を実感として受け止めることができなかった。

 潮音が家を後にするとき、潮音のことを気にしていたのはむしろ母親の則子の方だった。

「この子が学校に入ってすぐに友達ができるなんてね…でも今日潮音が一緒に遊びに行く子って、けっこういいとこのお嬢様なんでしょ? くれぐれも失礼のないようにね」

 則子が老婆心から潮音にいろいろ声をかけるのを、潮音はやや困ったような表情で聞きながら玄関を後にした。


 潮音が待合せ場所の駅に着くと、しばらくして紫も来た。紫は春らしいカットソーに、花柄がプリントされたロングスカートという装いをしていた。

「峰山さんって私服のセンスもいいじゃん」

「藤坂さんこそ、今日はわざわざおしゃれして来たのね」

「私はおしゃれのことなんかまだ全然わかんないからね。峰山さんが教えてくれたらいいのに」

 そして潮音と紫は電車で神戸の街の中心に行くと、商店街のレンガの石畳を連れ立って歩き始めた。

「私…学校の制服以外じゃスカートなんか全然はかないから…」

「無理しなくてもいいのに。藤坂さんらしい服着るのが一番だよ」

「その『自分らしい服』っていうのがどんなのかわかんないから困ってるんだけど。今日だってせっかく峰山さんに誘ってもらったから、Tシャツにジーンズなんて恰好で行くわけにはいかないし」

「別にそれでもよかったのに。ジーンズじゃおしゃれできないわけじゃないでしょ」

「そりゃ峰山さんくらい足が長くてすらっとしてたら、ジーンズはいたってかっこいいと思うけど…」

 そこで潮音は、ショーウィンドーに飾られた、かわいらしい感じのするフレアスカートに目を向けた。その服を眺める潮音の視線に、紫はかえって気づまりなものを感じた。

「藤坂さんってさ…もともと男の子だったんでしょ? でもどうして今じゃ、こうやって女の子の服着てるわけ?」

 しかし潮音は、ここであえて笑顔を浮かべてみせた。

「かわいい服着ておしゃれができるのは、女の子の特権…でしょ? だったら『自分はどうして女になったんだろう』とかうじうじ悩んだりしてないで、それを楽しんでみせなきゃ損じゃん」

 潮音のあっけらかんとした表情に、むしろ紫の方が当惑した表情を浮かべていたが、そこで紫も気持ちを切り替えると潮音の手を引いた。

「そこまで言うなら、今日はめいっぱい楽しもうよ」

 潮音も笑顔でそれに応えた。


 潮音と紫は商店街でしばらくウィンドーショッピングを楽しんだ後で、紫が潮音を商店街の一角の喫茶スペースのある洋菓子店に誘い、そこで紅茶とケーキを注文した。

「このお店のケーキ、なかなかおいしいでしょ。紅茶だっていい香りだし」

 しかし潮音は、いざテーブルを挟んで紫と向き合うと、どこか落ち着かないものを感じていた。それはもし自分が男のままだったら、紫のような美少女と向き合ってお茶を飲むような機会などなかったに違いないと思ったからだった。

 紫もそのような潮音の様子に気がつくと、いぶかしむように潮音に尋ねた。

「どうしたの? なんかちょっとそわそわしてるけど」

「オレ…男だった頃はこうやって女の子と一対一で喫茶店に行ったことなんかなかったから…」

「そんなこと、気にすることないのに。この前だって、恭子と一緒に喫茶店行ってたじゃん」

「あれはテニスの勝負で恭子に負けたらおごるという約束だったから…」

「恭子もそうだけど、お互いにつまんない意地張ることなんかないのに」

 そう言って紫は笑顔を浮かべたが、潮音はその屈託のない笑顔にますます気恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。

 さらに潮音は、紫が紅茶を飲んだり、ケーキを口に運んだりするときの物静かで落ち着いた仕草を見ても、紫はずっと大人っぽくて自分より先を進んでいるように感じていた。

「峰山さんってケーキの食べ方も上品で、私なんかとは全然違う…」

「そんなこと気にしてたの? おいしく食べられたらいいじゃん」

 潮音はふと、もし自分が男の子のままで、女の子とデートすることになってもこのような感じなのだろうかと思っていた。そこで潮音の脳裏には、自分が男子として尾上玲花にひそかに想いを寄せていた頃の記憶が蘇っていた。

──オレは男だった頃は、こうやって女の子と喫茶店で話をするどころか、女の子に声をかけることすらできなかった。あれから自分も変れたと思っていたのに、まだあの頃のことを少し引きずっているのだろうか…。

 そのような潮音の心中などそ知らぬかのように、紫はケーキを食べ終ると潮音を次の場所に案内しようとした。

 潮音と紫は洋菓子店を後にすると、南京町と呼ばれる中華街に向かった。潮音と紫は店頭に飾られた中国風の雑貨や、中国から輸入された食材に目を向けたりもしたが、潮音は紫がそこでも中華まんを頼んだのにいささか呆気に取られていた。

「さっきもケーキ食べたのに、よく腹に入るな」

「たしかにバレエやってるとダイエットにも気をつけなきゃいけないけど、おいしいものは別腹だからね」

 そこで潮音も、屋台でふかひれラーメンを注文した。

「なんだかんだ言って、藤坂さんだってけっこう食べてるじゃん」

 中国風の公園の一角で中華まんを頬張るときの紫は、どこか無邪気な子どものような天真爛漫とした表情を浮かべていた。潮音は日ごろ紫が学校で見せている、きびきびとした表情とは別の面を見たような気がした。

 潮音と紫がそこから海辺のメリケンパークへと足を向けると、初夏の心地よい潮風が二人の髪をそよがせた。二人はそのまま初夏の花の咲き誇る公園の中を散歩しながら、港に停泊している客船や、桟橋の真下にまで波が打ち寄せるのを眺めたりした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妹の仇 兄の復讐

MisakiNonagase
青春
神奈川県の海に近い住宅街。夏の終わりが、夕焼けに溶けていく季節だった。 僕、孝之は高校三年生、十七歳。妹の茜は十五歳、高校一年生。父と母との四人暮らし。ごく普通の家庭で、僕と茜は、ブラコンやシスコンと騒がれるほどではないが、それなりに仲の良い兄妹だった。茜は少し内気で、真面目な顔をしているが、家族の前ではよく笑う。特に、幼馴染で僕の交際相手でもある佑香が来ると、姉のように慕って明るくなる。 その平穏が、ほんの些細な噂によって、静かに、しかし深く切り裂かれようとは、その時はまだ知らなかった。

小学生をもう一度

廣瀬純七
青春
大学生の松岡翔太が小学生の女の子の松岡翔子になって二度目の人生を始める話

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

カオルとカオリ

廣瀬純七
青春
一つの体に男女の双子の魂が混在する高校生の中田薫と中田香織の意外と壮大な話です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

静かに過ごしたい冬馬君が学園のマドンナに好かれてしまった件について

おとら@ 書籍発売中
青春
この物語は、とある理由から目立ちたくないぼっちの少年の成長物語である そんなある日、少年は不良に絡まれている女子を助けてしまったが……。 なんと、彼女は学園のマドンナだった……! こうして平穏に過ごしたい少年の生活は一変することになる。 彼女を避けていたが、度々遭遇してしまう。 そんな中、少年は次第に彼女に惹かれていく……。 そして助けられた少女もまた……。 二人の青春、そして成長物語をご覧ください。 ※中盤から甘々にご注意を。 ※性描写ありは保険です。 他サイトにも掲載しております。

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

【完結】かつて憧れた陰キャ美少女が、陽キャ美少女になって転校してきた。

エース皇命
青春
 高校でボッチ陰キャを極めているカズは、中学の頃、ある陰キャ少女に憧れていた。実は元々陽キャだったカズは、陰キャ少女の清衣(すい)の持つ、独特な雰囲気とボッチを楽しんでいる様子に感銘を受け、高校で陰キャデビューすることを決意したのだった。  そして高校2年の春。ひとりの美少女転校生がやってきた。  最初は雰囲気が違いすぎてわからなかったが、自己紹介でなんとその美少女は清衣であるということに気づく。  陽キャから陰キャになった主人公カズと、陰キャから陽キャになった清衣。  以前とはまったく違うキャラになってしまった2人の間に、どんなラブコメが待っているのだろうか。 ※小説家になろう、カクヨムでも公開しています。 ※表紙にはAI生成画像を使用しています。

処理中です...