裸足の人魚

やわら碧水

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第三部

第六章・ロミオとジュリエット(その2)

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 その翌日になって、劇の衣裳が完成したという報告が潮音たちに伝えられた。衣裳担当のチームも、脚本と劇の全般的な演出を引受けた寺島琴絵の指示のもとで、配役が決まってから勉強などの合間を縫って放課後などに衣裳の準備を進めていたのだった。実際に衣裳の準備を担当したのは、服飾関係の進路に進むことを志望している生徒たちで、潮音も何度か採寸をさせられたときには、いささか気恥ずかしい気分になった。

 さっそく出演者たちが集まって衣裳合わせをすることになったが、その周りにはさっそくクラスの生徒たちが集まって人だかりを作っていた。彼女たちの多くは、ロミオの役を演じる吹屋光瑠や、ロミオの父親のモンタギューの役を演じる峰山紫がお目当てのようだった。潮音はその様子を見て、ヒロイン役の自分よりも、光瑠や紫の方が熱い視線を浴びていることにいささかの気後れを覚えずにはいられなかった。

 光瑠が衣裳に着替えて頭にウィッグをかぶり、ロミオに扮して登場したときには、光瑠を囲んでいた生徒たちは皆一同に歓声を上げた。実際に男物の衣裳を身にまとった光瑠は、バスケットボールで鍛え上げた贅肉のないすらりとした両足やしなやかな体形、引き締まった表情と相まって、美少年と見間違うばかりの凛々しさを漂わせていた。潮音はこれまでの劇の練習でも、光瑠は声をしっかりと出しながら堂々とした演技を見せていたことを思い出して、ますます自分は光瑠には負けていられないと決意を新たにせざるを得なかった。

 続いてモンタギューに扮した紫が姿を現したときも、生徒たちは歓声を上げて紫の姿に見とれていた。潮音はバレエを演じる紫の姿をこれまで身近に見てきただけに、華麗な衣裳をまとってプリマバレリーナを演じるだけでなく、このような男役も巧みにこなしてしまう紫の演技力にあらためて驚かされていた。

 潮音もぼんやりしたまま紫と光瑠の姿にみとれると、背後から長束恭子の声がした。

「潮音、何ぼーっとしとるんよ。あんたもこの劇の主役なんやから、早よ衣裳着いへんと始まらへんやろ」

 そう言う恭子は、すでにジュリエットの乳母の衣裳に着替えていた。そのふんわりとしたドレス姿を目の当たりにして、潮音は自分もこのような衣裳を着るのかと思うと少し気後れがした。しかし恭子はそのような潮音の気持ちを知ってか知らずか、自らの衣裳のスカートをつまんで少し持ち上げてみせた。

「どない? この衣裳もなかなかかわいいやろ。でも潮音は主演のジュリエットなんやから、もっとすごい衣裳着られるで」

 そのように話す恭子の姿は、どこか嬉しそうだった。その琴絵の様子には、ティボルトに扮して潮音のそばにいた天野美鈴もやや呆れ気味だった。

「恭子ってこう見えてかわいいもん好きやからな」

「こう見えてってどういう意味よ」

 美鈴の言葉に、恭子はふて腐れたような顔をした。

「ともかく潮音も早よ着替えな」

 美鈴に急かされて、潮音も舞台裏の楽屋に向かった。しかしそこでは、衣裳担当の生徒と一緒に、この劇のプロデューサーの役割を買って出ていた寺島琴絵が、にんまりとした表情で潮音を待っていた。そしてその傍らには、レースやフリルで可憐に彩られたジュリエットの衣裳がすでに用意されていた。その衣装は、先ほど恭子が着ていた乳母の衣裳と比べてもだいぶ可憐で見映えのするもので、潮音がこれまで絵本などで読んでイメージしていた「お姫様」の姿そのものだった。

 ここで潮音は、昔から家にあって綾乃がよく読んでいた「人魚姫」の絵本を思い出していた。そこで潮音は覚悟を決めると、あらためてジュリエットの衣裳に向き合った。

──せめてオレにも、あの人魚姫のような勇気があれば。

 とはいえ潮音は、目の前に示されたドレスをどのようにして着ればいいのか、戸惑わずにはいられなかった。ドレスの前でまごついている潮音を見て、琴絵はまず練習着を脱いで、パニエをはくように指示した。潮音が今まで見たこともないような形状の服を手に取って戸惑っていると、琴絵が説明をした。

「これはパニエと言ってね、スカートをふくらまして形を整えるためにスカートの下にはくものなの」

 潮音は戸惑いながらも下半身にパニエをはくと、次いで衣裳係の生徒に手伝わされながらドレスを着せられていった。

 ドレスの着つけが終ると、潮音は鏡台の前に坐らされ、髪にブラシを当てられてメイクを施されていった。潮音はその間、感情の波がひたひたと高まってくるのを抑えることができなかった。

 やがて衣裳担当の生徒が髪を結い終り髪飾りをつけると、潮音はドレスを身にまとった自らの姿を鏡に映してみた。しかしそこで、その鏡の中のきらびやかに装った自らの姿を目の当たりにすると、潮音は思わず息を飲まずにはいられなかった。

 潮音も自分が男から女になってからすでに一年近くが経ち、女子としての生活にもだいぶ慣れてきて、たいていのことには動じなくなっていたつもりだった。しかし潮音が今ここで、いざドレスをまとった可憐なジュリエットの姿になってみると、自分が女の子になってしまった直後に感じていた不安な気持ちを呼び覚まされて、胸がかきむしられるような思いがした。潮音は体を小刻みに震わせて、両目にうっすらと涙を浮べていた。

 寺島琴絵はそのような潮音の様子を見て、潮音が心に動揺を抱えていることを察していた。

「大丈夫? 藤坂さん。これでちゃんと演技できるの? 無理しなくていいよ」

 しかしそこで、潮音は首を横に振った。

「何言ってるんだよ。今自分がここで頑張らなかったら、今までクラスのみんなで頑張ってきたことがパーになるじゃないか」

 潮音があくまでも強気な表情を崩そうとしないのを見て、琴絵はいささか不安げな表情で言った。

「いくら劇が成功しても、それで藤坂さんが心に傷を負ったりしたら、それこそ取り返しのつかないことになるよ」

 そのような琴絵の様子を見て、潮音は思わず声を上げていた。

「ばかやろう。傷つくのを怖がってたら何もできやしないよ。オレは今までどんな思いで、この学校でずっとやってきたと思ってるんだよ」

 衣裳担当の生徒たちは、潮音が急に自分のことを「オレ」と言って乱暴な言葉遣いでしゃべり出したのを聞いて、思わず呆気に取られたような表情で互いの顔を見合せた。そもそも彼女たちには、琴絵と潮音の言葉のやりとりの意味が理解できないようだった。しかしそれでも、琴絵の表情はあくまでも落ち着いていた。

「そこまで言うなら、悔いが残らないようにとことんまでやりなさい。あと、ジュリエットは『ばかやろう』とか『オレ』なんて言葉を使うものじゃないわ」

 潮音は決まりの悪そうな顔をすると、桜組の生徒たちが待っている舞台に向かった。


 ジュリエットの衣裳を身にまとった潮音が、紫や光瑠たちをはじめとする桜組の生徒たちの前に姿を現すと、一同は息を飲んだ。まず最初に声を上げたのは天野美鈴だった。

「藤坂さん…めっちゃきれいやん。まるでほんまのお姫様みたいやわ」

「褒めるんだったら衣裳とメイクの担当に言ってくれよ。あの子たちはほんとに、服やファッションの関係の道に進みたいと思って勉強してるんだから」

 驚いている美鈴にも、潮音はつれない態度を取った。そこで恭子が口をはさんだ。

「ほんまに潮音って素直やないんやから。それにいつもの潮音みたいなガサツな口のきき方したら、せっかくのきれいな衣裳も台無しやで」

「悪かったな」

 潮音が恭子に悪態をついているのを、紫と光瑠はやれやれとでも言いたげな表情で眺めていた。

「潮音もこの劇の主役なんだから、もっとちゃんとしなきゃだめでしょ」

 紫は潮音をたしなめるように言った。しかしそのとき、クラスの生徒の中から、ロミオ役の光瑠とジュリエット役の潮音が並んでみるように声が上がった。

 生徒たちの間でも長身ですらりとした光瑠が青を基調としたロミオの衣裳を着ると、ジュリエットの装いをした潮音とはまさに好対照に見えた。潮音と光瑠は気まずそうな顔をしながらお互いの顔を見合せたが、クラスの生徒たちは皆、この二人のツーショットにスマホのカメラを向けていた。

 ちょうどそのとき、自らも潮音について舞台に来ていた琴絵が紫に声をかけた。

「ほんとに大丈夫なの? あの子は今でこそこんなかっこしてるけど、少し前まで男の子だったのよ」

 そこで紫は、不安げな表情をしている琴絵をなだめた。

「何を今になって不安になってるのよ。もしあの子がこれでダメになるようだったら、ここまで練習についてきてないわね。今はあの子のことを信頼するしかないんじゃないかしら」

「ほんとにそうならいいけど…」

 紫に言われても、琴絵の表情からは不安の色が完全には抜けていないようだった。


 さらに劇に向けて盛り上がっている桜組のメンバーたちを、遠くから見守っている二人の人影があった。暁子と優菜だった。

「ほんま潮音も変ったよね。もしあの子が男の子のままやったら、こうやって自分から文化祭の劇に出ることなんかなかったんとちゃうかな」

 こう話す優菜は、どこか感慨深げな表情をしていた。そこで暁子も相槌を打った。

「そうだよね…潮音はあんなになってもいろんなことを頑張ってるのに、あたしなんか何やってるんだろ」

 表情を曇らせた暁子を、優菜はたしなめるように言った。

「だからそうやって、アッコは自分のことを無理に人と比べることなんかあらへんよ。アッコはアッコらしく、アッコのやりたいことやるんが一番やで」

「そのあたしらしいって何なのよ。あいつだってその『自分らしく』というのがわかんないからこそ、いろいろ頑張ってきたのに」

「アッコはやっぱり、潮音が自分の知ってる潮音じゃなくなるのが不安みたいやね。でもそれはしゃあないよ。アッコにできることは、あの子のありのままの姿を受け入れてやることやないかな。そしたらあの子も安心すると思うから」

 優菜に言われて、暁子はようやく少し気を取り直したようだった。

「…そうだね。でも優菜も楓組の出し物の準備しなきゃいけないんでしょ。あたしも手芸部に行かなきゃ」

「あたしはただ大道具作るだけやけどね。でも榎並さんはヒースクリフの役もけっこう上手にやっとるわ。本番にはアッコも見に来てよ」

 そう言って優菜は、暁子と別れた。
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