裸足の人魚

やわら碧水

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第六部

第五章・青春のきらめき(その3)

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 五月も半ばを過ぎて、若葉の緑も濃さを増してくる頃になると、潮音たちは中間テストの準備に追われるようになった。しかしその頃になっても、綾乃はリクルートスーツを着て企業の採用面接に出かける日がしばしばあった。

 潮音は採用面接から戻ってくる綾乃を玄関口で出迎えることもあったが、そのときの綾乃はたいてい疲れた表情をしていた。日中はすでに汗ばむほどの陽気になっているにもかかわらず、紺色のリクルートスーツで外出することも、綾乃の疲れを増幅させているようだった。

 綾乃は汗をぬぐって自室に戻り、さっそく軽装に着替えて居間に出てくると、そのまま冷えた麦茶を飲み干した。

「姉ちゃん、今度の会社の面接はどうだったの」

 潮音が尋ねても、綾乃はあまり色よい返事をしなかった。

「まだわかんないね。ほかにもいいところまで行ってた会社があったけど、二次面接でだめだったし。…私の大学の友達の中には、もう内定をもらって就職が決まった子も何人かいるし、六月には教員免許を取るための教育実習だってあるから、それまでにはなんとかしなきゃって思ってるんだけど…教育実習っていろいろ準備とかしなきゃいけなくて大変らしいからね」

 綾乃は口ではそう話していても、内心では焦りを感じている様子がありありと見てとれた。潮音はこれまでも、ここ何か月かの間に綾乃が入社試験や面接でいい結果が出なくて気落ちしているところを何度も見てきただけに、綾乃でも就職活動は苦労するのかと思って、ため息をつかずにはいられなかった。さらに潮音自身、この時期には松風女子学園の卒業生が教育実習のために学校に来て、慣れない様子で授業をしているのを実際に見ているだけに、綾乃が教壇に立つ姿を想像して、やっぱりいろいろ大変そうだなと感じていた。

 中間テストの勉強のために自室に戻って問題集を広げても、潮音の心の中からは先ほどの綾乃の、いつになく自信なさげな姿がなかなか離れなかった。綾乃はこれまで潮音の前では気丈なお姉さんとして振舞ってきただけに、潮音は先ほどのような綾乃の姿は見ていられないと思っていた。そこでさらに、潮音は自分ももし首尾よく大学に合格したとしても、その大学を卒業する頃になると、綾乃と同じように今よりももっと厳しい道を歩むようになるのかと思って気が重くならずにはいられなかった。

 潮音はそのときなぜか、昇のことを思い出していた。中学からすでに名門男子校に通い、弁護士になりたいという目標を明確に定めて勉強に取り組んでいる昇は、同学年にもかかわらず自分よりもはるかに先を進んでいるように潮音は感じていた。昇にとってはたとえ東大に受かったとしても、それすら通過点にすぎないのかと思うと、潮音は気後れを感じずにはいられなかった。昇に比べたら自分は何をやっているのだろうと言う雑念を、潮音は問題集に目を向けることで強引にでも打消そうとした。


 その翌日、潮音が帰宅するために自宅の最寄駅で電車を降りると、改札口でちょうど昇に出会った。潮音はこのようなときに昇に出会うなんてと思って、気後れを感じずにはいられなかった。しかし昇は、潮音のそのような気持ちなどそ知らぬかのように、いつも通りの屈託のない明るい笑顔で潮音を迎えた。

「今日は家に帰るのが早いじゃない。バレエもないみたいだけど、やっぱり中間テストがあるの?」

「うん…まあ、そうだけど」

「勉強大丈夫?」

「うん…まあぼちぼちやってるよ」

 潮音は昇にまで自身の勉強のことで気を使わせるなんてと思って、気が重くならずにはいられなかった。

 そしてそのまま、家の方向が同じ潮音と昇は、駅から自宅に向かう坂道を登り始めていた。潮音は昇と連れ立って歩きながら、ぼそりと声をかけた。

「湯川君はやっぱり大学入試を目指して、塾とか予備校に行ってるんだ」

「いや、うちの学校は補習とかもけっこうあるからね。でも最近は日曜日も模試があることが多いから、なかなか大変だよ」

 その昇の返事を聞いて、潮音は気づまりな表情をした。

「やっぱり尚洋って勉強大変なんだ。でも湯川君はちゃんと勉強していてやっぱりえらいよね…。私なんかバレエもやってるから全然だよ。それに湯川君って大学受かったらそれで終りじゃなくて、その先も弁護士になりたいって目標をちゃんと立てて勉強してるんだもんね。私なんか…自分は何のためにわざわざ勉強してるんだろう、こんな問題集解いて何になるんだろうって思うことがちょくちょくあるもの」

 その潮音の言葉を、昇は首を振って打消した。

「そんなんじゃないよ。ぼくだってまだ弁護士になれるかどうかなんてわかんないのに。東大受ければ弁護士になれるわけでもないっていうからね」

 そこで潮音は、思い切って昇に自分の考えを打ち明ける決意を固めた。潮音が急にかしこまった態度を取ったので、昇もどうしたのかといぶかしむような身ぶりを見せた。

「笑わないで聞いてよ。実は私…湯川君の話聞いてて、私も弁護士になれたらってちょっと思ってるんだ。…そりゃ弁護士になろうと思ったら勉強がすごく大変だって話は聞いてるし、私がなれるかどうかなんてまだ全然わかんないけど」

 昇は潮音の話を黙ったまま聞いた後で、しばらくして答えを返した。

「いいんじゃない? 藤坂さんは過去いろいろ悩むこともあったかもしれないけど、そこ経験があるからこそ、もし弁護士になったら、依頼を受けた人の気持ちのわかる弁護士になれると思うよ。それにたしかに弁護士になるために司法試験に受かるのは大変だって言うけど、そのために頑張った経験はムダにはならないはずだよ」

 そこで潮音は、昇の顔を向き直してはっきりと答えた。

「私…もし男から女になってなかったら、弁護士になりたいなんて思ってなかったと思う。高校では男子同士でバカやって過ごして、今ごろは大学なんて自分の成績で行けるとこ行って、その大学出たらブラック企業じゃないような会社に就職できりゃいいやくらいにしか思ってなかったかもしれないけど…。やっぱり湯川君と出会って、自分の進路について考える機会があったからかな」

 潮音の言葉を聞いて、昇は恥ずかしそうな表情をした。そこで潮音はさらに畳みかけるように昇に話しかけた。

「でも弁護士になるんだったら、やっぱり湯川君に司法試験についていろいろ教えてもらうことになるかな…。私は湯川君が目指しているみたいに、東大なんか逆立ちしたって受かりそうにないけど」

 潮音は話しながら気恥ずかしそうな表情をしたが、それを見守る昇もどこか複雑そうな表情をしていた。

 そうこうしているうちに、潮音と昇はそれぞれの自宅の前まで来ていた。潮音は昇が自宅に戻ろうとする直前に、思い切って昇に声をかけた。

「あの…湯川君だって勉強が大変なのはわかるけど、もうすぐバレエの発表会に私も出るんだ。私はこの発表会が終ったら気持ちを切り替えて勉強しようって思ってるんだけど、発表会は湯川君も見に来てくれないかな」

 そこで潮音は、発表会の行われる場所と日時を昇に伝えた。昇は戸惑った表情をしながらも潮音に答えた。

「わかったよ。ぼくも藤坂さんのバレエをいっぺん見てみたかったしね。当日都合がつけばだけど」

 昇のその返事を聞いて、潮音は気恥ずかしさのあまり思わず赤面してしまった。

 潮音は自宅に戻り、自室で制服から部屋着に着替えても、心の中に戸惑いを感じずにはいられなかった。潮音はもしかして、自分が弁護士の仕事に関心を抱くようになったのは、自分自身が女として、昇のことを異性として意識すると同時にそれに惹かれ始めているからではないか、自分自身昇に近づきたいと思っているからではないかと疑念を抱くようになっていた。

 そこで潮音は、中学生のときに自分が椎名浩三と一緒に水泳の練習に明け暮れていたときのことを思い出していた。そのときも潮音は自身の水泳の実力では浩三に歯が立つはずがないということなど十分わかっていたが、それでも潮音が水泳に打ち込んだのはやはり浩三に負けたくないという思いがあったからではないかと潮音は考えていた。

 さらに潮音は、先ほどどうして自分は昇をバレエの発表会に誘おうと思ったのだろうかと気になっていた。潮音はやはり、自分は昇に異性として憧れを抱いているのではないかと感じて身を引きそうになったが、その一方で潮音はもし昇が舞台を見に来たとしても、紫の方に目を向けてしまうのではないかという気もしていた。潮音自身、昇のような秀才にお似合いの相手は自分よりも紫の方ではないかとは思っていたものの、昇が紫の方に目を向けるようになったらどうしようと思って、やはり嫉妬の念を抱かずにはいられなかった。


 中間テストが終るといよいよ夏の色が濃くなり、生徒の中には夏服で登校する者も出始めたが、その中で遥子をはじめとする二年生たちはますます体育祭の準備に余念がなくなっていった。放課後も校内に残って学ラン姿やチアガール姿、その他いろいろなコスプレをして応援合戦の練習をする生徒たちの姿も目につくようになったが、彼女たちは初夏の暑さや強い日ざしの中でも汗をかきながら練習に取り組んでいた。そのほかにも大道具を作るなどして体育祭の準備に取り組む生徒もいたが、潮音たち三年生は後輩たちが学校の伝統をしっかりと受け継いでいることに頼もしさを感じながら、その姿を笑顔で見守っていた。

 そして五月も末ごろになって、ようやく綾乃はある会社から内々定をもらうことができた。その会社は規模や知名度もそこそこで、これでようやく綾乃が胸をなで下しただけでなく、藤坂家全体に祝福ムードが漂った。しかしその一方で潮音は、綾乃が社会人になったら自分に構う余裕などなくなるかもしれない、だからこそ自分もいつまでも綾乃を頼りにしてばかりいないで気を引き締めなければならないと意を新たにしていた。
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