上 下
42 / 44

光あれ

しおりを挟む
 

 刃が、私の目の前で止まっていた。
 ペンはへし折れ、ぽたぽたと尽きぬはずのインクが散る。

 勇者は。
 
「僕が、ぼくではなく、“わたし”でも。男……でなくても。……あなたの勇者であれますか」

 女。
 目の前に、いるのは。
 青年ではなく。
 
 混乱していた。動揺もしていた。

 カァッと顔が、頭が、熱くなる。

「で、では……わ、私は……、お、……女人の君とあやうく裸の付き合いを……? 嗚呼っ! 私は何度か君の目の前で着替えたりしていなかったか!?」

 これまでのことが思い出される。
 どわっ! と恥じらいが押し寄せる。
 年端もいかない女性の前でなんたる破廉恥な! 穴があったら入りたい!

「……レリジオさん」

 勇者が、どことなく困ったような声で私を呼んだ。
 見ればその表情も、困った風情だ。
 
「ぁ、いや……えぇ? い、いつから……いや、つまり最初から……? 私を騙していたのか!?」
「……すみません」

 なぜ? なんのために? 
 勇者が、性別を偽らねばならない理由など……。
 いや、ある。たくさんある。
 この時代、女のひとり旅など無用のトラブルの種にしかならない。男のひとり旅だって安全ではないのだから。
 そしてステラヴィル大聖堂。
 もし宝剣を持ってきたのが女だったら、問答無用で追い返していたか……金貨一枚もやらずに剣だけ取り上げてさっさと追い出しているかもしれない。

 そして……私も……もしかしたら……
 この者こそ勇者だ、と……言わなかった、かも……しれない……?

 愕然とした。

 勇者の剣が、再び振り上げられる。

「……私が、君を、追い詰めてしまっていたのか。勇者よ。フォルトよ。……導かねばと思ったんだ。勇者としての正しき道に。在り方に。君が私を信じてくれて、気分が良かった」

 もしや、マレフィアが唐突に勇者に優しくなったのは……この秘密を知ったからか。
 ベルラはどうだったのか。男だ女だは気にしないかもしれないな。

「すまなかった。……だが、フォルト。それでももう一度言う。私を信じてくれ! 君が男でも女でも、共に過ごし旅をしてきた中で……君が、どれほど頑張ってきたかは見てきたつもりだ。君の心の重荷を、分け持つことを……許してくれないか」

 ずっと、彼の……彼女の……真の苦しみ、孤独、そうしたものに気付かずに。
 私は聖職者失格だ。
 だが、今度こそ!

「フォルト……! 私の勇者は、君しか居ない! 頼む。私に、君を、導かせてくれ!」

 神のしもべとして正しき道を。

「レリジオさん……でも、……フィアも、ベルも、僕が」
「そんなもの……! 私の神のお力で癒やせばいい! あとで謝れ! 絶対に、許してくれるに決まっているのだから……!」

 この聖印を賭けてもいい。

 勇者が、なおも惑い、躊躇いながら、ゆっくりと剣を降ろしていく。
 その顔は、まだ泣きそうな、だが確かな微笑み。
 ほ、と安堵の息が私からこぼれた。

「……ほう。そちらを、選ぶのですか。“勇者フォルト”。……その神官、そやつこそ、最初に始末しておくべきでしたねぇ」

 静観していたのか。
 不死王が、再び口を開く。
 さりげなく恐ろしく不吉なことを言っているが。そう簡単にやられはしないぞ! 私は!

「……不死王! よ、よくも」

 勇者が、不死王に向き直る。
 剣を構え、私を守るように立ちはだかった。

「ふ……。おまえを、我の眷属にしてやろうと思ったが。拒むというならば仕方ない。……ならばもう、用はない。おまえたちが繰り広げる感傷的な喜劇……なかなか楽しませてもらいましたよ」

 不死王が。
 紅い瞳を我々に向けた。
 その眼に見つめられた、瞬間。

「……っか、ぁ!?」

 ズぐっ、と心臓が痛む。
 息が詰まる。止まる。苦しい。

 急激に押し寄せ、迫り来る、暗黒。
 
 意識が、途切れそうになる。

 ――神よ どうか 守り給え!

 祈りの言葉は声にならない。

 嗚呼、勇者よ。
 せめて、君だけでも……無事で、あれば……
 
「神の恩寵妙なるマナよ……その信仰の名の下に……彼らを守る光となれ……“信仰の光ホーリーシャイン”」

 その詠唱の声と共に。
 私の顔に、床に、こぼれて散った聖なるインクがカッと眩い光を放ち――

「な、に……!?」

 不死王の闇を、打ち払った――。

***

 呼吸が戻る。
 重くのしかかる闇が晴れ、氷のように冷え切った手足に血が巡る。
 その光は、眩く、そして暖かい。

「……あ。まさか、ふ、フィア……」

 血溜まりに倒れ伏したはずのマレフィアが。
 いや、今なおその姿は血溜まりに沈んでいた。蒼白の顔で。

「フォルト……! そんな朦朧不死者に、おもちゃにされたままでいることないわ。あなたなら、倒せる!」

 マレフィアの強い声。
 勇者が、顔を上げる。

「レリジオさん、フィアとベルの治癒を。お願いします!」

 勇者は剣を構え、光と闇が拮抗し合うなかを不死王に向かっていく。

「不死王……! おまえは、おまえのことは……許さない!」
「……小癪な。……おまえたち、死するさだめの儚き者どもに……どうして我を打ち倒せよう。……せめて死ね。我が配下に入れてあげましょう」

 勇者が剣を振り下ろす。
 光の軌跡を描いた刃。

 ――ガギィィイン!

 それを防いだ。不死王の背を突き破り伸びた白い……ほ、骨……!?

「うっ、あっ……!?」
「憐れな者ども。闇を払い、魅了に打ち勝てば、我を倒せると思うたか……? 笑止。一瞬の希望は永遠の絶望に変えてやろう」

 骨が伸び、勇者をその肋の中に閉じ込めていく。
 その光景は、一言で表すなら、グロテスク。

「死ね」

 不死王の腕が、勇者の胸を貫き――

「う、ぁ、ぁああ……!」

 突き抜ける。

 私は。

「か、神よ……!」

 再び、祈りを捧げた。

しおりを挟む

処理中です...