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未亡人の哀しみと死者の声
これから
しおりを挟むガス灯も届かない路地裏で、男はふいに壁に押し込まれた。
「な、なんだよぉ……!? 俺ァ金なんざ持ってねえぞ!?」
怯えと怒りのないまぜになった男の声が路地裏に響く。
「いでででやめっ! 痛ェ! 腕やめてくれ腕!」
男は捻りあげられた腕の痛みに悲鳴を上げた。
背後から、男の耳元に、囁く声。
「あぁ、悪いな。……ちょっとゆっくり……じっくり話したいだけさ。……ちょっとした事件の、な……」
ぎしりと腕が軋む音。
男に、拒否権はなさそうだった。
【目撃者の証言】
お、思い詰めた顔してたんだ。気になって見てたら、急に柵を乗り越えてドボンだよ。
びっくりしたぜ。……ほ、ほんとだよぉ。
【尋問する男】
あんた、その怪我はどうしたんです。ただ転んだだけじゃなさそうだ。
特にその手の引っ掻き傷なんてのはさ。……時計を奪おうとして、男に必死で引っ掻かれた跡だろ?
【目撃者の証言】
こ、これは……な、なんてことないよ、よくある痴話喧嘩みてぇなモンでさ……
【尋問する男】
前科がいろいろあるな、スリ、置き引き、ひったくり。……過去に似たようなことで、相手を追い詰めて死なせたこともあるんじゃないか?
いや、直接殺したわけじゃない。
でも、逃げた後で「死んだかも」って思って、夜も眠れなかっただろ?
【目撃者の証言】
……な、なんだよぉそれ。どういう意味だい。
【尋問する男】
意味は簡単だよ。
あの夜の男は、妻からもらった大事な時計を、必死で取り戻そうとして川に飛び込んだ。
あんたが奪おうとしたあの時計を……な。
で、あんたは……男が沈んでいくのを、ただ見てたんだよな……。
今も、あのバシャバシャって音が耳に残ってるんじゃないか?
……神様は全てを見ているって、よく聞くだろ。
なぁ。
神様じゃなくてもさ。
例えば、あんたの家族はどう思うかな。
父親が「時計を盗んで人を死なせた男」だって知ったら……。
尋問する男――ラズロ――の手が、目撃者の男の手を優しく握った。
男は、喉をひっと震わせる。
ラズロは、握る手にゆっくりと力を込めていく。
その指の一本一本が、みしり、と軋むような音を立てる。
だが、ラズロの声も言葉も、決して強い圧があるわけではなかった。
いっそ優しいとすら言える。
男のあるかないかもわからないほんのささやかな良心に、働きかけるように。
みしり。
男の手からまた軋む音がした。
【尋問する男】
もう一度、思い出してくれないか。
あの夜の出来事。
正直に言えば、調書には……あんたのやったことは書かないでおくよ。
あんたはただ、あの夜時計を落とした男が川に飛び込んで行ったのを見ていた。
黙っているのが苦しくなって「良心の呵責で自白した」って書くよ。
教会にも「神の思し召しで真相が明らかになった」って伝わる。
なぁ、……救われる人間が、四人もいるんだ。
妻と、二人の小さな子供たち。それから飛び込んだあの男。
あんたが今ここで本当のことを言えば、 あの家族は「夫は自殺なんかじゃなかった」って胸を張って生きていける。
あんたも、少しは……楽になれるんじゃないか?
そうしたら、救われる数もひとり増えるよな?
【目撃者の証言】
……わ、わかった……言う、言うよ。
おれぁ、あの日……しけたツラの男が、似合わない高価そうな時計持ってんの見て……
つい……
気が付いたらとっちまってたんだよ。悪気はなかったんだ。ほんとさ!
でもそいつがすごい剣幕で飛び掛かってきて……揉み合ってたら時計が川に落ちちまって……。
あぁクソッて思った瞬間、そいつ……驚いたよ、川に飛び込んで……。
しばらくバシャバシャ、泳いでんだか潜ってんだか……でも、そのうち……動かなくなって……。
それで……おれぁ、怖くなって…………逃げちまった。
……すまねぇ……神様……すまねぇ……。
あの家族にも……本当に、すまねぇ……。
目撃者の男は顔を覆って肩を震わせた。
ラズロは静かに手を離し、溜息をつく。
【尋問する男】
……よく言ってくれたよ。
これで、あの家族は救われる。
あんたも……少しは、楽になれたろう。な?
◇◇◇
「では……こちらが返却する追加の遺品となっております、ご確認いただけますか」
警察署のロビーの一角で、ラズロは証拠保管室から持って来た返却品と手続き書類をテーブルに置いた。
「……っ、あ、あぁ……マイク…………」
水に濡れ時の止まったその懐中時計を見たコナー夫人は、声を震わせ、その時計を抱き締めるように手に載せる。
ラズロは、手続きを急かすでもなくその様子を黙って見つめる。
一度は自殺として処理されたマイク・コナーの事件は、目撃者による新たな証言により、自殺から事故死へと報告は書き換えられた。
再捜査の結果、運河の底で流木に引っかかっていた懐中時計も奇跡的に発見され、こうして今コナー夫人の手元に戻ってきた。
コナーの死は悲劇で、その事実は決して変わることはなかったが。
夫人の信じた夫の姿が、公式な記録として遺されたのは、せめてもの救い……と思ってもいいだろうか。
ラズロは夫人に見えない角度で苦く笑った。
「信じられない……奇跡です……本当に……よかった……マイクは、やっぱり……自殺なんてするような人じゃなかった」
「時計を盗もうとした男が、良心の呵責に耐えかねて自白したそうですよ。……これも、神様の思し召しですかねぇ。……教会からの救済金は、降りそうですか?」
「……はい。彼が自殺ではなかったこと、それどころかただひとつの愛のための行いだったことが認められて……しばらくは、私だけであの子達を養っていけそうです」
泣き腫らした夫人の顔は、しかし、以前の憔悴し怒りに震えたものではなく。
悲しみはそのままに、それでも少しばかり晴れやかなものにラズロは見えた。
そのことにホッと安堵する。
「それはよかった。何かあればいつでも……警察を頼ってくださいね」
夫人は大切な夫の形見を手に、警察署を後にする。
ラズロははぁっと深く息を吐き出して、応接ソファに少しばかり身を沈めさせた。
(よかった……美人の不幸な顔は見てられない……)
深く、肺の中に溜まった澱のようなものを吐息と共に押し出す。
そうして、ガシガシと頭を掻き、おもむろにソファから立ち上がった。
「さて。…………あ、ねえねえ、ちょっとしたお礼に向いてそうな良い感じの菓子屋、知りません?」
警察署受付けの若い署員たちに、ラズロは愛想良く話しかけに行く。
この後、そのお礼の品を手に、あの不機嫌で偏屈な青年に会いに行くために。
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