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黒の帳 『一つ目の帳』
紅+白≠桃
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突然始まった逃走劇。
でも、もうすぐ追いつかれてしまう。
渡来以外にも私たちを追いかける不良がいて、このままではダメなことは明らかだった。
「天野君っ…」
「……っ……、もっ、すこし、だから……っ」
「待てっ、待て!」
「天野マジで止まれ!ケンちゃんガチギレしてんぞ、お前っ、殺されんぞ!!今のうちに止まってくれたら、俺らも止められるからっ…」
もう少し、何がもう少しなんだろう。
私は何も分からないし、何も知らない。
置いてきてしまった龍牙だって心配だ。
「天野君……」
「う"……」
あまのくん、としか、言えない。怖くて、一番近くにいる人に縋ることしか出来ない。
震えながら天野君に擦り寄ると、天野君が変な呻き声を上げた。顔も赤いし、体力の限界が近いのかもしれない。
捕まったら、どうなるだろう。
天野君は殴られて、蹴られて、きっと怪我をしてしまう。相手は複数だから、分が悪いだろう。渡来も怒り狂っているから、病院送りにされるような大怪我をしてしまうかもしれない。
じゃあ、私は?
追いかけてくる不良の中に渡来が見えて、私はまた天野君の服を強く握ってしまった。
「煮卵ーーーーーーーー!!!!!」
突然、廊下に大声が響き渡った。
「ひっ……俺、し、死にたくない!」
「俺もっ」
「じゃあなケンちゃん!」
「……けっ、腰抜けが…」
声を聞いた途端、後ろの不良たちは足を止め、渡来以外がばたばたと逃げ去った。
この声…、
「……紅陵、さん?」
「…………はっ、遅せぇよ…」
遠くをよく見ると、物凄いスピードで誰かがこちらへ走ってきているのが見えた。
「よおォォォ煮卵ォ!!!!テメェやってくれたじゃねェェかよォ!!!!!!」
「は!? アイツ、何であんなにキレて……」
紅陵、さんだ。
あの怒りよう、何故だろうか。
私がこんな目に遭って怒っているとしたら、嬉しいけれど、紅陵さんはこのことを知らないはずだ。黒宮君が連絡したとはいえ、あそこまで怒り狂うだろうか。
助かった、のかな。
でも、紅陵さんの様子を見ていると、不安しか湧いてこなかった。
「…えっ、あ、あれ、…」
「……ガチギレしてんな、アレ、金属バットだぞ」
天野君は渡来が立ち止まったのを視認すると、廊下の壁に寄って走るペースを落とした。
紅陵さんは走るのがとても速くて、あっという間に私たちの元を通り過ぎて言った。
一瞬見えた顔が鬼の形相だったのは言うまでもない。その手に、恐ろしい武器があったのも。
「…………天野君、止まって」
「あ?」
「ダメ、止めないと…」
紅陵さんは、もしかしたら、歯止めがきかない人かもしれない。
以前、教室に血溜まりが出来るほど暴れた人だ。明石君、佐野君、それに渡来の弟を病院送りにしていた。
今度は血溜まりじゃ済まないかもしれない。
そう思うと、私はいてもたってもいられなくなった。
天野君に訴えかけたけど、天野君は首を傾げながらも足を止めてくれない。肩越しに後ろを見ると、紅陵さんが渡来に殴りかかったのが見えた。
「こ、のッ!!!!」
「グッ……、ぅ、おっ、あぶッ…」
紅陵さんが武器を振り下ろし、渡来が避けるが、足に刺さったナイフのせいで上手く動けないらしい。紅陵さんは目敏くそれを見つけると、武器の追撃を囮にしてナイフの部分を蹴った。
「は、あ"ッ、ぐ…」
より深くナイフが突き刺さり、渡来が痛みに顔を歪める。怯んだその隙を狙って、紅陵さんが頭に目掛けて思い切りバットを振り下ろした。
その勢いで頭を殴れば、どうなるか。
「止めてっ!!!!」
「おいっ、おまっ…、下りるな!」
私は天野君の腕の中で暴れ、無理やり下りた。
渡来は攻撃に気づいて腕で防いだが、それでも威力は殺しきれない。腕ごと頭を殴られて、渡来がよろめき、紅陵さんはにんまりと笑って渡来の腹に思いっきりバットの一撃を叩き込んだ。
「お"ッ……」
「どうしたどうしたアァァ!!!」
ぐらりと渡来の体が揺れ、今度こそと言わんばかりに紅陵さんがバットを振り上げた。ダメ、その勢いで頭を殴ったら、金属バットなんかで殴ったら、本当に、命に関わる。
「紅陵さんっ、止めてください!その人死んじゃいます!!!」
喉が張り裂けんばかりの大声で呼びかけると、紅陵さんの動きがぴたりと止まった。紅陵さんは、今の攻撃の代わりなのか、膝を着いている渡来の足に突き刺さったナイフを、また蹴った。
「………………クロちゃん」
「おっ、怒ってるのは、分かってます、でも、そんなことしたら、しっ、死んじゃいます」
「…金髪のアイツ、守りたかったんでしょ。自分から誘惑して、それで、べろちゅーされて、泣いて…………、怖かったでしょ」
渡来は膝をつき、恐怖を滲ませた顔で紅陵さんを見上げている。もう、戦意はないように見える。それなのに、紅陵さんは渡来の足に刺さるナイフを握った。
そして、あろうことか、それをぐりぐりと動かし始めた。
「ねえ、俺、分かんないよ」
「ひっ、やめ、止めて、ください、そんなことっ…」
「あ、あ"ッ、やめっ、やめろっ、い"ッ…」
「なんで?コイツ、クロちゃんに、ハサミ使おうとしたよ?」
紅陵さんは突然ナイフを引き抜き、渡来の腕を掴んだ。
「コイツ、クロちゃんの色んなとこ触ったよね。まず、肩…」
「待って」
渡来の肩目掛けてナイフが振り上げられ、私は紅陵さんの腕を握った。もうこんなの、見ていられない。
「待ってください、止めてください」
「……何で止めるの」
「だって、い…痛そうで」
「クロちゃんはもっと苦しかったでしょ」
「私はナイフで刺されてません!」
強い口調で言い切ると、紅陵さんはやっと武器を手放してくれた。ナイフとバットが床に落ち、耳障りな金属音が響く。
「…………分かった、止める」
紅陵さんが立ち上がり、私はほっと息をついた。紅陵さんの怒りを無理やり鎮める形になってしまった。事が落ち着いたら、ちゃんと話をしよう。
紅陵さんは私の方に向きを変えると、両腕を広げた。
「…遅くなって、ごめん」
抱きしめて、慰めてくれるんだ。そう思って身を委ねようとしたけれど、彼のすぐ後ろで動いたものが見えた。
渡来が立ち上がり、金属バットを手にしている。
血走った目で、紅陵さんを睨みつけている。
「ぁ、あ」
紅陵さんが、怪我をしてしまう。
私が硬直したのは一瞬だったけれど、その僅かな間に渡来が大きく動いた。
「止めろ」
紅陵さんを突き飛ばしてでも守る。そう思って飛び出そうとしたけれど、それより先に鋭く飛んできたものがあった。
「がッ……、くそっ…」
「往生際わりぃんだよ、クソが」
天野君だ。天野君が渡来に蹴りを食らわせて、止めてくれた。渡来はナイフで刺された傷が悪化しているらしく、どくどくと流れる血を押さえ、天野君を睨みつけた。流石にもう戦えないらしい。
「天野……この、雑魚………、けっ、裏番を頼らなきゃ、一人で、喧嘩もできねぇのか…」
「……確かに俺は、真っ向勝負じゃアンタに適わねぇよ。だから、クソムカつくけど、裏番の手を借りた。でもな、どんだけ卑怯でも、アンタみたいなクズだけにはならない。何が一番目二番目だ。テメェの番なんざ一生来ねぇよ、バーカ」
一番目、二番目。私が押し倒されていた時の会話に、そんな単語があった。そっか、そうなんだ、天野君、あれ、本気じゃなかったんだ。渡来を騙すために、油断させるために、口を合わせていただけなんだ。
紅陵さんも後ろの会話を聞いて肩越しに振り向いた。渡来が取り落としたバットを見て、紅陵さんは思い出したように口を開いた。
「あ、そういやそれ、アッシーくんのバットなんだよね」
「アッシーくん…?」
アッシーくん。
確か、雅弘さんが教えてくれた。移動手段の足として見られている男性の呼称で、昔よく使われていたらしい。
紅陵さんにはアッシーくんと呼ぶような相手がいるのだろうか。
しかし、そんな疑問より気になることがあった。
アッシーくん、という単語を聞いた瞬間、渡来が明らかな絶望を見せた。そして、足から血を流しているにも関わらず、立ち上がってよたよたと逃げようとした。
天野君も訳が分からないらしく、なぜか不機嫌な紅陵さんを不思議そうに見ている。
「セイジ……ぁ、あ……う、嘘だろ、い、いや、まだ間に合」
「ケ~~ンちゃ~~~ん」
遠くから、何やら声が聞こえる。
声の方を見ると、頭が真っ白の人がこちらへ近づいてきていた。あの人、見覚えがある。
「…………あー……くそ…」
「ケンちゃん、約束は守ろーよォ……」
「アッシーくんダッシュ~」
遠藤君の、お兄さんだ。
遠藤誠司、確か、白虎っていう二つ名がついている、暴走族の総長さん。
白髪の彼は白ランを身につけており、耳には沢山のピアスを付けていて、その風貌は以前出会った時と変わっていない。
渡来と知り合いなのだろうか。
ギン、と開かれた瞳は相手を威圧する目力を持っている。本気で睨まれたら大抵の相手は怯んでしまうだろう。彼はつかつかと歩を進めていたが、紅陵さんがアッシーくんと呼んだ瞬間、その顔を、崩壊させた。
「へっ?はぁッ!!!あかりちゃんッ♡♡♡」
「あっ、違ッ、ダッシュってそういう意味じゃない!!!」
全速力でこちらに駆け寄る彼の顔は、見ていられない。
眉が下がり、目尻も下がり、口元もだらしなく緩んでいる。先程の総長の威厳を思わせる表情はどこへやら、今はふにゃふにゃな顔になっている。
彼は私のすぐ横を突っ切ると、紅陵さんにダイブした。
……え?
「あかりちゃんッ、怪我ないっ!? あかりちゃん、はぁぁぁん…♡♡すーーーーーーッ…」
遠藤さんは紅陵さんのお腹に顔を埋め、深呼吸をしている。
どう、いうこと?
「えっ、……えっ?」
「……は?」
天野君と私は混乱してしまった。
訳が分からなくて紅陵さんを見ると、紅陵さんはあらぬ方向を見ていた。諦めたような、悟ったような表情をしている。
「……見ないで…」
「はあああ可愛いッ♡俺に抱きしめられて照れてるのかなっ♡♡ンーーーーふふふふふ♡♡♡♡」
紅陵さんはされるがままだ。
何、この人、怖い。
怖くて天野君の傍に行くと、天野君も怖いらしく、私との距離を詰めた。あの人怖い。
紅陵さんは斜め上を見ながら、よろよろと逃げようとしている渡来を指さした。
「…ねえ、アイツに説教して」
「うんっ♡♡♡任せてっあかりちゃん♡♡♡♡♡」
怖い人は顔を埋めたまま頷き、渡来の方へ駆けていった。やっと解放された紅陵さんは、斜め上を向いたままぼうっとしている。
「あ、あの、紅陵さん、遠藤さんって…」
「…前に言ったでしょ?俺にベタ惚れで、こっちも困ってる、って」
いつしか電話で話してくれた内容。あの時はさらっと受け入れたけど、まさか、こんな重度のものとは思わなかった。
「よォ、賢吾。テメェやりやがったな? 俺との約束守らねぇたァいい度胸してんじゃねぇの。テメェは___」
渡来を捕まえ、ぶつぶつと脅す姿はやはり総長らしい怖さを感じる。切り替えが、早すぎて怖い。怖すぎる。
「あのね、アイツがアッシーくん。名前は忘れた」
「呼んだッ!?♡♡♡♡♡」
「呼んでない。んでね、今日もここまで送ってきてもらったの。隣町まで遊びに行ってたから、徒歩じゃ到底間に合わなくて…。クロちゃんのとこに早く行きたくて急かしたから、アイツ興奮してるんだよ」
「あかりちゃんに早くシてっ、早くぅ♡♡って耳元で囁いてもらえるドライブはもうセックスと言っても過言じゃないよねっ♡♡♡♡俺早くイクからねって言ったもん♡♡♡♡帰りも一緒に帰ろうねッ♡♡♡」
紅陵さんが遠藤さんの説明をしてくれるが、その度に遠藤さんから合いの手という名の邪魔が入る。
紅陵さんはもう話すのを諦め、両手で顔を覆ってしまった。見ていられなくて、私は彼の背中をぽんぽんと撫でた。天野君も同情心のこもった視線を紅陵さんに向けている。
「…アイツのせいでクロちゃんに勘違いされた時、マジで泣きそうだったもん。アレと付き合ってるって思われてさぁ?」
「す、すみません、まさかあんな人だとは……」
私は以前、遠藤さんと紅陵さんがお付き合いしていると勘違いしてしまったことがある。しかし、遠藤さんの本性を知っている紅陵さんからすれば、見当違いもいいところだっただろう。
知らなかったとはいえ、申し訳ない。
「これは流石に…同情する」
天野君も重々しく頷き、私たちはジト目で渡来と遠藤さんを見ていた。
でも、もうすぐ追いつかれてしまう。
渡来以外にも私たちを追いかける不良がいて、このままではダメなことは明らかだった。
「天野君っ…」
「……っ……、もっ、すこし、だから……っ」
「待てっ、待て!」
「天野マジで止まれ!ケンちゃんガチギレしてんぞ、お前っ、殺されんぞ!!今のうちに止まってくれたら、俺らも止められるからっ…」
もう少し、何がもう少しなんだろう。
私は何も分からないし、何も知らない。
置いてきてしまった龍牙だって心配だ。
「天野君……」
「う"……」
あまのくん、としか、言えない。怖くて、一番近くにいる人に縋ることしか出来ない。
震えながら天野君に擦り寄ると、天野君が変な呻き声を上げた。顔も赤いし、体力の限界が近いのかもしれない。
捕まったら、どうなるだろう。
天野君は殴られて、蹴られて、きっと怪我をしてしまう。相手は複数だから、分が悪いだろう。渡来も怒り狂っているから、病院送りにされるような大怪我をしてしまうかもしれない。
じゃあ、私は?
追いかけてくる不良の中に渡来が見えて、私はまた天野君の服を強く握ってしまった。
「煮卵ーーーーーーーー!!!!!」
突然、廊下に大声が響き渡った。
「ひっ……俺、し、死にたくない!」
「俺もっ」
「じゃあなケンちゃん!」
「……けっ、腰抜けが…」
声を聞いた途端、後ろの不良たちは足を止め、渡来以外がばたばたと逃げ去った。
この声…、
「……紅陵、さん?」
「…………はっ、遅せぇよ…」
遠くをよく見ると、物凄いスピードで誰かがこちらへ走ってきているのが見えた。
「よおォォォ煮卵ォ!!!!テメェやってくれたじゃねェェかよォ!!!!!!」
「は!? アイツ、何であんなにキレて……」
紅陵、さんだ。
あの怒りよう、何故だろうか。
私がこんな目に遭って怒っているとしたら、嬉しいけれど、紅陵さんはこのことを知らないはずだ。黒宮君が連絡したとはいえ、あそこまで怒り狂うだろうか。
助かった、のかな。
でも、紅陵さんの様子を見ていると、不安しか湧いてこなかった。
「…えっ、あ、あれ、…」
「……ガチギレしてんな、アレ、金属バットだぞ」
天野君は渡来が立ち止まったのを視認すると、廊下の壁に寄って走るペースを落とした。
紅陵さんは走るのがとても速くて、あっという間に私たちの元を通り過ぎて言った。
一瞬見えた顔が鬼の形相だったのは言うまでもない。その手に、恐ろしい武器があったのも。
「…………天野君、止まって」
「あ?」
「ダメ、止めないと…」
紅陵さんは、もしかしたら、歯止めがきかない人かもしれない。
以前、教室に血溜まりが出来るほど暴れた人だ。明石君、佐野君、それに渡来の弟を病院送りにしていた。
今度は血溜まりじゃ済まないかもしれない。
そう思うと、私はいてもたってもいられなくなった。
天野君に訴えかけたけど、天野君は首を傾げながらも足を止めてくれない。肩越しに後ろを見ると、紅陵さんが渡来に殴りかかったのが見えた。
「こ、のッ!!!!」
「グッ……、ぅ、おっ、あぶッ…」
紅陵さんが武器を振り下ろし、渡来が避けるが、足に刺さったナイフのせいで上手く動けないらしい。紅陵さんは目敏くそれを見つけると、武器の追撃を囮にしてナイフの部分を蹴った。
「は、あ"ッ、ぐ…」
より深くナイフが突き刺さり、渡来が痛みに顔を歪める。怯んだその隙を狙って、紅陵さんが頭に目掛けて思い切りバットを振り下ろした。
その勢いで頭を殴れば、どうなるか。
「止めてっ!!!!」
「おいっ、おまっ…、下りるな!」
私は天野君の腕の中で暴れ、無理やり下りた。
渡来は攻撃に気づいて腕で防いだが、それでも威力は殺しきれない。腕ごと頭を殴られて、渡来がよろめき、紅陵さんはにんまりと笑って渡来の腹に思いっきりバットの一撃を叩き込んだ。
「お"ッ……」
「どうしたどうしたアァァ!!!」
ぐらりと渡来の体が揺れ、今度こそと言わんばかりに紅陵さんがバットを振り上げた。ダメ、その勢いで頭を殴ったら、金属バットなんかで殴ったら、本当に、命に関わる。
「紅陵さんっ、止めてください!その人死んじゃいます!!!」
喉が張り裂けんばかりの大声で呼びかけると、紅陵さんの動きがぴたりと止まった。紅陵さんは、今の攻撃の代わりなのか、膝を着いている渡来の足に突き刺さったナイフを、また蹴った。
「………………クロちゃん」
「おっ、怒ってるのは、分かってます、でも、そんなことしたら、しっ、死んじゃいます」
「…金髪のアイツ、守りたかったんでしょ。自分から誘惑して、それで、べろちゅーされて、泣いて…………、怖かったでしょ」
渡来は膝をつき、恐怖を滲ませた顔で紅陵さんを見上げている。もう、戦意はないように見える。それなのに、紅陵さんは渡来の足に刺さるナイフを握った。
そして、あろうことか、それをぐりぐりと動かし始めた。
「ねえ、俺、分かんないよ」
「ひっ、やめ、止めて、ください、そんなことっ…」
「あ、あ"ッ、やめっ、やめろっ、い"ッ…」
「なんで?コイツ、クロちゃんに、ハサミ使おうとしたよ?」
紅陵さんは突然ナイフを引き抜き、渡来の腕を掴んだ。
「コイツ、クロちゃんの色んなとこ触ったよね。まず、肩…」
「待って」
渡来の肩目掛けてナイフが振り上げられ、私は紅陵さんの腕を握った。もうこんなの、見ていられない。
「待ってください、止めてください」
「……何で止めるの」
「だって、い…痛そうで」
「クロちゃんはもっと苦しかったでしょ」
「私はナイフで刺されてません!」
強い口調で言い切ると、紅陵さんはやっと武器を手放してくれた。ナイフとバットが床に落ち、耳障りな金属音が響く。
「…………分かった、止める」
紅陵さんが立ち上がり、私はほっと息をついた。紅陵さんの怒りを無理やり鎮める形になってしまった。事が落ち着いたら、ちゃんと話をしよう。
紅陵さんは私の方に向きを変えると、両腕を広げた。
「…遅くなって、ごめん」
抱きしめて、慰めてくれるんだ。そう思って身を委ねようとしたけれど、彼のすぐ後ろで動いたものが見えた。
渡来が立ち上がり、金属バットを手にしている。
血走った目で、紅陵さんを睨みつけている。
「ぁ、あ」
紅陵さんが、怪我をしてしまう。
私が硬直したのは一瞬だったけれど、その僅かな間に渡来が大きく動いた。
「止めろ」
紅陵さんを突き飛ばしてでも守る。そう思って飛び出そうとしたけれど、それより先に鋭く飛んできたものがあった。
「がッ……、くそっ…」
「往生際わりぃんだよ、クソが」
天野君だ。天野君が渡来に蹴りを食らわせて、止めてくれた。渡来はナイフで刺された傷が悪化しているらしく、どくどくと流れる血を押さえ、天野君を睨みつけた。流石にもう戦えないらしい。
「天野……この、雑魚………、けっ、裏番を頼らなきゃ、一人で、喧嘩もできねぇのか…」
「……確かに俺は、真っ向勝負じゃアンタに適わねぇよ。だから、クソムカつくけど、裏番の手を借りた。でもな、どんだけ卑怯でも、アンタみたいなクズだけにはならない。何が一番目二番目だ。テメェの番なんざ一生来ねぇよ、バーカ」
一番目、二番目。私が押し倒されていた時の会話に、そんな単語があった。そっか、そうなんだ、天野君、あれ、本気じゃなかったんだ。渡来を騙すために、油断させるために、口を合わせていただけなんだ。
紅陵さんも後ろの会話を聞いて肩越しに振り向いた。渡来が取り落としたバットを見て、紅陵さんは思い出したように口を開いた。
「あ、そういやそれ、アッシーくんのバットなんだよね」
「アッシーくん…?」
アッシーくん。
確か、雅弘さんが教えてくれた。移動手段の足として見られている男性の呼称で、昔よく使われていたらしい。
紅陵さんにはアッシーくんと呼ぶような相手がいるのだろうか。
しかし、そんな疑問より気になることがあった。
アッシーくん、という単語を聞いた瞬間、渡来が明らかな絶望を見せた。そして、足から血を流しているにも関わらず、立ち上がってよたよたと逃げようとした。
天野君も訳が分からないらしく、なぜか不機嫌な紅陵さんを不思議そうに見ている。
「セイジ……ぁ、あ……う、嘘だろ、い、いや、まだ間に合」
「ケ~~ンちゃ~~~ん」
遠くから、何やら声が聞こえる。
声の方を見ると、頭が真っ白の人がこちらへ近づいてきていた。あの人、見覚えがある。
「…………あー……くそ…」
「ケンちゃん、約束は守ろーよォ……」
「アッシーくんダッシュ~」
遠藤君の、お兄さんだ。
遠藤誠司、確か、白虎っていう二つ名がついている、暴走族の総長さん。
白髪の彼は白ランを身につけており、耳には沢山のピアスを付けていて、その風貌は以前出会った時と変わっていない。
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「へっ?はぁッ!!!あかりちゃんッ♡♡♡」
「あっ、違ッ、ダッシュってそういう意味じゃない!!!」
全速力でこちらに駆け寄る彼の顔は、見ていられない。
眉が下がり、目尻も下がり、口元もだらしなく緩んでいる。先程の総長の威厳を思わせる表情はどこへやら、今はふにゃふにゃな顔になっている。
彼は私のすぐ横を突っ切ると、紅陵さんにダイブした。
……え?
「あかりちゃんッ、怪我ないっ!? あかりちゃん、はぁぁぁん…♡♡すーーーーーーッ…」
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「えっ、……えっ?」
「……は?」
天野君と私は混乱してしまった。
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紅陵さんはされるがままだ。
何、この人、怖い。
怖くて天野君の傍に行くと、天野君も怖いらしく、私との距離を詰めた。あの人怖い。
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「…ねえ、アイツに説教して」
「うんっ♡♡♡任せてっあかりちゃん♡♡♡♡♡」
怖い人は顔を埋めたまま頷き、渡来の方へ駆けていった。やっと解放された紅陵さんは、斜め上を向いたままぼうっとしている。
「あ、あの、紅陵さん、遠藤さんって…」
「…前に言ったでしょ?俺にベタ惚れで、こっちも困ってる、って」
いつしか電話で話してくれた内容。あの時はさらっと受け入れたけど、まさか、こんな重度のものとは思わなかった。
「よォ、賢吾。テメェやりやがったな? 俺との約束守らねぇたァいい度胸してんじゃねぇの。テメェは___」
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紅陵さんはもう話すのを諦め、両手で顔を覆ってしまった。見ていられなくて、私は彼の背中をぽんぽんと撫でた。天野君も同情心のこもった視線を紅陵さんに向けている。
「…アイツのせいでクロちゃんに勘違いされた時、マジで泣きそうだったもん。アレと付き合ってるって思われてさぁ?」
「す、すみません、まさかあんな人だとは……」
私は以前、遠藤さんと紅陵さんがお付き合いしていると勘違いしてしまったことがある。しかし、遠藤さんの本性を知っている紅陵さんからすれば、見当違いもいいところだっただろう。
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そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
風紀委員長様は王道転校生がお嫌い
八(八月八)
BL
※11/12 10話後半を加筆しました。
11/21 登場人物まとめを追加しました。
【第7回BL小説大賞エントリー中】
山奥にある全寮制の名門男子校鶯実学園。
この学園では、各委員会の委員長副委員長と、生徒会執行部が『役付』と呼ばれる特権を持っていた。
東海林幹春は、そんな鶯実学園の風紀委員長。
風紀委員長の名に恥じぬ様、真面目実直に、髪は七三、黒縁メガネも掛けて職務に当たっていた。
しかしある日、突如として彼の生活を脅かす転入生が現われる。
ボサボサ頭に大きなメガネ、ブカブカの制服に身を包んだ転校生は、元はシングルマザーの田舎育ち。母の再婚により理事長の親戚となり、この学園に編入してきたものの、学園の特殊な環境に慣れず、あくまでも庶民感覚で突き進もうとする。
おまけにその転校生に、生徒会執行部の面々はメロメロに!?
そんな転校生がとにかく気に入らない幹春。
何を隠そう、彼こそが、中学まで、転校生を凌ぐ超極貧ド田舎生活をしてきていたから!
※11/12に10話加筆しています。
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