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一人じゃない夜(前編)
しおりを挟む今日は、職場の飲み会だった。
在宅ワーク中心になってから、こうして顔を合わせる機会はめっきり減った。画面越しに見慣れた顔が、実際の空間に並ぶと、それだけで少し不思議な感じがする。平面だった人たちが、ちゃんと奥行きを持っている。
会場は会社近くの居酒屋。
暖簾をくぐった瞬間、外の冷たい空気から一転して、温かい匂いが体を包む。焼き鳥の煙、出汁の香り、アルコールの甘い匂い。コートを脱ぐと、さっきまでの一日が少し遠ざかる。
「久しぶりですね」
誰かが言う。
「ほんとですね」
私は笑って返す。
それだけのやり取りなのに、ちゃんと顔を見て話すということが、思ったよりも安心感をくれる。画面越しでは見えなかった小さな皺や、目元の疲れや、笑ったときの声の震え。人は、やっぱり立体だ。
席に着くと、いつもより少しだけ緊張する。
何を話せばいいのか、一瞬わからなくなる。でも、乾杯の音頭が始まれば、その戸惑いもすぐに薄れる。
「お疲れさまでした」
グラスが触れ合う。
小さな音が、きれいに重なる。
最初の一口のビールは、少し苦い。でも、その苦さが体に染みる。普段は家で一人で飲むことはほとんどないから、この場所での一口は特別だ。
隣の席には、来月で退職する先輩が座っていた。
「やっとですよ」と笑う顔は、少しだけ軽く見えた。
長く勤めた会社を離れるというのは、どんな気持ちなのだろう。寂しさと解放感と、不安と期待が、同時にあるのかもしれない。
「次は何をするんですか?」
誰かが聞く。
「まだ決めきってないけど、少し休んでから考えます」
その言葉を聞いて、私は少し羨ましくなる。
立ち止まる勇気。離れる決断。私はまだ、そのどちらもできていない。
料理が次々に運ばれてくる。
唐揚げ、刺身、だし巻き卵。見慣れたメニューなのに、皆で箸を伸ばすと少しだけ特別に見える。
「これ、美味しいですよ」
向かいの席の人が、皿をこちらに寄せてくれる。
その何気ない気遣いが、あたたかい。
普段はチャットでしかやり取りしない人が、目の前で笑っている。
いつも無口な人が、意外とよく話すことに気づく。
声のトーンや、話す間の取り方で、その人の印象が少し変わる。
人は、画面の中だけではわからない。
話題は仕事のことから、最近見た映画のこと、体調のこと、昔の失敗談へと移る。誰かが大きく笑い、その笑いにつられて他の人も笑う。音が重なって、空間が揺れる。
私は、ふと気づく。
今日は、ひとりじゃない。
当たり前のことなのに、それが少し新鮮だ。
いつもは仕事が終われば静かな部屋に戻る。キーボードの音と、冷蔵庫の低い唸り声だけの空間。そこでは笑い声は一つ分しかない。
でも今は、いくつもの声がある。
退職する先輩がグラスを持ち上げて言う。
「こうして集まれるのも、最後かもしれないですね」
その言葉に、一瞬だけ静けさが落ちる。
でもすぐに誰かが「また飲みましょうよ」と笑う。
別れは、思ったより軽く扱われる。そうしないと、重くなりすぎるから。
私はグラスの中の氷を見つめる。
溶けて、少しずつ小さくなっていく。時間みたいだな、とぼんやり思う。
一軒目は、いつもここで終わる。
私はだいたい、程よく酔って、程よく満足して、「お先に失礼します」と言って帰る。夜の街を一人で歩き、少しだけ余韻を抱えて眠る。
今日も、そのつもりだった。
でも、席を立つタイミングで、同期の二人が声をかけてきた。
「もう一軒、行きます?」
少し驚く。
三人で集まるのは、入社して間もない頃以来かもしれない。
「どうする?」と聞かれて、私は一瞬迷う。
明日は特別早くもない。家に帰れば静かな夜が待っている。
でも、今日の空気は、少し違う。
「行きます」
自分の口から出た言葉に、自分で少し驚く。
退職する先輩に挨拶をして、店を出る。
外の空気は、さっきよりも冷たい。頬がひやりとする。でも、身体の中はまだ温かい。
三人で並んで歩く夜道。
誰も急がない。
雪はもう降っていないけれど、路面が少し光っている。
私はふと思う。
今日は、まだ終わらない。
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