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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(5)ワナにはまりつつある主人公

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――スパルタ王の具合が悪い。

 身なりの良い男たちは、スパルタ王メネラオスからの使いだった。このような浜辺まで出て、医者を探しているらしい。
 ヘクトルは、『王宮には近づくな』と口酸っぱく繰り返していた。が、病人を放置するのは医者の弟子としてありえない。

「おじいさん、ここからヒポクラテス先生の診療所は遠くないから、行ってくる」

「うむ。悪いが、先にスパルタに行ってもいいかの?」

「もちろん。待ち合わせはどうする? 先生の診療所は、三日歩けば着くよ」

 使いの一人が進み出た。

「スパルタへはここから一日かかります。私はこの老人と共に、先にスパルタに戻ります。パリス様が王宮に着いたら、知らせます」

 若者と老人は、一時、別れることとなった。
 そう、スパルタとは、パリスがさらうと予言されているヘレネ王妃がいるとかいないとか、陰謀をたくらんでいる兄弟がいるとか、怪しさ満点の町である。
 もちろんパリスはそんなことを知らないから、進んでトラップにはまっていく。


 パリスはもう一人の王の使いを伴い、久方ぶりに師匠の診療所を訪れた。

「パリスかあ。ちょーどいーとこ来よった。アンブロシアの薬が入ると、うれしいなー」

 再会した弟子に、師匠はいきなり無理目の薬を注文する。

「やっぱり先生にとって僕は、薬調達係なんですね……悲しいなあ」

 一応パリスは泣き真似をしてみせる。

「先生、それは何とかするから、先にスパルタに行きましょう。王様が具合悪くて、お医者さんを探してるんです」

 王の使いが力強く頷く。

「ヒポクラテス先生の名は存じておりました。たまたま浜辺で会った若者が、先生の弟子とは。謝礼はいくらでも払います」

 パリスは王の使いに「駄目だよ。先生はお金で動く人じゃないから」と首を振る。
 が、ヒポクラテスの反応はシンプルだった。

「いーよーん」

「え! 先生ってそういうキャラ? 貧しい人から金を取らない、金を積まれても気が乗らない診療は引き受けないのが、名医じゃないの?」

「パリス。そーゆーステレオタイプな考えは、いけないよー」

 使者は「ありがとうございます! 黄金の腕輪に、羊の干し肉一年分を差し上げましょう」

「ノンノンノンノン」

 名医は干し肉一年分を却下し「王宮の裏庭を散歩させてほしいんだなー」と持ちかけた。


 翌日、使いの案内で、医者の師匠と弟子はあっさり王宮に到着した。
 パリスはあたりをキョロキョロ見回す。

「スエシュドスさんは、どこにいるの? もうひとりのお使いさんが、教えてくれるんだよね?」

 王の使いは応えず、二人を控えの間に通して去った。入れ違いに侍女が二人入ってきた。

「ヒポクラテス先生、メネラオス王をお助けください」

 一人の侍女が、師匠を奥の間に連れて行く。パリスも付き従うが、もう一人の侍女に行く手を阻まれた。

「申し訳ございません。王様は、病の自分を見られたくない、とのことです」

 パリスは「僕は弟子だよ」と主張するが、侍女は頑として動かない。

「じゃ、大人しく待ってる。センセー、がんばってくださいねー」

 遠ざかる師匠にパリスは声を張り上げる。ヒポクラテスはパリスに背中を向けたまま、無言で腕を高く上げ大きく振った。
 師の姿が消えると、パリスを阻んだ侍女の誘導で、別間に移った。


 目の前のテーブルに、ワインやパンに羊の肉がずらっと並べてある。

「素晴らしい先生を紹介してくださったお礼です」

 案内してくれた侍女が、カップにワインを注ぐ。
「僕、スエシュドスさんに会いたいな」と侍女に頼むが「使いに聞いてみます」と去っていった。
 所在なくパリスはワインで口を湿らせていたが、退屈な時間はすぐ終わる。
 あでやかな衣装をまとった幼い娘が、琴を抱えた中年女を連れて入ってきた。

 娘は、金の首飾りを幾重にも掛け、宝石をあしらった腕輪を着けている。ゆで卵のように艶やかで白い顔に、青空のような虹彩が輝く。黄金色の豊かな髪を垂らしている。

「かわいい子だなあ。すごい美人になりそうだ」

 十歳ぐらいの子だろうか。傍に控える太った女は、装飾を身に着けず、生成りの布をまとっている。
 娘がパリスの前に立った。胸を張って言い放つ。

「私がわざわざ踊ってあげるんだから、ちゃんと見るのよ」

 初対面の少女が突っかかってきた。
 パリスは酒場でよく踊り子と話すが、このように高飛車な娘はいない。四日間のトロイア王宮生活でも踊り子を見かけたが、彼女たちは無言でパリスの目を楽しませてくれた。

「うん、楽しみにしているよ」と微笑ましく娘を見つめる。
 中年女が琴をかき鳴らす。幼い娘は、優美に腕を広げて踊る。小さな身体が、白鳥のように華麗に舞う。

「すごいなあ。こんなに小さいのに、大人と同じように踊れるんだね」

 パリスは手を叩き称賛を贈る。

「僕も踊りたくなったな。そうだ、一緒に笛、吹いてもいい?」

 荷袋からパリスは笛を取り出す。

「あなた大丈夫? ちゃんと私に合わせられるの?」

 少女が顔をしかめた。自分の踊りに誇りを持っているのだろう。

「あはは。そうだよね。じゃ、変ならやめるから、教えて」

 パリスは誇り高い小さな踊り子の傍に立った。笛を吹き、少女の踊りに合わせてステップを踏む。
 しばらく二人は優雅に踊っていたが、いつの間にか少女は自分の踊りをやめている。突っ立ったまま、笛を吹くパリスを見つめていた。

「どうしたの? ごめん。やっぱり僕、変だった?」

「あ……いえ……あ、あのね、私、聴いててあげるから、笛、吹いてもいいわよ」

「ありがとう! じゃあ、続けるね。あ、琴のお姉さん、一緒にお願い」

 パリスは、中年女に微笑み合図を送る。
 小さな踊り子は、太陽のように輝く青年が奏でる音に、耳を傾けていた。


「楽しかったなあ。一緒に食べようよ」

 パリスは少女を食事が並ぶテーブルに誘った。幼い娘は「そ、そうね。そこまで言うなら、付き合ってもいいわよ」と、椅子に座る。
 若者は、琴を持つ女に「あなたも一緒に」と声を掛ける。女は「いえ、私はここで」と動かない。
 少女が頬を膨らませ、中年女に「ガイアもこっちに来るの」と、隣の椅子を指さす。
 女は「それでは失礼します」と、頭を垂れドスンと腰かけた。大人二人が少女を挟む格好になる。

「僕はパリス。この王宮には用事があって来たんだ」

「知ってるわ。お父様のためにお医者様を呼んでくれたんでしょ? お礼に踊りを見せなさいって、お父様に言われたもの」

「お父様……そうか、君は王女様なんだね。名前はなんていうの?」

 彼女が王女だとパリスは予想していた。高飛車な態度も頷ける。

「ヘルミオネよ。でも私、王女やめるの」

「かわいい名前だね。僕も実は……いや、関係ないか。どうして王女をやめるの?」

「お父様、嫁に行けってうるさいの」

 パリスは目を丸くした。十歳ぐらいの幼い娘に結婚させるのか?
 王宮でヘクトル夫妻と話したことを思い出す。ヘクトルは十二歳で、五歳年下の王女アンドロマケと婚約したらしい。

――えええ! そんな子供の時から結婚相手決まっちゃうんだ。僕は絶対嫌だな。
――俺は嫌ではなかったが、アンドロマケ、お前はどうだった?
――そのようなこと、聞かないでください……。
 アンドロマケは頬を染め、目をそらし俯いた。

 パリスは納得できないが、王族同士の結婚はそういうものらしい。

「ヘルミオネ、僕の知ってる人も小さいときに婚約したけど、すごく仲良しだよ」

「どうせ、イケメンと美人でしょ?」

 幼い少女は頬を膨らませ、青い眼で睨んでいる。パリスは言葉に詰まった。

「だ、大丈夫だよ。お母さんがイケメンのお婿さんを探してくれるって」

 さっと少女の顔が曇った。

「私のお母様はね、私を産んですぐ死んでしまったの」

「ご、ごめんね! 僕知らなくて」

 パリスは、少女の黄金の髪を撫でた。
 ヘルミオねは、隣の中年女に顔を向ける。

「あ、でもお父さんがいるよね?」

「それは期待できないわ。お父様、頼りないもの。それより私、踊り子になるの」

「いいね、踊り子か。僕はいろんな踊り子を知っているけど、ヘルミオネは同じぐらい上手だったよ」

 少女は隣で沈黙する女を突っついた。

「ふふ、ガイアが踊りを教えてくれたの」

「ガイアさんか。すごい名前だね。大地の女神様なんだ」

 パリスは中年女に微笑みかける。

「通り名です。私は、ヘルミオネ様の乳母でございます」

「ガイアさんの踊りも見せてよ」

 女は「トンデモナイ!」と首を振った。

「ヘルミオネがこんなに上手なんだから、ガイアさんも上手なんでしょ? 僕が笛を吹くからさ」

 少女は「ガイア、一緒に踊るの!」と女に抱きついた。

「こんなに太ってしまったから無理ですって」

「関係ないって。僕、あなたよりずっと太った踊り子見たことありますよ」

 それが事実かどうか、パリスにとってはどうでもよかった。
 ガイアはヘルミオネに手を引っ張られて、踊らされる。乳母の体型はともかく、ヘルミオネに踊りを教えただけあり、動きのひとつひとつが滑らかで美しい。
 パリスは笛を吹きながら、白鳥の親子が生み出す芸術を堪能した。


 ヒポクラテスの元に王の使いがやってきた。ヘルミオネという踊り子が登場した。これで冒頭の物語につながり、造物主はひとまず安堵している。

 なお、一般に伝わるトロイア物語でも、ヘルミオネは、スパルタ王メネラオスと王妃ヘレネの娘である。もちろん造物主はそこまで考えて第一話を語った。決して単なる偶然ではない!
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