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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(7)ますます深みにはまる主人公

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 スパルタ王宮の客間で、輝く美青年と太った中年女は、ワイングラス……じゃなかった、土器のカップでワインを飲み干す。
 王女の乳母ガイアは、目をトロンとさせてパリスを見つめた。

「私は、ヘルミオネ様をお育てできればいいのです。ひとりで老いていく身ですから」

「ひとりなんて寂しいこと言わないでよ。思い切って再婚すればいいじゃない」

 パリスは、女の頭を軽く撫でる。

「再婚? 醜くなった私を娶ってくれる男なんて、アカイア中探してもいませんよ」

「そんなことないよ。門番とか馬飼いとか、ガイアさんにお似合いのおじさん、スパルタの王宮にいくらでもいるって」

 途端、ガイアは顔を引きつらせた。

「門番? 馬飼? ええ、確かに今の私は、その程度の価値しかありませんわね」

「えー、ガイアさん、その言い方はないよ」

 チャラ男のパリスは例え相手が中年でも、女性にめったに怒らない。が、この時は違った。

「おじさんたち、一生懸命、働いるんだよ。僕、じっと門で立っているなんてできないし、馬には乗れるけど、毎日餌をあげるなんて大変。僕、尊敬するなあ」

 女の目に涙が溢れてきた。チャラ男のクセに正論ぶって女性を泣かせてしまった。パリスは慌ててガイアの背中をさする。

「ご、ごめんねガイアさん。僕、王宮の仕事ってわからなくて……王女様の乳母と門番じゃ、釣り合わないのかな?」

 田舎で育ち、町でチャラく遊んでいたパリスには、宮勤めのヒエラルキーはよくわからない。
 女は泣きながら首を振った。

「私みたいな女、パリス様に軽蔑されても仕方ありません。でもやはり私、門番や馬飼いの妻には……」

「軽蔑しないって。嫌なら仕方ないよ。でもさ、おじさんたちががんばってることはわかって欲しいな」

 女は娘のようにコクコクと頷いた。

「私、もっと早く、パリス様のような方に会いたかった。あなたなら馬飼いでも門番でも……」

 パリスの額に汗が流れる。調子に乗ってリップサービスをかましたが、本気になられたらまずい。

「まあね。僕の彼女、すごーくかわいくて優しくて、この旅が終わったら、結婚するんだ」

 とっさにオイノネの顔を思い浮かべ牽制する。

「さぞ愛らしい方なのでしょうね」

 しかし牽制の効果はなく、女はしがみついてきた。

「多くは望みません。でも今宵だけ、パリス様の傍にいさせてください」

 来たか。
 が、チャラ男のパリスはいたって冷静だ。この手の誘いは何度も経験している。中年どころか、おばあさんから迫られたこともある。

「ごめんね。彼女に悪いから」

 女の腕をほどこうとする。普段ならチャラくても主人公の王子、相手が多少太っていても、するっと抜け出せる。
 が、ワインをしこたま浴びたパリスは、足がもつれて寝台になだれ込んむ。
 ガイアがパリスにのし掛かってきた。

「ダメだって!」

 パリスは乳母の身体の重みに圧迫されつつ、奇妙な感覚に陥った。

――前にもこんなこと、あった……。

 誰かと二人で夜、ワインを飲んでいた。酔っぱらい、もつれるようにベッドになだれ込み、囁かれた。

(愛しているよ)

 それは……男の声だった……え?

 パリスは頭を振って、幻聴を追い払う。それはありえない。
 酔いに任せてベッドに入ることはある。しかし、愛を囁くのはいつも自分だ。相手が女であれ男であれ。

「ガイアさん、部屋に戻ろうよ」

 パリスはグッと身を起こし、女の説得にかかる。願いを拒絶された女は泣き出した。

「誘惑なんて、こんな私には無理に決まってるのに~」

 パリスは膝に、泣きべそをかく女の体を乗せ、えいやっとベッドから出る。よろよろと立ち上がり、横抱きにした。
 オイノネと同じようにお姫様抱っこに踏み切るが、大分事情が違う。
 パリスは堪えた。絶対「重い」と言ってはいけない。


 ガイアを姫様抱っこして部屋を出ると、通路に立つ細身の男と目が合った。短い銀髪が目を引く。

「この人の部屋ってわかります?」

 男は四十才ぐらいに見えた。賢そうでどことなく高貴な雰囲気を漂わせている。下働きの男ではないようだ。

「私はメネラオス王の見舞いにきたのでよく知らないが」

 王の客ということは、高貴な身分なのだろう。銀髪の男は、余計な一言を加えた。

「貴殿はその女人と親しくされたようだね」

「違います! 普通に話してただけです! ガイアさんが酔って動けなくなったから、運んでるだけで……」

「女人と二人で飲んでいたと?」

「それぐらい普通でしょ! 人妻じゃないなら、問題ないよね? もう行きますよ」

 渋カッコいい親父に見えたが、ネチネチ嫌味な男だ。役に立たない男をスルーし、パリスは廊下を進んだ。

「ガイアさん、部屋はどこ?」

 女はパリスにしがみついたまま答えない。
 主人公の王子としてお姫様抱っこを続けたいが、限界に来ていた。

「ちょっとここで休んでてね」

 腰を下ろした瞬間だった。

「お前、何やってんの?」

 甲高い男の声が、前方から聞こえてきた。
 銀髪男と同じ年代の男が立っている。こちらは栗色のロン毛で、銀髪男と違い地味な顔だ。
 裾の長い紫色の衣を着ている。こちらも下働きの男ではなさそうだ。

「王女様の乳母の具合悪いので、部屋まで送りたいんですが」

「お前ら、飲んでたのか?」

「ガイアさん、ワインを持ってきてくれたんです。味見をしてもらったら、疲れてたのかな……部屋、どこです?」

 ガイアの顔も胸元も赤く染まっている。苦しい言い訳だが、押し通すしかない。
 が、乳母はパリスの首にしがみついたまま、目の前の男に答えた。

「王様。申し訳ございませぬ」

「え! この人、王様なんだ」

 パリスは驚いてみせたが、言われてみれば、王様らしい風格が……なくもない。
 ガイアは、王に向かって続けた。

「お申し付けの通り、パリス様をおもてなししておりました。この方はお優しく、私のような醜い老女に、床の中で何度も口付けを下さいましたの」

 ・・・・・・時間が止まる。この酔っ払い女は、今、なんと言った?

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 パリスは、ガイアの巻きついた腕を振りほどき、床に座らせた。

「王様! 僕、ガイアさんに変なことしてません! おしゃべりしてただけです!」

 王は何も答えない。
 パリスはここに来て、なぜ自分がこの王宮にいるのか思い出した。王女の乳母とイチャイチャするためではない。

「僕は、ヒポクラテス先生の弟子パリスです。王様、具合はいかがですか?」

「先生、いい人だな。いっぱい話を聞いてくれたぞ」

「よかった。先生は、患者さんの話を聞くことが大切だって言ってるから……そうだ王様、この人の部屋、教えてくれませんか?」

「俺が連れてく」

 スパルタの王は、座り込む乳母の傍にしゃがみ込み、手を差し伸べ、のそのそと立たせた。

「あらー、王様ったら、私なんかに勿体のうございますわあ」

 パリスは見かねてガイアの腕を取る。が、その手は王に振り払われた。

「触るんじゃねえ。お前さんは帰れ」

 地味な顔の王に睨まれ、パリスは手を引っ込めた。

「王様、ガイアさん、いつもがんばってるんです! 今日は羽目を外しただけです。だから叱らないで」

「お前さんに言われなくても、わかってるっつーの」

 パリスは、よろよろと進む二人が廊下の角を曲がるまで、見送った。
 部屋に戻ろうと引き返す。と、王の客人の銀髪男と目が合った。

「さようか、貴殿は女人と床の中で親しくされていたのか」

「だから、ガイアさんの勘違いだって!」

 慌ててパリスは部屋に引っ込んだ。ベッドに体を横たえると、違和感が膨れ上がってくる。

――王と、王女の乳母。それにしては……

 が、その違和感を探る前に、酒の神ディオニソスが、パリスを夢に世界へ誘った。
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