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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(30)光の男神と愛の女神

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「カッサンドラさん、もっと食べないと。アポロン様とのデート、体力使うんでしょ?」

 未来人トリファントスは、王女に「日ごろのお礼です」と誘われ、王宮の中庭で昼食に与かっていた。
 羊のような雲が青空をゆったりと泳ぎ、春の穏やかな日差しが、雲の隙間から漏れ射す。

 唐突に季節が春だと明かされた。造物主は、こんなに物語が長くなるとは予想せず、季節描写をすっかり忘れていた。すると、それより前は冬じゃないか、ちゃんと冬の描写しろよ、と突っ込まれそうだが、今さらどうしようもないので話を進める。

 外に運びだされた木製のテーブルに、パンや山羊のチーズに干し肉が並べられている。が、食べるのは中年男ばかり。娘の方はパンを一口かじったあとはワインで口を湿らせるのみ。

「賢者様、温かいお言葉をありがとうございます。でも太った姿では、アポロン様に嫌われてしまいます」

 カッサンドラの前髪が、風に揺れている。

「ん? 確か、魂だけが神様の世界に行くんですよね? アポロン様と会うときだけ『痩せろー』って念じたらどーです? こっちの身体が太っても、アポロン様に見せる『魂』が痩せてれば、問題ないでしょ?」

「トリファントス様は面白いことをおっしゃる」

 カッサンドラは口元を長い指で隠して微笑んだ。

「ですが、天空で輝くアポロン様は、すべてご存知です。この前お会いした時、『薄紅色の衣と黄金色の衣のどちらを着けるか迷うお前が、愛らしかった』とおっしゃって、恥ずかしかったわ」

 トリファントスは、椅子からずり落ちそうになった。

「それ、カッサンドラさんの着替えを覗いてたってこと? ドン引き……キモ……やばいっす! ストーカーっしょ!」

 その時だった。
 分厚い雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせた。春には似つかわしくない強烈な日差しが、二人の肌を突き刺す。

「あ、あちち! いきなりアレキサンドリアの夏がやってきたみたいだ……おい! カッサンドラさーん!」

 雲間から突然差し込んだ夏にカッサンドラは耐えられなかったのか、テーブルの上に臥せっている。二人を見守っていた侍女たちが駆け付けた。

「姫様、またアポロン様に呼ばれたのかしら?」

 が、侍女たちに支えられたカッサンドラはかすかに首を振った。

「いきなり暑くなりましたものね。ささ、お部屋に戻りましょう」

 トリファントスは、侍女に支えられてよろよろと消えていくカッサンドラの背中を見つめるだけだった。
 春空の下の昼食会は、ホストの退場で散会となる。
 そのころ、トロイアからはるか南のイデ山に鎮座する神が、金色の目を燃え上がらせていた。

「私のカッサンドラに邪心を抱き、あまつさえ私を侮辱するとは……神どころか英雄ですらない凡夫め!」


 輝ける神アポロンの身は山頂にありながら、その意は、遥か遠くトロイアの王宮にあった。

 イデ山はトルコに実在する山で、標高1774メートル。山頂からトロイアまでは直線距離で約57km。東京駅と三浦半島の先を結んだくらいか。神ではなくても、イデ山の山頂からトロイアを見ることはできるかもしれない。
 とはいえ屋内で着替える王女を観察するのは、神でなければできない。というか、人間がそれをやったら普通に犯罪である。
 なおギリシャ神話によると、水浴びする女神をうっかり目撃した人間男子には、恐ろしい報復が待っている。当然、死罪は免れない。

「無暗にカッサンドラを神の世界に引き込んでは、あの美しい身体が壊れてしまう。であるから私は堪えているのに……あの凡夫め! カッサンドラを励ますふりをして、隙あらば私から奪うつもりだろう……神にはお前の邪心が見えているぞ」

 トリファントスの邪心は、神ならぬ王女の侍女たちにも見えているだろう。
 輝ける神は、両腕を掲げて広げた。と、銀色に輝く弓矢がパッと現れた。アポロンは矢をつがえ、王宮の中庭で寂しそうに突っ立っているトリファントスに狙いを定めた。

「私は慈悲深い神だからな、殺しはしない。が……そうだな、十日ほど腹下しになってもらおうか……今までカッサンドラに近づいた不埒な男らと同じようにな!」

 病をもたらす矢がまさに放たれんとする時だった。

「アポロン様、いけませんわ。そんな悲しいことなさらないで」

 背中から響く愛しい女の声。アポロンは銀の弓を消失させ急ぎ振り返る。

「カッサンドラ! 違うのだ、これは……あ?」

 声は間違いなく愛しい娘のそれだったが、その姿はトロイアの王女とは別物だった。

「なんだ、あなたか」

 女は美しい顔を歪ませ、輝ける美青年を睨みつける。

「なんだ、ですって? よくも美の女神アフロディテの前で、あからさまに失望した顔を見せられるわね!」

 腰まで伸びた豊かな巻き髪は黒々と光り、風に踊っている。丸くて大きな眼は黒曜石のよう。完璧な黄金比を形作る鼻と唇。女神の全身は薄布で覆われていて、乳色の肌が透けて見えている。

「何を言うか、貴い女神。あなたに見えて心踊らぬ男がどこにいよう?」

「あははは! まったく心のこもってない賛辞ね! ありがたくいただくわ」

 二人はイデの山頂で、笑いながら抱き合う。
 突然襲ってきた夏の暑さは穏やかな春に戻り、虹の円が何重にも太陽を大きく囲んだ


「アポロンって本当に人間の女が好きね。あたながトロイアに産まれて二千年間、あたしずっと楽しませてもらってるわ。人との恋に破れて嘆く姿に」

 愛の女神はアポロンの傍らに座り込み、彼の金の巻き毛に指を滑り込ませた。

「アフロディテ、趣味が悪いね。ああ、確かにこれまで私が愛した女人は、みな私から逃げようとした」

「美しい顔をして、女心がまったくわかってないのね。追うから逃げるの。美形の無駄遣いよ」

「今度こそ私は失敗しない。私は力づくであの娘を奪ったりはしない」

「あはははは、二千年も失恋を繰り返して、少しは成長したのね」

 アフロディテは黒曜石の眼でアポロンを見つめ、頬を突っついた。

「カッサンドラはトロイアを愛している。私も同じだ。だから私は彼女を見つめトロイアを守る。それでよい」

「じれったいわね。ゼウスがガニュメデスをさらったみたいに、カッサンドラが美しいうちに、こちらへ連れてくればいいじゃない」

 ガニュメデスとは、プリアモスの曽祖父トロス王の王子だ。彼の美しさに惚れこんだゼウスは、大鷲に化けてオリュンポスに連れさったと伝えられている。

「ゼウスめ! 愛らしいガニュメデスを眺めるのは密やかな楽しみだったのに、力づくで奪いおって! あの時からゼウスは私の敵だ!」

 アポロンは立ち上がり、美の女神をギラギラと睨みつけた。
 春になったばかりのトロイアの大地を、真夏のように輝く太陽がギラギラと照り付ける。

「アポロン、落ち着きなさい。あなたの大好きなトロイアが日照りに苦しんでもいいの?」

 アフロディテは太陽の神の腕を取って、座らせた。

「……女神よ、あなたはなぜ、遠い東の地からやってきて、私にかまうのだ?」

「あなたは、昔のあたしに似ているの」

「似ている?」

「初めてあたしに呼びかけた民……シュメールの人々はあたしをイナンナと呼んだわ。彼らは、国を、文字を、暦を、車輪を生み出した……人が人たる証を初めて作った素晴らしい人たち。並ぶものはいなかったわ」

 アフロディテの黒い眼が揺れている。
 輝けるトロイアの守護神は、女神の滑らかな頬に指を滑らせた。

「……それでも滅んでしまったのよ。八百年前にね」

 美の女神は立ち上がり、アポロンに背を向けた。遥か東の山々を見つめて。

「八百年もの間、寂しくはなかったのか?」

「なぜあたしを生み出した人たちがいなくなったのに、自分はまだ存在しているのか、どうして彼らを守れなかったのか……ずっと悔やんでいたわ……でもね」

 美の女神は振り返り、太陽の神に笑いかける。

「シュメールを滅ぼした人たちも、あたしのために荘厳な神殿を建立したのよ」

 女神の黒い巻き毛が、ばさっと風に舞い上がる。

「そこであたしは本当の神になれたの。神とは、敵味方の別なく、民の垣根を超えて、世界全てを照らす者よ!」

 アポロンの金の巻き毛も、風に揺れている。

「あたしは名前を変えて、ここまで来たわ……世界の中心は東から西に移りつつあるの。あたしはいつでも世界の核でありたいわ」

 太陽神は勢いよく立ち上がった。

「女神よ。あなたは世界の中心にいればよい。しかし私は、私を生み出したトロイアの神でありたい!」

「アポロン! あなたは昔のあたしにそっくり! 滅ぶ宿命の人々に執着して苦しむ姿は、見たくないの! だから」

 愛の女神は光の男神の手を取った。

「ゼウスのオリュンポス山に行きましょう!」
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