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東雲(しののめ)⑨

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 陽が南西よりも少し西へ傾いた頃、フィリカの勤める書庫へとジャックは足を運んでいた。そして着くなり書庫をキョロキョロと。

 すると、

「ジャックさん!」

 偶然、排架の最中に棚の影から現れるフィリカ。彼女はジャックを見つけるなり本を持ちながら側へ駆け寄ってきては、

「もう、何やってたんですか? 来るの待ってたんですよ?」

 と、いの一番に尋ねる。――が、それでもまだ辺りを見回してるジャックの様子に、

「誰かお探しですか?」

 と、首を傾げるフィリカ。ジャックは素っ気なく、

「······あいつは?」
「あいつ? あぁ、ミーナさんですか。部屋で研究に没頭してますよ」

 憧れの存在に向け、珍しく鼻を鳴らしては顔を逸らし、不機嫌な様子を見せるフィリカ。だが、ジャックはそれを気にも掛けず、

「ふーん、そっか」

 すると、フィリカの怒りの矛先は途端にジャックのほうへ。

「聞いといて何ですか、その反応は」
「ん? なに怒ってんだよ」
「怒るに決まってるじゃないですか!? だってここ数日ジャックさんは姿現さないし、ミーナさんはミーナさんでぶっきらぼうで事情話してくれないし、それでやっとジャックさんに会えてミーナさんの事が気になったかと思えば“ふーん、そっか“って······何なんですか!? 二人して!」
「お、おい、あんま大きい声出すなって······」

 ジャックは焦った顔で、抑えろ抑えろ、というように両手を前へ。本を読んでいた人達の注目は、すっかり二人へと集まっていた。

 それにハッとすぐ気付き我に返るフィリカは、周りにペコペコとひたすら平謝り。そして周りの目がようやく本へと戻ると、フィリカは少し気落ちしたように、

「すみません······。こういう時、周りが見えなくなりやすくて······」
「いや、いいけどさ······」

 と、目を伏せる彼女に、今度は困惑顔を見せるジャック。彼女はそのままに、

「ただ、私はいつも通り部屋に行っていつも通り話しかけてるだけなのに······これじゃ私、まるで除け者扱いされてるようで、なんか······」

 と、あの日のように、泣きそうな顔をするフィリカ。それにバツが悪いと思うジャックは頭を掻くと、またここで注目を集めてもな。と、先日の出来事をフィリカに話すことにした。




「そうだったんですか······」

 排架の仕事をしながら話をしたフィリカとその手伝いのジャック。二人は今、書庫中央の読書スペースで椅子に座っていた。

「すみません、無理に話させてしまったようで······」
「いいよ、別に」

 ジャックは後輩に余計な気を遣わせないよう、そう素っ気なく言う。そしてその口調で、

「だからとりあえず、俺はあいつの前で思いっきり負けたってことなんだよ」

 と、頭で手を組んでは背もたれ椅子を傾けて揺れる。そんなジャックに、少しずつ普段の調子へ戻りつつあるフィリカ。

「じゃあ、それが原因で、ミーナさんと会うのが気まずいってことなんですか?」

 ジャックは相変わらず揺れながら「そうだなー」と中空を見るように考えては、

「気まずいのってのもあるけど、格好がつかない、合わせる顔がないってほうが強いかな。ほら、ちょっとした喧嘩ならまだしも、本気で喧嘩して負けた事とかってあんま知られたくないし、惨めじゃん?」
「うーん。私は残念ながらそういう経験に乏しいので、いまいちその感覚が分からないのですが――」

 と、その時、あの彼女が『放っておきなさい』と言った言葉の意味をフィリカはようやく理解する。

「あぁ、それでミーナさんは······」
「ん?」
「あっ、いえ、すみません。こちらの話です」

 なんでもない、という風にフィリカは手のひらを振る。そして「ということは」と言うと小首を傾げながら、

「じゃあ、別にミーナさんと会うこと事態が嫌、という訳じゃないんですね?」
「······そりゃ、まぁ。そう言われればそういう事にはなるけど。それより今は、自分の弱さに傷心してる方が大きいし」

 椅子を正しく戻したジャックは目を逸らして、また無意識に戦いの事を思い出す。悔しさと憂いさの滲む目だった。――と、その目を見たフィリカは、

「······その傷は癒えそうなんですか?」
「どうだろうな。なんか、自分の中の何かがポッキリと折れちゃったし」

 と言ってはフィリカを見て「時間掛かるかも」と力なく笑うジャック。すぐ俯いたとはいえ、そんな顔を一瞬だけ見たフィリカは少しだけ事情を聞いたことを後悔。そして、彼女が目を逸らした頃、

「まぁ、ちゃんと顔くらい出せるようにはするよ。悪かった」
「いえ、私のほうこそ······」

 フィリカは、この人は思ったより無理をする人なんだ、と知っては同時に、自分の尊敬する人は彼にとっての最善を尽くそうとしてたのかもしれない、と思った。

 そして、やや自分を恥じるよう反省をするフィリカは、自分では厳しいと気付き、後はその尊敬する人に任せようと考える。

「そうだ、ジャックさん。どうせこの後暇なんですよね?」
「たしかに今日はもう何かするつもりはないけど······その言い方はどうかと思うぞ?」
「いいじゃないですか、事実みたいなんですから。——それで今日、私、鍵の当番なんですけど、司書の仕事が終わりそうにないのでちょっと手伝ってくれませんか?」
「いいけど······」

 しかしジャックは疑いの顔で、書庫内を見渡す。そしてつい、

「いつも仕事してなさそうな、この場所でそんな事がねぇ」
「ちょっとジャックさん。本当の事とはいえそれは失礼ですよ」
「自分で認めてんじゃねぇか······」

 少しだけ、いつもの二人に戻りつつある会話だった。その雰囲気に乗っかるようにフィリカは、

「とにかく、寝ていた間のツケが今ここで回ってきてしまったんです」

 いつもの感じでやや言葉強めにそう言った。そして、その事まで持ち出されたら反駁のしようがないジャックは、やや眉を困らせつつも、

「まぁそれなら仕方ないか、手伝うよ」
「ありがとうございます!」
「で、何したらいい?」
「私は貸出者のリストアップをしなくちゃいけないので、ジャックさんは······ここに置かれていった本を棚に戻していってもらえますか?」

 立ち上がっては受付横の木棚へ行って、フィリカはそれをポンと叩いていた。自分の仕事が分かったジャックは、

「あぁ、わかった。でも、それだけでいいのか?」
「はい、大丈夫です。何もない時は本読んでていいですから、ね?」
「······ほんと自由な職場だな」
「あちらも一緒じゃないですか」

 と、すり鉢を動かすジェスチャーのフィリカ。それで何処かを察するジャックは「まぁ、たしかに」と苦笑。そして「でしょ?」と返すフィリカは丁寧に頭を下げると、

「それじゃあ、よろしくお願いします」
「あいよ」

 二人は、各々の仕事へと取り掛かった。




 それから三時間ほどが経ち、いよいよ書庫内の人間はジャックとここの職員だけになっていた。天井の円形ガラスにも瞑色(めいしょく)が漂っている。だが、姿は見えないものの月が――月明かりが空間を透明に照らしていた。

 司書の仕事の終わりが見えたフィリカは、一緒に残っていた職員に話し掛ける。

「じゃあ、後は私がやっておきますね。兵士さんにもお伝えください」

 そう慣れたように言うフィリカに、もう一人司書――深緑髪の職員は「そう? じゃあ、後はよろしくね」と慣れた様子で立ち上がる。そして、彼女は入り口で見張る兵士の元へ歩いて行っては話し掛け、そのまま帰って行った。

 そんな様子を何の気なしに見ていたジャックへ、

「ジャックさん。後、そこにある本を片付けたら終わりですからね」

 と、フィリカは、受付の机に置いてあった数冊の本を指で差す。そちらに目を向けるジャックはやや眠気を持っていたものの、少し目を覚ますと「おっ、そうか」と椅子から立ち上がりその本へと向かう。

 そうするとフィリカは、

「私はちょっと、書類のほう出しに行ってきますね」

 と、自分の抱える一冊の白い本と書類を見せるように少し前へ。それを見るジャックは、きっと上への報告に出すものだろう、と思っては「おう、いってら」と、軽く手を掲げる。

 そうして、フィリカは書庫を出て行った。

 それからジャックは一人、空の明かりを頼りに黙々と本を返していく。自分の足音と、本と本が触れ合う音、そして、ストンと音を立てる棚の音以外は何もしなくなった。まるで、この世界に一人だけで生きているようだな。と、ジャックはふと、瞬き始めた星を見ながら思う。

 しかしそれから二冊目の本を片付けた時、一人っきりの世界にもう一人だけ人間(ひと)が現れる。

「すみませーん。これ返しに来たんですけど······」

 柄にもなく感傷に浸っていたジャックは我に帰ると、予想外の来訪者にこちらも柄にもなく「はーい」と返事。返そうとしていた本を手に持ったまま、その声のするほうへと歩く。

 そして、棚を曲がって受付が見えた所で、

「あぁー、すみません。いま職員の人が出てるんで、なんなら俺が代わりに――」

 と、そこでジャックは言葉を詰まらせた。
 相手も、目を見張ってはこちらに気付いていた。

 月夜に照らされる、燃えるような赤い髪。

「なんで、あんたがここにいるのよ」

 そこには、白い本を持ったミーナがいた。




「······なんでついてくんだよ」
「仕方ないでしょ。この本もそっちなんだから」

 白い本を持って出て行った事は、全てフィリカの計算によるものだった。最後に受付に置かれていた本の束――白い本も含め、それらはわざわざ彼女が足元に溜め隠しておいたもの。

 そして、そのことをそれとなしに察するミーナは溜め息。

「まさかあの子にしてやられるとわね。何が、お昼食べ過ぎてお腹痛いから、これ持って行ってて下さいー、よ。馬鹿じゃないの」

 冗談ではあるものの、やや珍しく口悪く、ここに来た経緯をひとりごとのように話すミーナ。それはこの場を和まそうとした彼女なりの気遣いだったが、しかしジャックはその横で黙々と何も返さず本を片付けていた。

 ミーナは目を逸らしては、もう一度だけ鼻で小さな溜め息。

 そして持っていた本を、ジャックから一メートル程離れたその場所で、ストン、と本の間へ静かに押し込んでいく。そして、彼女は背表紙へ当てた手をそのままに、

「······まだ落ち込んでるの?」

 だが、ジャックは返事をせず、作業を続ける。
 そんな様子に、ミーナはぶっきらぼうに言った。

「なによ、一度負けたくらいで」

 それにはジャックの手が流石に止まった。だが、またすぐに手を動かして何事も無かったかのように作業へ集中。そして最後の一冊を棚に戻すと、ミーナのいない所へそそくさと行こうとする。その後ろを追い掛けるミーナ。

「待ちなさいよ」

 彼女が歩きながらそう言うと、ジャックは一旦足を止める。

「······なんだよ」
「あんたがいい加減なやつで、私との仕事をサボるような人間だってのは知ってるけど、それ以上にあなたがあぁいうので負けず嫌いなことだけは、私はよく知ってんの」
「······それがなんだよ」
「だから――」

 またこの場から離れようとしていたジャックの右手をミーナは後ろから取る。「おい」と、ジャックはその手を振り払おうとする。――が、

「······ホント······馬鹿じゃないの?」

 ミーナはその手を、優しく撫でていた。
 その手に出来た、血豆が出来るほどの荒れた手のひらを。

 知られたくない部分を知られ、つい悲痛な面持ちをするジャックは目を逸らし、彼女の手が止まった所で自分の手をそっと引き抜いた。そして後ろを振り返り、黙ってゆっくり歩き出す。

 だが、まだ話を終えていない彼女は、

「そんなあんたに、私が失望すると思う? 嫌いになると思う?」

 足を止めるジャック。

「あなたは何を失ったの? 自信? プライド? それとも別のなにか?」

 彼女に顔を見せず、ジャックはただその言葉に耳を貸していた。

「でもどれも――」

 彼女は彼に歩み寄り、そっと後ろから抱きしめる。

「あなたなら取り戻せないものじゃないでしょ? あなたなら必ず取り戻せる。······だから、ずっと待ってるから······無理しない程度で、早くしてよ」

 抱き締めるミーナの腕がギュッと強くなる。
 ジャックは自然と、彼女の手にそっと自分の手を重ねていた。

 そして背中に頭を付けた彼女の声が、身体を通してジャックに伝わる。

「それに······私を守るのがあなたの役目なんだから、今あなたが居なくなったら誰が守るの?」

 思わず目を伏せるジャック。だが、

「あなたが、私を守って」

 その言葉、そして彼女が直前に言った言葉を思い出すジャックはゆっくりと空を見上げた。そのまましばらくし、重ねていた彼女の手をそっと握ると、

「······あぁ、そうだな」

 もう一度、今度は二度と放さないというように、その小さな手を強く握った。

 書庫の天井にはポッカリ、透明で大きな夜が広がっていた。しかしその中を、無数の星が隙間を埋めるように優しく瞬き始めていた。




 明くる日。

 まだ誰もいない早朝の訓練場で、木剣が二つぶつかる音が響き渡っていた。

「もう少し寝てたかったんだけどな、ジャック!」
「いいだろ、たまには!」

 剣の稽古をするジャックとスライ。
 これがもう十五本目という所。

 二人は互いの隙を見つつ、剣を振りながら会話を続ける。

「ったく。それにしても思ったより早い回復だな」
「んなこと、ねぇよ」
「あれか? フィリカって子に、何か言われたか」
「あいつは、そんなんじゃ······ねぇって!」
「んじゃあー······あれか? 赤い髪の子のほうか」

 と、そこでジャックの動きが少しだけ鈍る。
 そしてその隙を見逃さないスライ。

 彼は相手の剣をすぐさま右へ払うと、ジャックが立て直すよりも速く、その月白髪の頭を叩いた。手加減のない面にジャックは木剣を手放し、二、三歩後退っては自分の額を両手で押さえる。

 そして、そうして蹲(うずくま)るジャックに向け、

「ははーん。そっちか」

 涙目で顔を上げるジャック。

「おい、汚ねえぞ」
「動揺する方が悪いんだろ?」

 勝者のスライはニッと不敵に笑うと肩に乗せていた剣を下ろし、また戦う前の位置へ戻っていく。ジャックもまだ痛む頭を左手で押さえながら、よろめくようになんとか落とした木剣を取りに行く。

「ちっ······。あぁ、くそっ! もっかいだ!」
「あいよ」

 その頃、ちょうど陽も昇り始め、城壁も明るさを取り戻し始めていた。そして閑散とした訓練場には、それからも人が来るまで稽古に励む二人の姿があった。
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