この秘密を花の名前で呼んだなら

白湯すい

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大丈夫

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 病室を出て看護士さんから色々と説明を受けて、病院を出ると入り口のところに志水先生が待っていてくれていた。
「もういいのか?」
「うん。右足にヒビ入ってて、念のため何日か入院するって」
「そっか」
 入院が長引くかは検査結果次第だけど、うちには普通の生活をする上で特に日中に頼れる人が居ないから、ある程度なんでも自分でできるようになるまで入院のほうが安心だろうということだった。
 俺は思ったよりも出した声が鼻声で、志水先生にさっきまで大泣きしていたのがばればれだなと、少し恥ずかしかった。まあ、鼻声じゃなくたって目は真っ赤だろうから、そもそもすぐにばれているだろうけれど。


 志水先生の運転でそのまま家まで送ってもらうことになった。何事もなければ学校に戻るのもありだったけど、この顔で戻るのは何かしら詮索されそうで嫌だったからやめた。

「それじゃあ花崎、何日か家でひとりじゃないか?」
「そうだね。まあだいたいのことはひとりでできるし、大丈夫だよ」
「そうか。そりゃ頼もしいね」
 家のことは何でも手伝ってきたから家事はひと通りできる。数日くらいはひとりでなんとかできるだろう。

「何か困ったらいつでも言いなよ。他の先生方も事情は知ってるから助けてくれるだろうけど」
「……ありがと。でも大丈夫」
「花崎の『大丈夫』は、なんか心配だな」
 先生はそう笑って、胸ポケットから取り出した手帳に何か書いて、付箋になっているらしいそのメモを車から降りた俺の制服にぺたっと貼って寄越した。
「いつでも連絡して。いらなかったら、捨ててもいいし」
「これ、先生の番号?」
「そう。時間とか気にしなくていいから、結構遅くまで起きてるし」
「…………わかった。ありがとう」

 こんなタイミングで、好きだと自覚してしまった人の連絡先を一方的に手に入れてしまった。いらなければ、なんて言っていたけど、いらないはずがない。好きだなんて気づいてしまったけど、大人と子どもだし、先生と生徒だし、気軽に連絡先なんて聞けないと思っていた。



「……ただいま」
 先生と別れてひとり家に入ると、普段と変わらない家なのに、いつも待っていてくれている母さんが居ないだけでこんなにもがらんとして見えるのだと知った。

「…………っ、」
 ぶる、と体が震えた。父さんが居なくなったときのことを思い出した。あのときもこんな風に、いつも通りの家の中がやけに広く感じたんだ。
「……大丈夫だって」
 あのときとは違う。母さんはちょっと怪我をしただけで、死んだわけじゃない。数日、たった数日経てば帰ってくる。必ず帰ってくるんだ。
 俺は何度も大丈夫、大丈夫と頭の中で唱えた。それでも俺の手は鬱陶しいくらいにぶるぶると震えている。

「……先生」

 思い出したくない過去の記憶と一緒に、ついさっき『花崎の大丈夫はなんか心配だな』と苦く笑った顔がフラッシュバックする。制服のポケットには先生がくれた電話番号が書いたメモが入っている。
 こんな別れて数分後なのに、大丈夫だって強がったばかりなのに、こんなにすぐにかけてもいいだろうか。ばかみたいに役に立たなくなった指先は、メモを取り出して開くことすらままならない。

「……助けて」



 ピンポン、とふと現実に引き戻す高い音が響く。
 ぎしぎしと動きが鈍くなった体では扉の方を振り返るのがやっとで、来訪を告げる音に応えることができない。

「花崎、いるよな? 志水です」
「…………先生?」
「……開けるよ?」

 俺の声を聞いて、扉を開けたのは志水先生だった。まるで俺の「助けて」という声が聞こえていたみたいなタイミングだった。
 扉を開いた先生の手には俺のスマホが握られていて、ああ俺、先生の車にスマホ落としてきちゃったのか、と頭ではすぐに理解できた。それじゃ先生にかけたくても電話なんてかけられなかったじゃないか。
 自分の状況がばかばかしくなって、気が緩んで、その瞬間にまたぼろぼろと涙がこぼれた。

「……っ、花崎」
「先生……」

 先生は俺が玄関にへたり込んで手をかたかた震わせて、なんとか取り出したメモを握りしめて泣いているのを見て俺のことをぎゅっと抱き締めてくれた。
 泣くつもりなんてなかった。先生にこんなかっこ悪いところを見られたくなんかなかった。
 けど、こんな風に泣くところを見られたのが先生でよかった。そう思った。

「……部屋番号聞いといてよかった。あと、こんな状況だったならタイミング良くスマホ落としていってくれてよかったよ」
「…………ふ、う……っ、ごめんなさい…………」
「まったく、これだから花崎の『大丈夫』は信用できないんだよなあ……。……うん、大丈夫。今度こそ、大丈夫だよ。先生がいるから」

 先生は、俺が落ち着くまでずっと背中を撫でて優しく何度も『大丈夫』と声を聞かせてくれていた。先生の腕の中はすごくあたたかくて、こんなに安心できたのはいつぶりだろうかと思った。
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