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【8】

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 翌日、昨日の予告通り華城がマンションに迎えに来た。
 腫れた目を冷やすために、昨夜は保冷剤をタオルに巻いて当てていた甲斐あって、まともに見れるくらいにはなっていた。
 身支度を整えていると部屋のチャイムが鳴り、いそいそと玄関へと向かう。
 ドアを開けた瞬間、彼の爽やかな表情と優しげな声音が目の前に迫り、俺は俯く事しか出来なかった。
「おはようございます。早かったですか?」
「ん……おはよ」
 羞恥に赤くなった顔を見られないようにバッグを胸に抱えて階段をおりると、建物に横付けされた営業車にそそくさと乗り込んだ。
「今日はこのままK邸に向かいますが、いいですか?」
「あ……あぁ」
 昨日、夏樹が言っていた最終見積書のことを思い出し、ぼんやりと相槌を打った。何かと用意のいい華城のことだ。夏樹から見積書を受け取ってきたのだろう。
 これで、彼女の小言を聞かずに済むと安堵する。
 朝の通勤ラッシュのせいで交通量が多くなった国道をしばらく走ったところで、華城は沿道にあるコンビニに車を入ると、実に無駄のない動きで車を止めた。
 シートベルトを外し、ドアに手を掛けながら俺の方を見つめる。
「何かいりますか? コーヒーは……ホットでいいですか?」
「あ……悪いな。あと……煙草もっ」
「分かりました」
 昨日のキスのことなどまるでなかったかのように接する華城に、俺は正直なところ怯えていた。
 もしかしたら、思いつめていた自身が見た夢だったのでは。はたまた妄想だったとか……。
 もしそうだとしたら、下手にそのことを本人の目の前で口にしたら、きっと軽蔑される。
 だが、やけにリアルに残る唇の感触と煙草の香り、そして勃起してしまうほどの舌使い。あれを夢や妄想で片付けてしまうには惜しい気がする。
「――すみません。お待たせしてっ」
 颯爽とドアを開けて乗り込んで来た華城の手から、コーヒーが入った紙コップと煙草を受け取ると、素直に「ありがと」と言った。
 そんな俺を満足そうに見てエンジンをかける華城の横顔に、また心臓が跳ねる。
 車がスタートしてすぐに、俺は意を決して昨日の事を切り出した。
「あ、あのさ……。昨日の事……なんだけど……」
「――なんでしょうか?」
「あれって……、じょ、冗談とか……じゃ、ないんだよ……な?」
 だんだんと尻すぼみに声が小さくなっていくのは、何一つ変わらない彼の表情に自信を失っていったからだ。
 夢か妄想か。いや、現実だったとしても改めてこんなことを聞くのは野暮だと十分承知している。また、呆れたようにため息を吐かれ、怒られるだろうと覚悟はしていた。
 しかし彼は黙ったまま前を見据え、ハンドルを握っている。
「――悪い。変なこと聞いて」
 華城の機嫌が悪くなる前に謝っておこうとそう口にした時、赤信号で車が止まった。
 朝の通勤ラッシュがピークを迎えるこの時間、渋滞は絶対に避けられないと言われている交差点で足止めされる。信号が変わっても短い距離の間にいくつも点在する交差点のせいで、なかなか進むことが出来ず停止している時間が必然的に長くなる。
 早鐘を打つ心臓が壊れてしまうのではないかという状態が長く続けば続くほど、俺のメンタルは確実に削られていく。
 ビクビクしながらも彼の横顔を見つめていた俺の視線に気づいたのか、華城が端正な顔をゆっくりとこちらに向けた。
 そして――。躊躇うことなく一気に間を詰めると、緊張で渇いたままの唇に触れるだけのキスをした。
 俺は目を見開いたまま完全にフリーズし、しばし呼吸することも忘れていた。
 渋滞のさなか、車線変更で並んでいた隣りの車のドライバーに見られてはいまいかと、ハッと我に返り窓の外を見ると、幸い隣りは大型車で運転席は高い位置にあるため俺たちの様子は見えなかったようだ。
 それにしても、こんな時にいきなりキスを仕掛けてくるなんて……。
「――まさか、夢だと思った。……とか言わないですよね?」
 抑揚のない低い声で図星を指され口籠っていると、彼は大仰にため息をついた。
「確かに……。昨日のあなたは二日酔いで、勝手に思い込んでいた失恋とやらの痛手で完全に自分を見失っていました。そうと知っていて、あんなことをした俺のやり方は解せなかったと思います。でも……黙っていられなかった」
「華城……?」
「――また、あなたがどこの馬の骨とも分からない輩に抱かれる事を考えたら、いてもたってもいられなくなって」
「え……? ええっ!?」
 表情一つ変えず、チラッと視線だけをこちらに向けた華城が垣間見せた独占欲。しかも、何事でもないようにさらっと告白した彼に俺は言葉を失った。
「ですが――。今はまだ、きちんとした決着をつけていないので、それが片付いたらあなたを堪能したいと思います。だから……」
「――だから?」
 ごくりと唾を呑み込んで問い返すと、華城はすっと目を細めて唸るように言った。
「――もう、夜遊びは許さない」
 信号が青に変わり車がのろのろと動き始めると、ハンドルを握る華城の顔に緊張感が戻る。
 朝から――しかも出勤途中にこんな熱烈な告白をされて、俺は今日一日正気を保っていられるだろうか。
 今にも爆発しそうなほど真っ赤になった顔を下に向けて、彼が買って来てくれたコーヒーを啜った。カップを持つ指先が微かに震えていた。それを抑えようにも、すぐ隣にいる彼の事を余計に意識してしまい緊張が止まらない。
 華城が言う『決着』とは……おそらくではあるが談合疑惑の事。そして、そういう関係を持ってしまった吉家とのことなのだろう。
 ぶっちゃけ。俺はそんなことはどうでも良かった。
 華城の言葉が真実であり、本気で俺のことを好きであってくれるのならば、このままホテルに直行しても構わないと思っていた。それだけ、彼の事を求めていた。
 昨日までの俺ならば、そう思っただろう。「すべてを片付けて」という彼の真摯な対応を目の当たりにし、それをおざなりにしてまでセックスする気にはなれなかった。
 律義に意思を突き通す彼――それが俺への想いの表れだとしたら、華城を求める淫乱で貪欲な体など二の次、三の次でも構わない。
 寡黙で真面目、誰よりも忠実な大型犬――そう形容してもいいのなら、その飼い主がこんなヘタレであっていいわけがない。
やはり、再び女王クイーンの座に戻るべき……なのだろうか。いや、きっと彼のことだ。しおらしく、古風な雰囲気の方が好まれるのかもしれない。そうなると、今までの俺とはまるで逆で『らしさ』がなくなるのでは。
そもそも、飼い主はどっちだ? もしかしたら、こいつが主で俺が……ヘタレ犬なのか?
ぐるぐるとくだらない妄想を巡らせながら車に揺られ、気がつくとK邸に到着していた。
 飲みかけのコーヒーを一気に煽り、車を降りる前にバイザーの裏面に取り付けられている鏡で身だしなみを整える。軽くネクタイの曲がりを直してバッグを掴むと、俺は車から降りた。
「華城、見積書の方は問題ないんだな?」
「はい。目を通しておきました」
 期待を裏切らない小気味良い返事が返ってくる。
 玄関で三十代半ばの夫婦に迎えられ、俺たちは契約への第一歩を踏み出した。


 *****


 K邸での打合せは華城の適切な説明によってスムーズに話が進み、思ったより早く契約締結を迎えられそうだ。早々に、K邸をあとにした俺たちはこれから出るであろういくつか案件の下見を終え、会社に戻ったのは午後三時を回っていた。
 営業部のみんなが出払っているフロア内は静かで、窓際に座る松島と電話対応に追われている庶務の石田いしだという女性社員しかいなかった。
「お疲れです~」
 石田に声をかけると、受話器を肩に挟んだまま何枚かのメモを手渡される。
 営業部の社員は留守にすることが多く、その間にかかってきた電話や来客状況を管理しているのが石田だ。
 彼女は三十代前半だが未婚で、普段はその存在すら気づかないほど大人しく真面目だが、酒に酔った時は手がつけられなくなるほど、毒舌・下ネタ・説教……何でもアリの面倒臭い女に豹変する。
 だから部署内の飲み会などでは、彼女にはなるべく飲ませないようにみんなが一致団結する。
 受け取ったメモに目を通しながらデスクに向かうと、松島が何かを言いたげな目で俺をじっと見ていた。彼がこういう顔をしている時は素直にこちらからアプローチした方が無難だ。
 バッグをデスクの足元に置きパソコンの電源を入れてから、のろのろと松島のデスクへと近づく。
「お疲れ様ですっ! K邸のリフォームの件ですが、あの値段でOK出ましたんで契約進めます」
「あぁ、ご苦労さん。――で、昨日、お前はどこに行ってたんだ?」
 手にした書類から目を上げ何かを勘ぐるかのように目を細めた松島に、俺は条件反射で目を逸らしてしまった。
「え……」
 全くもって私的な事情で無断欠勤した俺。華城は「上手く言っておいた」とは言っていたが、松島はハナから信じていないようだ。
 これも日頃の行いのせいだろうと露骨に顔を顰める。
 その時、車を駐車場に入れるために遅れて到着した華城と目が合った。
(ナイスタイミング!)
 松島のデスクの前で俺がバツの悪そうな顔をしていることに瞬時に気付いた彼は、自分のデスクのパソコンを立ち上げながら、松島の存在などまるで気にしないかのように声をあげた。
「杉尾さん! 昨日行った公告予定の現況写真のデータ、整理した方がいいですよね?」
 弾かれるように彼の方をみた俺に、軽くウィンクする華城。
 その威力たるや、思わず腰が抜けそうになるほどの色気だ。
「あ……あぁ。そうだな……」
 間一髪のところで、また彼に助けられた。
 松島はまだ訝るような目で俺を見てはいたものの、相棒であり普段から品行方正な華城の事は信じているようだ。
 そして、石田の方をチラッと見やってから、声のトーンを落としながら身を低くして言った。
「――おい、杉尾。あの件のことだが」
「あの件?」
 急に声をひそめた松島に、俺は前屈みになって体勢を低くすると彼の声に耳を向けた。
「華城のことだよ。談合があったと騒ぎ立てたのは発注者だが、それを首謀したという証拠が何一つ見つからない。しかし、参加業者は口々に華城の指示で動いたって言うんだ……。お前はどう思う? あの男がそんなことをするように見えるか?」
「部長はまだ疑ってるんですか? 容疑が晴れたから復帰させたんでしょ? 俺が首謀するならまだしも、アイツがそんなことするわけないって。証拠がないのに、まだウダウダと言って来るようだったら、俺が調べましょうか?」
「――お前、何か知ってるのか?」
「んなわけ、ないでしょ。ただ、ちょっと気になる奴がいて……」
「K興産……か?」
 あからさまに嫌悪感を剥き出しにした松島に、人差し指を上に向けてニヤリと笑ってみせる。
「ビンゴ! 部長、なかなかいい勘してるじゃないっすか。もしも、うちが失格になれば二番札のK興産が受注するわけでしょ? 最初からそれが狙いだったとしたら……? それに、発注元は入札のやり直しの件については何も言ってこない。工期的に考えても、もう決めないと間に合わないと思うんですよね……。ただでさえ突貫とっかんになるの目に見えてるし……」
 相変わらず渋い顔をしたままの松島だったが、いつになく真剣に俺の話を聞きながら小さく相槌を打った。
「まさかとは思いますが……。発注元とK興産って繋がってるんじゃないですか?」
 長年の経験を経て叩きあげで部長になった松島のことだ、そのあたりのことには誰よりも精通しているはずだ。だてにこの会社に根をおろしているわけではない。
 建築営業という仕事は工事だけの情報があればいいというわけではない。
 その地域や土地、人間関係も幅広く網羅して、それに見合ったやり方をしなければ仕事などもらえない。だから、発注元がどこかの関連会社であればその製品を使用したり、縁故の関係で禁忌だと言われている取引先も調べなければならない。そこまで気を使って受注に励まなければならない俺たちの給料は雀の涙ほどだ。
 そんな俺も最初は面倒な業界だと思っていたが、人の知らない情報を持つという優越感に、今はさほど気にもならなくなっていた。
「――確証を得ないうちは騒ぎ立てない方がいい。下手をすれば自分たちの首を絞めることになりかねない。杉尾、特にお前は無茶をして面倒を起すのは目に見えてる。親父さんの名前に傷をつけないように気をつけろ」
「部長……。それ出されると何も言えない」
 苦笑いを浮かべて髪を掻き上げると、松島がごそごそと机の上に積まれた書類の中からクリップ留めされた書類を引っ張り出してきた。
 差し出されたそれを受け取ってパラパラと捲ってみると、あの日談合疑惑が浮上した入札企業の提示価格一覧と内訳書だった。
「これ……。どうして持ってるんです? 公表してないでしょ? まだ決まったわけじゃないし」
 決して公表されることのない極秘データ。そういう物を入手出来るのも、松島の人徳と顔の広さだろう。
「それがなきゃ、華城がやったかどうか分からんだろうが。うちが入れた価格は間違いなく社長決裁した値段だ。華城が独断で値段を改ざんしたという疑いは消えた。それを見る限り、値段的に見てもうちの受注は決まっている。――ここまで言えば分かるだろ?」
「――誰かが『談合している』って言い出さない限りは……でしょ?」
 黙って頷く松島。俺はその書類の価格だけを素早くメモに取ると、それ以上何も言わずに彼の元を離れた。
 そして自分の席に戻ると、隣りで写真データを開いて画面を食い入るように見つめている華城に視線を向けた。
 きっと、何かを隠している。華城の性格からして、自宅待機を申し渡された時に反論してもおかしくなかったはずだ。
 自分の意思や考えをしっかりと持っている彼のことだ。理不尽な容疑をかけられたら、間違いなく黙ってはいない。それなのに、会社からの指示に異論を唱えることなく素直に従ったところをみると、部長にも言えない何かがある。
 それに……。あの日、彼のマンションの廊下で聞いた吉家との会話。
 『取引』と言っていたことが気にかかっていた。
「――華城。それ終わったらちょっと付き合ってくれない?」
 顔だけをこちらに向けて、不思議そうな目で俺を見ている。
 こうしていると本当に大型犬に見えてくるから不思議だ。見た目は怖いが、エサをチラつかせたら尻尾を振って飛び掛かってきそうな雰囲気を漂わせている。
「仕事……ですか?」
「もちろん。他に何がある?」
 そう答えた俺に、彼は「いいですよ」と短く応えてふっと唇を綻ばせた。
 野性的な黒い目を光らせて、男の色香を無駄に振りまくその微笑み……。
 何かを企んでいそうな、そして何かを言いたげな表情かお。 
 俺が『仕事じゃない』と言っていたら、どんな答えが返ってきただろう。彼のことだ。また俺を試すように良からぬ事を口にするに違いない。
 トクンと大きく跳ねた心臓の音を誤魔化すかのように、俺はマウスを握るとパソコンの画面に映し出された案件情報サイトに目を向けた。
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