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六段目
遭逢の場〈参〉
しおりを挟む惚れた腫れたで夫婦になれる町家の者と違って、武家は家同士の「思惑」で縁組が決められる。
もし、当人が厭だと申して逆らえば、武家界隈から道理に反することと詰られ、また相手方の面目を潰すことにもなる。
すなわち、双方どちらの家にとっても恥となるのだ。
美鶴は先達てからの「指南役」である刀根から、武家にとっての「恥」は、たとえ身命を賭してでも抗わなければならぬ、と教え込まれた。
ゆえに、この場で美鶴ができることは、勘解由の命に黙って従うことだけだった。
そして、かつての勘解由自身も「通ってきた道」であった。
見目かたちなど面の皮一枚だけのことで気に入らぬのは「恥」だと云う武家の建前に従い、心を殺して多喜を娶らされた。
祝言を終えた夜、その妻には当家の家督を兄の広次郎に渡す旨を淡々と告げた。
その後、自然と家から足が遠のいたのは、なにも御役目だけのことではなかった。
「おまえたちの祝言であるが……」
心なしか、勘解由の眉根が微かに寄ったような気がした。
「だれにも知られず、秘して行うことと相成った」
——『だれにも知られず、秘して』とは……
まるで、だれからも目出度きことと望まれておらぬようだ。
「この家におまえが来る、少し前のことだ」
流石に訝しむ美鶴に、勘解由は経緯を語り始めた。
「御三卿・清水様の御当主様が身罷われたことに端を発する」
「御三卿」とは、公方徳川様より分家された「田安家」「一橋家」そして「清水家」の三大名家である。もし、水戸・尾張・紀伊の御三家に御世嗣がいない場合は、この三家のうちのいずれかに生まれた男子が差し出され、継がねばならぬ。
御公儀の重責を担う御家ではあるが、実は亡くなった御当主・敦之助様は、かような御家であろうと役不足なお立場にあった。
なぜなら、十一代の公方様(徳川家斉)の御子であるばかりか、三代の公方様(徳川家光)以来の御台所様の御腹より生まれた男子であったからだ。
ご誕生の折には、公方様や御台所様・茂姫(広大院)のお喜びは言うまでもなく、御台所様の父である薩摩藩八代藩主(島津重豪)に至っては「我が世の春」とばかりのはしゃぎっぷりであった。
ところが……
その三年ほど前、「次」の公方様はすでに御側室・お楽の方(香琳院)が産んだ敏次郎様(徳川家慶)と決められていた。
ゆえに、先代(徳川重好)に御世嗣がおらず断絶していた清水家を再興させて、断腸の思いでその当主へと敦之助様は据えられた。
されども……
御当主となったその翌年、敦之助様はこの世を去った。享年わずか四歳であった。
「……公方様はもちろんのこと、御台所様のお嘆きが並々ならぬそうだ。昨年、懐妊なされた御子をお流しになってござるから、余計に堪え難きことであろう」
そういえば、吉原の廓にいたとき、姉女郎・羽衣の上客であった安芸国広島新田藩の藩主・浅野 近江守が、御座敷でさようなことを云っていたのを美鶴は思い出した。
「よって、当面晴れがましきことは御法度になったがゆえ、おまえたちの祝言は秘して行うことと相成った」
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