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七段目
往古の場〈伍〉
しおりを挟む後ろ髪を引かれつつも、胡蝶を残して明石稲荷の小堂を後にした尚之介もまた、伊勢物語の同じ二十三段を思い起こしていた。
ただ尚之介が思いを馳せ、ふと口の端に乗せたのは……
「『筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに 』」
〈(幼い頃)筒のように丸く掘った井戸端で、井戸の囲いと背比べをした私の背は、もうその囲いの高さを越してしまったようだよ。あなたの姿を見ないでいる間に 〉
と云う、あの二人がまだ夫婦になる前の、男が「是っ非ともこの女を我が妻に」と願っていた時分に詠んだ歌であった。
されども、尚之介の心に浮かんでいるのは、つい今しがた別れた胡蝶の姿ではなく、我が身がまだ少年だった頃に想いを寄せていた「朋輩の妹」であった。
——かの話のごとく、幼き頃よりあないに恋焦がれて『是っ非ともこの女を我が妻に』と求めていたというのに……
胡蝶——おてふに巡り合って、身も心も通じて一つに重なり合った今……
その「幼き想い」が不思議と、とても……「懐かしく」感じるのだ。
子を産み母となった朋輩の妹には、知らず識らずのうちに、どうかこれからも恙無く仕合わせに暮らしていってほしい、と願うばかりとなった。
思えば……
『妹』とは古の昔、恋しく思う女を指した言葉であったが、今の我が身にとってはさようなことよりも、まるで血を分けた「妹」に対して思うがごときに様変わりしていた。
いや、もしかすると……
——そもそも、我が「想い」は初めから、そないな心持ちであったのかも知れぬ。
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しばらくして、胡蝶の胎に子が宿ったのがわかった。
それに感づいた久喜萬字屋のお内儀・おつたは、鬼灯で子を流せとは云うことはおろか、父親がだれかを問いただすこともなかった。
もし、おなごが生まれれば、祖母・母の血を引いて三代続く吉原の「呼出」なれるやもしれぬと算段し、またなんとなく相手が「武家」の男であるような気がしたからだ。
そして、密かに胡蝶を久喜萬字屋が持つ別宅へと移し、産み月まで養生させることにした。
別宅に移る前日、髪が乱れた廓客に呼ばれたゆえと云って、尚之介が髪結の身なりで胡蝶の前に現れた。
生まれてくる子に名付けるようにとその名を伝えて、しばしの別れを告げる。
ちょうどその折、尚之介は身を変装して御役目に入るところであった。
やがて月満ちて、別宅にて胎の子は無事この世に産み落とされた。
胡蝶によく似た、珠玉のごとくうるわしきおなごだった。
されども、「母」となった胡蝶は産後の肥立ち悪しく、生まれたばかりのその子を遺して身罷ってしまった。
「父」となった尚之介は、胡蝶の死に目には会えなかった。
別宅に移る前日に逢ったあの日が——二人の今生の別れと相成った。
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