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九段目
離礁の場〈参〉
しおりを挟むそれからしばらく経ったある日の朝、おせいが美鶴の部屋へ来て尋ねた。
「御新造さん、今日はなにか御用でもありなさるのかい」
つい今しがた、美鶴は朝餉を終え、おさとが箱膳を片している処であった。
「いいや、特にはなにもあらぬが」
相変わらず「夫」が帰ってこない毎日、縫い物などくらいしか為すことがなかった。正直云って暇を持て余していた。
「そろそろ御新造さんも、松波様の御屋敷に落ち着きなすった頃でやんしょう。御実家に置いてきなすった物で手許に置きてぇのがあるんじゃないか、って奥様がおっしゃってなさるんでやすが……」
世間の目に極力触れぬ必要があったとは云え、まるで拐かしに遭うかのごとくいきなり駕籠に乗せられ、美鶴は此の松波家に連れてこられた。
「『御実家』とは……」
「北町の島村様の御家でさ」
——えっ、姑上様が……わたくしを……島村の御家へ……
確かに、ありがたきこととは思うが、生憎、美鶴には島村の家にそないに後生大事にするほどの物はなかった。
されども、おさとが口を開き、
「御新造さん、参りやしょう。手慣れた針箱の方が、きっと縫い物も捗りやす。あたいがお供さしてもらいやすんで」
そう云って頭を下げた。
「おさとのような島村の御家に勝手知ったる者が付いてった方が、こっちも安心だ。あと荷物持ちにもう一人、男衆の中間でも連れて行っておくんなせぇ」
おせいも、うんうんと肯きながら美鶴を促す。
「……相分かった。姑上様のお云い付けどおり、島村の家へ参ろうぞ」
美鶴はあまり気乗りはしないものの、姑・志鶴の心遣いもあって承知した。
「では、おせい、姑上様にさように伝えておくれ。おさと、わらわの支度を頼む」
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おさとに手伝わせて支度を整えたあと、美鶴は島村の御家へ向かった。
北町と南町に分かれてはいるものの、同じ組屋敷の内である。美鶴は二人の供を連れて、徒歩で参ることにした。
おさとがぴったりと美鶴の後ろに付き、付かず離れずの頃合いで中間の男が従っていた。
男の名は弥吉と云った。舅の松波 多聞が、まだ見習い与力だった頃より仕えていた古参の中間だが、今は兵馬に付き従っている。
上背があるわけではなく胸板も薄いため、体格に恵まれているわけではないが、松波の家人の中では滅法腕っ節が強いと評判だった。
さらに、目鼻立ちがすっきりと整った面立ちで、若い頃にはなかなかの女泣かせの色男であったと思われる。
——なにやら、吉原の廓におる用心棒の男衆のごとき者であるな。
初めて弥吉に会うたとき、美鶴はさように感じた。
『御新造さん、弥吉と申しやす。お初にお目にかかりやす』
口許にうっすらと笑みを浮かべてはいるが、切れ長のその目は決して緩んではいなかった。
まるで、美鶴の出自ごと見透かされそうになるほど、鋭き目であった。
——できれば、ほかの中間が良うござんした。
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