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九段目
黒塀の場〈弐〉
しおりを挟む——精一杯、気負ってきたつもりでござったが……
美鶴は情けなくて、我が身を嘲るかのように力なく口の端を上げた。
——奉公人の目からは、さように見えておったのか……
ようやく出た笑みのごときものであったが、当然のことながらまったく「笑えて」はいなかった。
やはり、吉原の廓で生まれ育った妓が「武家の妻女」になるなんて、どだい無理な話であると美鶴は思わずにはいられなかった。
「御新造さん、このまんまじゃ……早晩、その心が壊れっちまいやす」
美鶴の足を拭い終えたおさとは、きっぱりと告げた。
「しばらくは、島村の旦那様が用意しなすったこん家を『実家』だと思って、養生なすった方がいい」
美鶴は、虚ろな目でこくりと肯いた。
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それから、一回り(七日間)ほど過ぎた。
松波の御家を出て、美鶴のずっと張っていた糸が、ぷつり、と切れてしまったのか、すっかり気が抜けた。
食餌や掃除など身の回りの世話は、おさとが一手に引き受けてくれている。
ゆえに、美鶴は松波家にいたときと同じように、手持ち無沙汰に縫い物をして刻をやり過ごしていた。
美鶴は縫いかけの藍鼠の布地を手に取った。おさとが松波家から美鶴の着替えとともに持ってきてくれた、塩沢紬の細かい蚊絣の地だ。
姑の志鶴に支度してもらったこの布で、美鶴は夫である兵馬のために着流しを縫っていた。
いっとう初めに縫い上げた浴衣は、すでにおせいに預けてあった。
くれぐれも——美鶴が縫うたものであることは云わぬようにと固く口止めをして。
ふと、この仕舞屋の裏口にある戸が、がたり、と音を立てた。
——さては、おさとが帰ってきたか。
本日は、おさとが入り用で朝から出かけていたのだが、そろそろ帰ってきてもおかしくはない刻である。
美鶴は竈のある土間へ下りて行って、女所帯で用心のために立てかけていた心張り棒を引き戸から外した。
すると、がたがたがた、と音がして引き戸が開けられた。
「ご苦労でござった、おさ……」
さように云いかけて、美鶴の動きがぴたり、と止まる。
着流しに黒羽織の長身の男が、其処に立っていた。
切れ長の目にスッと鼻筋が通っていて、ちょっと薄めの唇。頭は粋な本多髷。腰には長刀・短刀を二本差ししている。
そして、腕には巾着を抱えていた。
「……広次郎さま、なにゆえ此処に……」
驚いた美鶴は、つい下の名で呼んでしまった。
されども、かような美鶴を尻目に、広次郎は「御免」と口の中でもごっとつぶやいたかと思うと、開いた戸の間へその身を滑らせるようにして、するりと家の内へ入ってきた。
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