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大詰
口上〈拾漆〉
しおりを挟む下っ引きの与太から聞いた、舞ひつる——否や美鶴が身を寄せていると云う町へ、兵馬は影丸を走らせた。
昼日中であるがゆえ、いくら与力といえども、人々が行き交う往来を馬で駆け抜けるわけにはいかぬ。少々遠回りであるが、人通りの少ない裏道を通らざるを得ない。
もうすぐその町に着く、と云う手前で兵馬は宿を探した。其処の馬房に影丸を預けるためだ。
目立つ馬を連れて妾宅が並ぶと云われている界隈へ入っていくのは、流石に気が引けた。
宿で馬子に影丸を託したあとは、目指す先まで徒歩である。馬に跨りやすいのと併せて存分に歩けるように、今の兵馬は紺鼠色の着流しに平袴姿であった。
背負った風呂敷包みの紐をしっかりと結び直して、兵馬は歩み始めた。
道すがら、兵馬は今まで知り得たことを頭の中で思い返す。
——御前様は、あいつを側室になさるわけでもござらぬのに、なにゆえかようなことを……
吉原の妓である「舞ひつる」を武家の子女の「美鶴」に仕立てるため、息のかかった者たちを使って養子縁組を繰り返したと思われる。
兵馬は父の多聞から、妻になる美鶴のことを『さる藩の江戸屋敷で生まれ育ったと云う「藩士の娘」だ』と聞かされていた。
『さる藩』と云うのはおそらく、御前様——浅野 近江守が治める安芸国・広島新田藩のことであろう。
——父上とて、どこまで存じてござるのか……
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
そうこうしているうちに、其の町が見渡せる処までやってきた。
町家の外れと思われる其処は、辺りに騒がしい長屋もなく、侘しいまでにひっそり閑としていた。
さらに歩を進めて、とうとう目指す仕舞屋を見つける。
——正面から入って訪いを立てるのが、本来でござるが……
突然、祝言を挙げた翌る朝から、新妻である美鶴を一切顧みることなく家を空けてしまったことが、今さらながら甦ってきた。
——少し、様子を伺ってみるか……
仕舞屋は、広さこそ実家の松波家の長屋門ほどであろうが、その周囲は真っ黒な渋墨で塗られた杉板にびっちりと覆われていた。所謂「黒塀」だ。
——これは、ちと厄介でござるな……
外から中を覗き見ることは、いっさいできない。
——どうにかして、門の内に入らねばならぬな。
兵馬は仕舞屋の裏手に回ると、勝手口であろう木戸を見つけた。
周囲を見渡し、人の気配が感じられないのを確かめると、その場に身を屈めた。
そして、すかさず腰から短刀をすっと抜いて、木戸の隙間に差し込む。
そーっと手首を返して短刀を動かしていると、やがてかたり、と音がして閂木が上がった。
吉原で、同心や岡っ引きたちとの御用の際に身につけた技である。
捕物では家内の者に気づかれることなく、すばやく建物の周りを固めねばならぬ。その際に役に立つ技であった。
ただ、歴とした「与力の御曹司」が、この先捕物でさような「小者」がやる役目を果たすことはあるまいが……
物音を立たぬよう静かに木戸を開け、するりと身を滑らせて中へ入る。
黒塀の内側は、外からの目隠しも兼ねて木や草花を植えた前栽となっていた。
兵馬はちょうど良い塩梅とばかりに、木立ちの陰の茂みに身を潜ませた。
其処からしばらく様子を伺っていると、家の裏手にある勝手口の引き戸が開いた。
「おさとと女所帯ゆえ、くれぐれも用心なされまするよう」
出てきた男が振り返って云っていた。着流しに黒羽織の、長身の男であった。
頭は粋な本多髷、腰には長刀・短刀の二本差し、そして裏白の紺足袋に雪駄履き……
——あの男、「同心」か……
あとから、枇杷茶色の小袖を纏った女が出てきた。丸髷に結った髪に剃り落とした眉、お歯黒を付けたさまから人の妻と知れた。
「広次郎さまも……どうか、御役目恙きよう」
兵馬の妻である——美鶴であった。
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