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Chapter 2

風雲 ③

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   ダイニングテーブルと同じチーク材に覆われた、シンプルで機能的なシステムキッチンのシンクの前に立って、栞はカフェオレの準備をする。

   神宮寺は当初、ミルクも砂糖も入れないブラック派だと言っていた。
   ところが、栞が自分用にに淹れたカフェオレを、まるでジャ◯アンのごとく横取りして飲んで以来(決して口に出しては言わないが)気に入ったらしく、すっかりカフェオレ党に入党した。
   うっかりミルクを切らしてブラックになってしまった日には、ものすごく不機嫌な顔になる。

   栞が淹れたカフェオレは、砂糖も甘味料パ◯スイートも入っていないはずなのに、驚くほど甘い。
   その淹れ方は、姉から教わった。


「……失礼します」

   執筆中の神宮寺の邪魔をしないように、トレイを持った栞は口だけを動かして、仕事部屋にしている書斎のドアを開けた。とたんにコーヒーの芳ばしい香りが、部屋の中をふんわりと巡っていく。

   栞は、十八、五インチモニターの前に座ってキーボードを操作していた神宮寺の傍らに、そっとカフェオレのマグカップを置いた。

   飾り文字カリグラフィーのアルファベットで「T」とプリントされたフ◯ンフランの象牙色アイボリーの陶器のマグカップは、なだらかに反り返った飲み口のカーブが絶妙で、口当たりがとてもよかった。

   神宮寺が、栞の「S」のマグカップを横取りして飲んだ際に(これもまた決して口に出しては言わないが)気に入ったらしく『同じのを買ってこい』というので、バイトの帰りに購入してきたものだ。

「……あとで風呂に入るから、その間にこの部屋の掃除をしておいてくれ」

   神宮寺がマグカップを手にして、カフェオレを一口飲む。だが、その目はモニターを見たままだ。

「わ、わかりました。えっと、触ってはいけない場所とか物ってありますか?」
   栞はおずおずと尋ねる。

   実は、今までこの書斎には飲み物や軽食を携えて入ったことはあっても、神宮寺がほぼ篭りっきりだったため、掃除ができなかったのだ。

   入り口と反対側のドアの奥には寝室があるのだが、神宮寺はもっばら書斎のカウチソファでやすんでいるようだった。

「触ってもらいたくないのは特にはない。デスクの上も資料を整える程度なら構わない。ただ、ゴミ箱の中の物はもちろん処分していいが、デスクの上にある物は絶対に捨てないでくれ」

「わかりました。では、お風呂の用意をしてきますね」
   栞は一礼して、書斎から下がった。


   神宮寺が一階の風呂に入っている間に、栞は手早く部屋の掃除を済ませた。(もっとも、床掃除はル◯バが張り切ってやってくれたのだが……)

   階下したに降りていくと、神宮寺がバスタオルで髪をがしがし拭きながらリビングへやってきたところだった。

「……腹、減った」

   時刻は夕飯を食べるには少し遅いかな、という頃合いだったが、それでも、いつもよりは随分と早い。十一時や十二時を過ぎることもあるのだ。

「すぐに用意しますから、ちょっと待っててください」

   栞は冷蔵庫から取り出したジップ◯ックのタッパーを、電子レンジに移動させながら言った。昼間に「常備菜」として作っておいた「京のお晩菜ばんざい」だ。

   それから、シンクの下から出したフライパンに火をかけて油を引き、これまたあらかじめ下ごしらえしておいたハンバーグを置く。ジュジュッと油が弾ける音がして、辺りに「肉」の香ばしい匂いが広がっていく。

——先生はまだ若いから、なにか「お肉」がないと機嫌が悪うならはるもんなぁ。

   「胃がもたれて重たい」と言って、ハンバーグより焼き魚や煮付けの方を喜ぶ父親とは大違いだ、栞は思った。

——せやけど結花は、そんなおとうさんでもええんやろなぁ。

   ふとリビングのL字型のソファセットを見ると、神宮寺はタブレットでなにかを見て大人しく待っているようだった。
   そうしているとさすがに普段のふてぶてしい様子はまったく影を潜め、年相応の青年に見える。

   栞は、ふんわりと微笑んだ。

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