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Epilogue

爾後 ③

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「……だぁ……ぶぅ……ううぅ……」

   そのとき、愛らしい声が聞こえてきた。我が娘ななだった。

   今にもあふれそうな涙をたたえながらも、野菜が盛られた大皿に向けて、力いっぱい手を伸ばしている。

   智史の心臓が、きゅっ、と縮こまった気がした。

——泣くな、なな。すぐに、おまえのぷっくりしたそのかわいい手に乗せてやるからな……

   次の瞬間、反射的に大皿から野菜を取っていた。


「ああぁっ、おねえちゃんっ!お兄さんが、ななちゃんに生の白ネギを食べさそうとしたはるえっ‼︎」

「なんやてぇ……っ⁉︎」

   栞としゃべっていた稍が、ぶんっと智史の方へ振り向いた。先刻さっきまで小面こおもてのように穏やかだった表情が、一瞬にして般若のような形相に変化へんげした。

   思わず後退あとずさった智史は、ななにやるはずだった白ネギを、ぽとり、と手から落とした。

「……ネギ類は極めてアレルギー性の低い食材だが、加熱しないと硫化アリル独特の辛味成分がそのままだからな。乳幼児にはどうかな?いきなり食べたりしたら、野菜嫌いになるかも」

   神宮寺が冷静に分析する。

——はぁ⁉︎ こいつ、なに言うてやがるっ⁉︎

「智くん、ひどいっ!ななちゃんが野菜嫌いになったら、どうすんのよおっ⁉︎」

   稍が取り乱して叫ぶと、腕の中のなな・・が不穏な空気を察知して「ふえぇっ……」とぐずり出した。

「ななちゃんっ!……ほら、お花のニンジンさんやで。かわいいなぁ?」
   栞が大皿からあらかじめ茹でておいた人参を取って、ななに持たせる。

   ななはすぐに「お花のニンジンさん」を口いっぱいに頬張った。どうやらご機嫌は直ったようだ。
   そして、まだ歯が生えそろっていないなな・・は、 一頻ひとしきり「ニンジンさん」をべろべろに舐め回してねばねばにしたあと、飽きたのであろう、べっ、と吐き出した。

   稍が何事もなかったかのように「ニンジンさん」の残骸をひょいと取って、ガラ入れの器へ放り込んだ。

「稍……おれは……」
   智史は弁解しようと妻に話しかけるが……

「ああっ、よ食べやんと、せっかくのフグが煮え過ぎてしまうえ」
   土鍋を覗き込んだ栞の言葉によって遮られた。

   一同は、あわててテーブルについた。ななも稍と栞の間に置かれたベビーチェアに座らされる。

「……いただきます」

   すると早速、神宮寺が鍋の中に箸を入れ、いきなり大きなとらふぐを釣り上げた。
   そして、「美味うまいっ」と舌鼓を打ったかと思うと、また同じ大きさくらいのものを釣り上げる。

「それに……このポン酢、すんげぇ旨い」

   稍が取り寄せた、旭ポ◯酢の力である。

——うわあぁーっ、こいつっ、鍋の中に直箸じかばしけやがったぁーっ⁉︎

   鉄仮面&鉄面皮の表情の下で、智史は断末魔の絶叫をしていた。

   超潔癖性の智史にとって、一緒に鍋をつつけるのは稍と栞(もうすぐ、ななも加わるであろうが)くらいだ。
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