大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜

佐倉 蘭

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弐の巻「矜持」

其の壱 〜弐〜

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   武家では夫と妻とは寝間が別である。
   ゆえに、その夜夫から同衾するよう申しつけられた妻が夫の寝間へ赴き、事が済めば夜が明ける前に我が身の寝間に戻る、と云うのが常であった。
   つまり、夫の方が妻に告げぬ限り同衾することはないのだ。

   にもかかわらず……兵馬はおのずから美鶴の寝間に行こうとしていた。

   祝言を挙げて一年ほど経った今でも、いまだ子はない。
   それもそのはず——これまで二人がねやを共にしたのはたったの一度、しかも初夜だけであった。

   その夜妻となった美鶴を、兵馬はまるで手篭てごめにするかのごとく手荒く抱いてしまった。
   まだ夜も明けぬうちに兵馬に呼び出され、寝屋に入った年嵩の女中頭は声を失った。
   真っ白な羽二重の夜具には、花嫁の破瓜はかあかしである鮮血がべっとりと付いていた。

   兵馬にしてみれば、閨の間で美鶴が他の男の名を呼んだゆえであったのだが——

   さすれども、それには決して表沙汰にはできぬ仔細しさいがあった。それゆえの行き違いだったのだが、そのわだかまりを解いた際に、兵馬は美鶴に約束した。

『そなたに、三年の猶予を与える』

   そして、三年経てばこのまま妻女のままでいても良いし、他の者のもとに嫁ぎたければ去り状(離縁状)をしたためる、とまで告げてしまった。兵馬としては、生娘だった美鶴に無体を働いてしまったせめてものつぐないのつもりであった。

   とは云え……今となっては、なぜあのとき、そのようなことまで云ってしまったのか。
   されども、それこそ今となっては——あとの祭りである。

   武家にとっての婚姻は嗣子あとつぎとなる「子をす」ためにある。
   瞬く間に一年が過ぎた今、父母は美鶴に気を遣ってか、表立ってはなにも云わぬ。
   されど、奉行所内の口さがない者たちからは「子はまだか」と尋ねられた。さらに、松波の家に縁付く一族郎党からも、そろそろ云いだされかねない。

   それに子をもうければ、美鶴とて産んだ子どもかわいさに、もしかして三年経てども兵馬の妻女として松波家に残ってくれるやもしれぬ。
——案外、子さえ生まれればこれ幸いと懸念していたことがすっきりと片付くのではあるまいか……

   されども、武家の「仕来しきたり」どおりにいけしゃあしゃあ・・・・・・・・と美鶴を我が寝間に呼び出すことなぞ、あのような真似を為出しでかした兵馬の身ではできぬ。
——さすれば、今宵こそは……そなたの寝屋に参ろうぞ。

   だが、しかし——

「……いや、何もあらぬ。もう下がってよい」
   兵馬は妻から目を逸らした。そして再び盃を持つと、くいっとあおった。

「さようでござりまするか」
   美鶴は腑に落ちぬ面持おももちとなるが、夫が『もう下がってよい』と云うのなら従わざるを得ない。
「……それでは旦那さま、おやすみなされませ」
   美鶴は一礼したのち、今度こそ夫の部屋から辞去した。


   妻の姿が見えなくなったあと、兵馬は傍らに置いた脇息に倒れ込むようにうずくまり、全身から「はあぁーっ」とため息を吐いた。
「美鶴の部屋が、おれの部屋から遠過ぎんのがいけねえ。父上と母上の部屋はどういうわけか、隣り合わせっうってんのによ」
   兵馬は手前の意気地のなさを棚に上げ、明後日あさっての方を向いてごちった。
   すると、そのとき——

「松波様……与太でやんす。ちょいとばっか、よろしゅうござんすか」
   縁側の向こうにある庭先から、抑えた声が聞こえてきた。

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