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肆の巻「謀(はかりごと)」
其の参 〜弐〜
しおりを挟む「——うちの母上であらば、嫂上の身の上を知っても案ずるには及ばぬと思いまする。それよりも、家族の中で一人知らされぬ方が心を痛めそうでござりまするが……」
確かに姑の志鶴の心持ちならば、さようかもしれぬ。
「うちの姑なら……即刻、御家から叩き出されるでござろうな」
姑の千賀の顔を思い出したのか、和佐は大きく顔を顰めた。
「あ、いや、嫂上のことは御役目が絡んでおるゆえ、たとえ夫であろうと申すつもりはござらんから、ご安心くだされ」
慌てて云い繕う和佐に、美鶴は微かにふっと笑った。
「和佐殿も御役目のためとは云え、お子方が気がかりでござりましょう。二人とも寂しゅうしておらねばよいが……」
和佐の二人の子は、松波の家で志鶴に預けている。おせいをはじめとする奉公人たちもいるゆえ、案じることはあるまいが……
すると、和佐からぐすっと洟を啜る音がした。
「和佐殿、如何なされた」
驚いた美鶴は和佐の顔を見た。
「も、申し訳のうござりまする……子たちとかように長う離れたことがなかったゆえ……」
涙ぐむ顔を見られたくないのか、和佐は袂で覆った。
父親譲りのさっばりした気性の和佐は、姑・千賀がかつて主税にべったりとくっついて子育てしていたのとは真反対の、傍目には突き放しているかのようにすら見えるほどあっさりと我が子らに接していた。
されど、松波の家に里帰りする際には必ず子たちを連れてきていた。
「も、申し訳ありませぬ……」
我が子に会いたくて、ずっと堪えていたのであろう。
「せいぜい、半月も経てば……御役目も終えると……甘う考えておったゆえ……」
一度堰を切ったように溢れ出た涙は、なかなか収まることを良しとしなかった。
「……千晶と……太郎丸の……顔を……たとえ……たった一目でも……見とうござりまする……」
美鶴は義妹が泣き止むまで、まるで幼子を宥めるがごとくゆっくりと背中を撫で続けた。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
ちょうど和佐の心持ちが落ち着いた頃、羽おとが座敷に入ってきた。
「舞ひつる姐さん、おまつさん、階下のお内儀さんの内所においでなんし」
『おまつ』とは、和佐の久喜萬字屋での名である。「足を洗った」番頭新造はもう源氏名を名乗らず真名(本名)に戻すのだが、和佐は立場上曝すことはできぬ。
ゆえに、実家の松波家から取って「おまつ」と名乗ることにした。
「お内儀さんがお呼びでなんしかえ」
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羽風とは——おすての源氏名だ。
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