大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜

佐倉 蘭

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肆の巻「謀(はかりごと)」

其の肆 〜拾〜

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   美鶴は入り口で履き物を探した。
   逃げてきたときは何も履かずに出たのだが、くるわおんなは足袋を履かずに真冬でも裸足のまんまだ。
   素足の美しさも器量のうちの一つと云われ、美鶴も「舞ひつる」の時分にはずいぶんと気を遣ったものであった。

   されど、火事の最中に裸足で歩き回るのは酔狂である。美鶴は抜き捨ててあった男物の下駄を突っかけた。
   そして、脇目も触れず真っ直ぐ廻し部屋へと向かった。


   生まれてすぐに預けられた子ども屋から、祖母も母も世話になった久喜萬字屋に引き取られたのは十歳とおだったろうか。
   それからずっと暮らしていた此処ここは、美鶴にとっての「実家さと」である。

   されども、此度こたびの火事で、これらすべてが燃え尽くされてしまう。

   しかしながら、久喜萬字屋は幾度となく火事に見舞われてきた。
   そして、其の都度新たな見世に造られてきたのだ。しかも、図面はちゃんと別のところに置いてあるため、代々建物の間取りはほぼ同じだ。

   たとえ火事になったとしても——御公儀によって必ず「見捨てられる」吉原のくるわでは「よくあること」なのだ。

   ただ——-流石さすがに、燃えている最中さなかに飛び込んでいくのは、美鶴にとって初めてのことであるが……


   美鶴が廻し部屋に入ると、なるほど肌着である「湯文字」一つない素裸の、まだ幼さの残るいかにも「初見世」らしいおなごが、三人寄り添うようにうずすまっていた。

   廻し部屋は大部屋で、屏風などを衝立てて各々おのおのが「仕事」をするのだが、このさまでは慌てたお客がなぎ倒して逃げて行ったのがよくわかる。最前まで春をひさいでくれていた妓すら、なぎ倒して逃げたのではあるまいか。

   「苦界」と呼ばれる吉原で、生娘でいられて歌舞音曲に精進できて和漢書など学問が学べる「振袖新造」は奇跡だ。
   美鶴が舞ひつるとしてさようなことができたのは、「この」たちが美鶴の代わりにたった一つしかないその身体を張ってお客を引いてくれたお陰だ。

   だからこそ、美鶴——舞ひつるは助けに参ったのである。恩返しである。

「なにをしていなんし。早うお逃げなんし」
   美鶴はさように云いながら、まず「牛若丸」を一人のおなごに放った。

   受け取ったおなごは素早く袖を通して前を合わせると、
「姐さん、申し訳のうなんし」
とお辞儀しようとするゆえ、
「なにしていなんし、早う外にお逃げなんし。命より大事なものはありんせん。今度からは素裸でもなんでも早うお逃げなんし」
と、美鶴は叱った。

   それから、次々と紐を解いて、はらりと落ちた着物をほかの二人にも放る。

   その二人も逃して、あとは我が身が逃げるだけ、と顔を上げた美鶴に見えたのは——部屋いっぱいに広がる「火の世界」であった。

——あぁ、もはや、これまで……と云うは、かようのことを云うのか……

   美鶴の目に涙が溢れてきた。
「旦那さま……申し訳ありませぬ……」
   両のまなこから一筋、また一筋と流れていく。
「美鶴はもう……松波の御家には帰れませぬ……」

  目の前でもうもうと立ちのぼる煙に目が霞む。喉がいぶされていがいが・・・・する。
  美鶴は身体を二つ折りにして咳き込んだ。


   すると、真っ赤な炎の向こうから、真っ黒な布を被った長身の男が現れた。
   腰には長刀・短刀を二本差ししている。武家だ。

——あれは、同心の黒羽織……

   背格好は……島村 広次郎に見えた。
「だれの命をもらって、今を生きていると思うておるのだ」
   されど、声が違う。

「そないに容易たやすく諦めるな。おまえの母が泣くぞ」
   男は黒羽織の下から顔を出した。

   切れ長の目にスッと鼻筋が通っていて、ちょっと薄めの唇。かしらは粋な本多まげ——

「そ、そなたは……」

   北町奉行所 隠密廻り同心・島村 勘解由かげゆであった。

   広次郎の叔父で、今は養子先の父だ。だが、美鶴が吉原から攫われるように移されたのが、何故なぜか勘解由の屋敷であった。
   そして、兵馬との祝言の折に美鶴側の「身内」としてただ一人、席に座した。

たわけ者、水も被らずに火事場に入ってくる奴がいるか。おまえの先に入って行った御用聞きの小僧の方が、心得ておるぞ。まぁ、あれは鳶の火消しらしいがな」
   いきなり叱られてしまった。

「着物があと二枚いる。急げ」
   美鶴は慌てて二枚脱いだ。

   すると勘解由は、そのうちの一枚で美鶴を前も見えないほどすっぽりと包んだ。そのあと、我が身の濡れた黒羽織を被せる。

「裏の方はかろうじてまだ通れる道があったゆえ……されど、もうかような危ない真似はするなよ」
   また、叱られてしまった。

   勘解由は残りの一枚をすっぽりと被った。
   意を決し、我が身を盾にして美鶴をまもりながら、火の中に隙間を見つけては進んでいった。

   そうして、ようやく裏口から見世の外へと二人で出たとき——
「おてふちょう……美鶴を助けたぞ」
   微かなつぶやきが聞こえてきた。

   「おてふ」……その名は、美鶴の母、胡蝶の真名まなであった。

——あぁ、そうか……
   腑に落ちれば、おのずと口をついて出てきた。

「……父上」

   同じく、微かなつぶやきであったが……美鶴は生まれて初めて、本当まことの父をさように呼べた。

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