3 / 10
1章
絆~後編
しおりを挟む暑い夏がやって来た。トレーナーや犬達は毎日暑さと戦いながら訓練を続けた。しかし、私は夏が大好きだった。何故なら、夏の夜空はとても賑やかだからだ。いつものように庭先に出て、クドリャフカと一緒に空を見上げる。そこには満天の星空を横断するように白いもやがかかっていた。私は心を躍らせながら彼女に語りかけた。
「あの真ん中の白いもやは天の川っていうの。挟んで向かい合っているのが、こと座のベガとわし座のアルタイル。そして、もうひとつ明るいあの星ははくちょう座のデネブ。これを三つ繋ぐと三角形ができるでしょう? あれが、有名な夏の大三角形よ」
クドリャフカは一生懸命に私の指先を追い、星を見つけると、口を大きく開けて嬉しそうな顔をした。私は彼女のそんな表情を見ることが嬉しかった。もっと彼女に宇宙の色々なことを教えてあげたい。私はそう思った。毎日のように彼女に語りかけた。星座のこと、惑星のこと、銀河のこと……
「クドリャフカ、宇宙へ行ったらぜひ、あのお月さまを間近で見てきてね。きっとクレーターがよく見えるわ」
綺麗な満月を眺めながら、私はそう言った。膝の上で丸くなっているクドリャフカが、ふと顔を上げて眩しそうに満月を眺めている。
「お月さまにはね、ウサギがいるかもしれないって言われてるの。確かめて来てくれる?」
彼女は私の問いかけに嬉しそうにワン、と返事をした。
訓練を開始してから一年が経とうとしていた。いよいよ最終段階に突入するというところで、私達の元に驚くべき一報が飛び込んできた。なんと、約一か月後に「スプートニク二号」を飛ばすことが決定したのである。具体的に説明すると、この前日、ソ連宇宙開発は初の人工衛星「スプートニク一号」の打ち上げに成功。気を良くした政府の最高責任者がヤコフへ「来月の革命記念日までに何か打ち上げてくれないか」と打診をしてきたという。宇宙へ犬を飛ばす機会を伺っていたヤコフが断らないわけがない。好機とばかりに彼は快諾したのだという。
しかし、問題なのは革命記念日が11月7日ということだ。政府から正式に打診があったのは10月5日。つまり、計画実行までに約1か月しか猶予がないのである。この日から急激に私達の周りは慌ただしくなった。イワンも研究所と本部を行ったり来たりしていた。ヤコフが研究所を訪れることも多くなった。そしていよいよ、犬達の訓練も佳境を迎えることとなる。
20匹いた犬達の大半が選抜から外され、最終選考に残ったのは六匹。その内、最有力とされたのがクドリャフカの他にアルビナとムーアという犬達だった。アルビナはとても愛嬌があり、人懐こい犬だった。誰にでも懐くので皆の人気者だった。クドリャフカも人気者だったが、彼女の場合は「優秀さ」が一番の理由だった。人間でいうと、アルビナが「クラスのマドンナ」クドリャフカが「クラスの秀才」といったところだろうか。
この日からは訓練用の簡易的なカプセルではなく実際に犬が乗り込む物を忠実に再現した本格的な気密カプセルを使った訓練が開始された。カプセルの中の温度、圧力などの適応能力が観察された。最初の段階で気密カプセルの訓練を受けていた為か、犬達はさほど苦労することなくこの訓練に慣れた。しかし、二酸化炭素の濃度と温度の上昇には過剰に反応し、動揺が激しくなった。私は、カプセルから出て来たクドリャフカが、口を大きく開けて苦しそうにしている姿を見て辛い気持ちになったが堪えた。
「よく頑張ったわね!」
背中を優しく撫でて、そう声を掛けると、彼女は嬉しそうに目を細めた。用意していた水を差し出すと、勢いよく飲み始めた。
季節は秋だ。研究所の窓から見える景色は色づき始め、庭先にある銀杏の木々が綺麗な黄金色に染まった。散歩に出ようとすると、クドリャフカがその銀杏の木の下で立ち止まり、木から落ちた枯葉を鼻先でつつき始めた。
「あなたはイチョウが好きなの?」
私はイチョウの枯葉を集めると両手で抱え、彼女の体に振りかけた。クドリャフカは楽しそうにぶるぶると体を震わせ、吠え始めた。もっと遊びたいらしい。私も楽しくなって、夢中でイチョウを集めていると、他の犬達がやって来た。私が犬達に枯葉を振りかけているとトレーナー達がやって来て、皆で枯葉を集めて遊び始めた。たちまち研究所の庭先は賑やかになり、犬達の鳴き声やトレーナー達の笑い声が辺りに響き渡った。すると、騒ぎを聞きつけたのかイワンが神妙な顔つきでやって来た。
「一体何の騒ぎだい?」
「あっ、イワンごめんなさい、犬たちを遊ばせていたの。すぐに散歩に行くから……」
私は、しまった、と思い慌ててイワンに弁解を始めた。しかし、意外なことに彼は微笑みを浮かべ、犬たちを眺めて言った。
「いや、構わないよ。気が済むまで遊ばせてあげてくれ。彼らは訓練ばかりでストレスも溜まっているだろうからね」
「ありがとう……!」
「こんなに楽しそうな彼らの姿を見たのは久しぶりだよ。ありがとう、オリガ」
イワンはそう言って嬉しそうに笑った。そして、自分自身も犬たちやトレーナーに混ざって、枯葉を集め始めた。イワンの姿を見たクドリャフカが尻尾を振りながら嬉しそうに駈け回っている。犬たちは自分自身のトレーナーはもちろん、イワンにもとても懐いていた。それは間違いなく、彼の犬たちを大切に思う心によるものだろう。私はその光景を見ているだけでとても嬉しかった。いつまでもこの幸せが続けばいいと、ロケットの打ち上げに成功して、地球へ帰還したら、またこうして皆とクドリャフカと笑い合えたらいいのに、と心から思った。しかし、それは叶わぬ夢となることをこの時の私はまだ知らないのであった。
いよいよ最後、最も難関とされる排泄器具を装着する訓練だ。これには有力候補といわれるクドリャフカを始めとする三匹の犬達も苦戦を強いられた。専用器具を装着して、実際にその中に排泄するという訓練だが、犬達は人間と全く同じ反応を示した。人間の場合、ストレスや環境の変化が原因で便秘になってしまう人が多いが、彼らも同じで排泄することを拒んだ。つまり、犬達も便秘になってしまったのだ。このままでは犬達の体に支障を来してしまうと考えたイワンは下剤を処方するなど、あらゆる手を打ったが効果はなかった。
しかし、トレーナー達が根気よく教え込んでいく内に犬達は器具の中へ排泄をするようになった。私達は手を取り合って大喜びした。犬の便秘が解消されただけで大喜びするとは奇妙な光景だろうが、私達にとっては涙が出るほど嬉しいことだったのである。私はクドリャフカを強く抱きしめて、よくやったわ!と褒めちぎった。
秋も深まった頃、五段階に渡る訓練がようやく終了した。ヤコフ、イワンを始め関係者達は犬の最終選考に入った。そして、選ばれたのがクドリャフカだったのである。ちなみに、最有力候補の一匹だったアルビナはクドリャフカのバックアップ、ムーアはテクニカルドッグとなった。
後で聞いた話だが、当初はアルビナが有力とされたらしい。しかし、彼女は子供を産んだばかりで子育てを求められていたこと、そしてなにより彼女が人気者だったことが、選ばれなかった理由とされている。この後者の「彼女が人気者だったこと」が何故選ばれなかった理由なのか、疑問に思う人も多いと思う。それには悲しく、また深い訳があった。それはまた別の箇所で記していくことにする。
最終選考でクドリャフカが選ばれたことを他のトレーナー達は悔しがっていたが、彼女の優秀さを全員が認めていたので皆は私とクドリャフカを心から祝福してくれ、私たちの為にパーティーを開いてくれた。大きな犬用のケーキを前にして、クドリャフカが目を白黒させている。その姿がとても可愛らしく、私は大笑いした。最高の夜だった。そのパーティーにはイワンも出席しており、いつものように優しい笑みを浮かべていたが、何故かその笑顔は寂しそうに見えた。
その日の夜、私はイワンの許可を得てクドリャフカを自宅へ連れて行った。私の家はモスクワ市内にあり、研究所からも近い場所にあった。その為、イワンは快諾してくれたのだった。いつもは一人きりで過ごす夜。しかし今日はクドリャフカがいる。それだけで私はとても嬉しかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる