星になった犬

星名雪子

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1章

絆~後編

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暑い夏がやって来た。トレーナーや犬達は毎日暑さと戦いながら訓練を続けた。しかし、私は夏が大好きだった。何故なら、夏の夜空はとても賑やかだからだ。いつものように庭先に出て、クドリャフカと一緒に空を見上げる。そこには満天の星空を横断するように白いもやがかかっていた。私は心を躍らせながら彼女に語りかけた。

「あの真ん中の白いもやは天の川っていうの。挟んで向かい合っているのが、こと座のベガとわし座のアルタイル。そして、もうひとつ明るいあの星ははくちょう座のデネブ。これを三つ繋ぐと三角形ができるでしょう? あれが、有名な夏の大三角形よ」

クドリャフカは一生懸命に私の指先を追い、星を見つけると、口を大きく開けて嬉しそうな顔をした。私は彼女のそんな表情を見ることが嬉しかった。もっと彼女に宇宙の色々なことを教えてあげたい。私はそう思った。毎日のように彼女に語りかけた。星座のこと、惑星のこと、銀河のこと……

「クドリャフカ、宇宙へ行ったらぜひ、あのお月さまを間近で見てきてね。きっとクレーターがよく見えるわ」

綺麗な満月を眺めながら、私はそう言った。膝の上で丸くなっているクドリャフカが、ふと顔を上げて眩しそうに満月を眺めている。

「お月さまにはね、ウサギがいるかもしれないって言われてるの。確かめて来てくれる?」

彼女は私の問いかけに嬉しそうにワン、と返事をした。

訓練を開始してから一年が経とうとしていた。いよいよ最終段階に突入するというところで、私達の元に驚くべき一報が飛び込んできた。なんと、約一か月後に「スプートニク二号」を飛ばすことが決定したのである。具体的に説明すると、この前日、ソ連宇宙開発は初の人工衛星「スプートニク一号」の打ち上げに成功。気を良くした政府の最高責任者がヤコフへ「来月の革命記念日までに何か打ち上げてくれないか」と打診をしてきたという。宇宙へ犬を飛ばす機会を伺っていたヤコフが断らないわけがない。好機とばかりに彼は快諾したのだという。

しかし、問題なのは革命記念日が11月7日ということだ。政府から正式に打診があったのは10月5日。つまり、計画実行までに約1か月しか猶予がないのである。この日から急激に私達の周りは慌ただしくなった。イワンも研究所と本部を行ったり来たりしていた。ヤコフが研究所を訪れることも多くなった。そしていよいよ、犬達の訓練も佳境を迎えることとなる。

20匹いた犬達の大半が選抜から外され、最終選考に残ったのは六匹。その内、最有力とされたのがクドリャフカの他にアルビナとムーアという犬達だった。アルビナはとても愛嬌があり、人懐こい犬だった。誰にでも懐くので皆の人気者だった。クドリャフカも人気者だったが、彼女の場合は「優秀さ」が一番の理由だった。人間でいうと、アルビナが「クラスのマドンナ」クドリャフカが「クラスの秀才」といったところだろうか。

この日からは訓練用の簡易的なカプセルではなく実際に犬が乗り込む物を忠実に再現した本格的な気密カプセルを使った訓練が開始された。カプセルの中の温度、圧力などの適応能力が観察された。最初の段階で気密カプセルの訓練を受けていた為か、犬達はさほど苦労することなくこの訓練に慣れた。しかし、二酸化炭素の濃度と温度の上昇には過剰に反応し、動揺が激しくなった。私は、カプセルから出て来たクドリャフカが、口を大きく開けて苦しそうにしている姿を見て辛い気持ちになったが堪えた。

「よく頑張ったわね!」

背中を優しく撫でて、そう声を掛けると、彼女は嬉しそうに目を細めた。用意していた水を差し出すと、勢いよく飲み始めた。

季節は秋だ。研究所の窓から見える景色は色づき始め、庭先にある銀杏の木々が綺麗な黄金色に染まった。散歩に出ようとすると、クドリャフカがその銀杏の木の下で立ち止まり、木から落ちた枯葉を鼻先でつつき始めた。

「あなたはイチョウが好きなの?」

私はイチョウの枯葉を集めると両手で抱え、彼女の体に振りかけた。クドリャフカは楽しそうにぶるぶると体を震わせ、吠え始めた。もっと遊びたいらしい。私も楽しくなって、夢中でイチョウを集めていると、他の犬達がやって来た。私が犬達に枯葉を振りかけているとトレーナー達がやって来て、皆で枯葉を集めて遊び始めた。たちまち研究所の庭先は賑やかになり、犬達の鳴き声やトレーナー達の笑い声が辺りに響き渡った。すると、騒ぎを聞きつけたのかイワンが神妙な顔つきでやって来た。

「一体何の騒ぎだい?」

「あっ、イワンごめんなさい、犬たちを遊ばせていたの。すぐに散歩に行くから……」

私は、しまった、と思い慌ててイワンに弁解を始めた。しかし、意外なことに彼は微笑みを浮かべ、犬たちを眺めて言った。

「いや、構わないよ。気が済むまで遊ばせてあげてくれ。彼らは訓練ばかりでストレスも溜まっているだろうからね」

「ありがとう……!」

「こんなに楽しそうな彼らの姿を見たのは久しぶりだよ。ありがとう、オリガ」

イワンはそう言って嬉しそうに笑った。そして、自分自身も犬たちやトレーナーに混ざって、枯葉を集め始めた。イワンの姿を見たクドリャフカが尻尾を振りながら嬉しそうに駈け回っている。犬たちは自分自身のトレーナーはもちろん、イワンにもとても懐いていた。それは間違いなく、彼の犬たちを大切に思う心によるものだろう。私はその光景を見ているだけでとても嬉しかった。いつまでもこの幸せが続けばいいと、ロケットの打ち上げに成功して、地球へ帰還したら、またこうして皆とクドリャフカと笑い合えたらいいのに、と心から思った。しかし、それは叶わぬ夢となることをこの時の私はまだ知らないのであった。

いよいよ最後、最も難関とされる排泄器具を装着する訓練だ。これには有力候補といわれるクドリャフカを始めとする三匹の犬達も苦戦を強いられた。専用器具を装着して、実際にその中に排泄するという訓練だが、犬達は人間と全く同じ反応を示した。人間の場合、ストレスや環境の変化が原因で便秘になってしまう人が多いが、彼らも同じで排泄することを拒んだ。つまり、犬達も便秘になってしまったのだ。このままでは犬達の体に支障を来してしまうと考えたイワンは下剤を処方するなど、あらゆる手を打ったが効果はなかった。

しかし、トレーナー達が根気よく教え込んでいく内に犬達は器具の中へ排泄をするようになった。私達は手を取り合って大喜びした。犬の便秘が解消されただけで大喜びするとは奇妙な光景だろうが、私達にとっては涙が出るほど嬉しいことだったのである。私はクドリャフカを強く抱きしめて、よくやったわ!と褒めちぎった。

秋も深まった頃、五段階に渡る訓練がようやく終了した。ヤコフ、イワンを始め関係者達は犬の最終選考に入った。そして、選ばれたのがクドリャフカだったのである。ちなみに、最有力候補の一匹だったアルビナはクドリャフカのバックアップ、ムーアはテクニカルドッグとなった。

後で聞いた話だが、当初はアルビナが有力とされたらしい。しかし、彼女は子供を産んだばかりで子育てを求められていたこと、そしてなにより彼女が人気者だったことが、選ばれなかった理由とされている。この後者の「彼女が人気者だったこと」が何故選ばれなかった理由なのか、疑問に思う人も多いと思う。それには悲しく、また深い訳があった。それはまた別の箇所で記していくことにする。

最終選考でクドリャフカが選ばれたことを他のトレーナー達は悔しがっていたが、彼女の優秀さを全員が認めていたので皆は私とクドリャフカを心から祝福してくれ、私たちの為にパーティーを開いてくれた。大きな犬用のケーキを前にして、クドリャフカが目を白黒させている。その姿がとても可愛らしく、私は大笑いした。最高の夜だった。そのパーティーにはイワンも出席しており、いつものように優しい笑みを浮かべていたが、何故かその笑顔は寂しそうに見えた。

その日の夜、私はイワンの許可を得てクドリャフカを自宅へ連れて行った。私の家はモスクワ市内にあり、研究所からも近い場所にあった。その為、イワンは快諾してくれたのだった。いつもは一人きりで過ごす夜。しかし今日はクドリャフカがいる。それだけで私はとても嬉しかった。
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