断食クラブ

先川(あくと)

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断食クラブ

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 ホテルに入った僕は重い足を引きずって、フロントに向かった。身体中が錆びた機械のように軋んで、筋肉に鈍痛が走る。ただ歩くということがとてつもない労働に思えた。
「ご用件をお伺いします」
 フロントに立つと、受付の女性が爽やかな笑みを浮かべた。
「地下の宴会場に行きたいのですが」
 まるで自分以外の誰かがしゃべってるみたいだった。浮遊感に包まれ、自分の身体が遠くに感じる。
 受付の女性はパソコンを操作すると、小さく頷いた。
「断食クラブの会員様ですね。承っております。地下二階の宴会場には右手のエレベーターをご利用ください」
「ありがとう」
「ごゆっくりお楽しみください」
 行き届いた接客に気分を良くしたが、頬の筋肉は強張って、上手く笑うことができなかった。僕の体は危機的状況にあって、筋肉の機能は著しく低下していた。
 そんな状態にもかかわらず、思考は澄んで、心が洗われるような気がする。身体中の不純物が抜け、自分が神聖な存在になりつつあると実感するのだ。
 断食一週間目の症状だった。
 断食を始めると、その経過日数に応じて、様々な症状が現れる。初日には強い頭痛と激しい空腹感に襲われる。脳が糖分を欲し、暴れまわる。
「初日の頭痛はフォルティッシモ」
 僕たちはしばし、このような慣用句を使った。
 断食クラブの会員である、世界的な作詞歌、磯辺弥太郎先生が言い出したもので、頭が激しく痛むのだ。
 頭痛は二日目にはおさまっている。身体が飢餓状態にあることを認識し、脂肪を燃やしてエネルギーを生み出す。
 このときに脂肪と一緒に筋肉が燃やされエネルギーとなるのだが、身体中の筋線維が破壊されるため、鈍い痛みが生じる。
 僕は今その段階だった。
 一口に断食と言っても様々な方法がある。僕の場合、水のほか塩を摂取してしてもかまわない。いわゆる水断食というやつだった。
 断食クラブの会員は、みな強い絆で結ばれていた。年齢も違えば、職業もバラバラで、宗教的なつながりもない。男女の偏りもなく、会員同士が共有できることはほとんどなかった。
 それでも僕たちは断食という凄まじい困難を共有していた。文字通り、生きるか死ぬかの営みで、僕たちは断食クラブのメンバーをしばし「戦友」と呼んだ。
 僕はエレベーターを使って地下に降り、宴会場の重い扉を開けた。
「やあ、武田君、よく来たね」
 入り口で僕の肩を叩いたのは今岡さんだった。普段はサラリーマンをしているという太った中年男性で、健康診断の結果が悪く、酒と油と炭水化物を断っている。食べられるのは野菜とフルーツだけで、僕よりはゆるい断食だったが、彼もまた青い顔をしていた。
「お久しぶりです、その節はどうも」
「武田君は水断食だったね。大したものだ。尊敬するよ」
「今岡さんだってよく頑張ってます」
 僕たちは常に互いの健闘を称え合った。常に他人を認め、尊敬する。それが僕たちの美徳だった。もっとも僕たちが認め合うのは人格や、ステータスではなく、断食に対する姿勢だけだが。
「ちなみに君は何日目かね」
「一週間目です」
「それじゃあ一番の山場は越えたわけだね」
「ええ、とりあえずは安心です」
 断食を始めてから四日の間がなによりもきつい。初日の頭痛はフォルティッシモだし、二日目は身体がエネルギーを節約しようとするので、酷い倦怠感に襲われる。それに慣れてくるのにニ 三日かかって、その頃になると飯を食べない生活にも慣れてくる。
 断食中の一日は長い。僕たちは日に三食の食事をもって、一日を区切っていたのだ。それがなくなれば、一日は永遠とも思えた。
「それで、今度はいつまで続けるつもりで?」
「とりあえず二十日を予定しています」
 今が七日目だから、あと十三日。ちなみに一か月を超えると餓死をするリスクが急激に高まってくる。記録上は五十五日間断食を続けた人間がいるらしく、それが最長となっているが、その人が五十六日目にご飯を食べたのか、そのまま死んだのかは分からない。
「本当に君は偉大だ。この時期に断食は辛いだろう」
「ええ、郵便受けにピザのチラシが十枚も。一週間でですよ? テレビを付ければ、クリスマスケーキだ、チキンフライだって食べ物のコマーシャルばかりで」
「道を歩けばお節料理の写真もあるしね」
 この断食クラブのパーティーは、クリスマスとイブの二日間行われる。とにかく食べ物の情報で溢れかえる時期だし、周りはこぞってご馳走を食べたがる。そんな二日を皆でやり過ごそうというわけだ。
 会員たちは今日来ても良いし、明日来ても良い。二日とも参加したって、誰も驚かないはずだ。何故なら僕たちが楽しめるクリスマスパーティーはここしかないのだから。
「僕は一か月の断食だけど、もう気が狂いそうなんだ。ラーメンが食べたいねえ。チャーシューを肴にビールを一杯」
 今岡さんは青い顔を歪めて笑った。
「よしてくださいよ」
「すまんね、誘惑してるつもりはないんだ。でも、どちらにしろ食べ物のことしか考えられないだろう」
 今岡さんの言う通り、食べ物の名前をあげることは大した誘惑にならない。何故なら、僕たちは食べ物のことしか考えられない身体になっており、こうやって話してるうちにも、常に様々な食べ物がフラッシュバックする。
「それで、今岡さんは何日目なんですか?」
「僕は二週間。あと二週間だよ。お節料理も野菜の煮物しか食べられないんだ」
「僕はおせちも食べれません。でも、七草がゆは食べられるんです。恐らく、断食してから初めての食事になると思います」
「七草がゆもさぞうまいだろうねえ」
今岡さんは辛そうに目を細めた。
「でも、やっぱり質素ですね」
 僕は会場に目をやった。会員たちはめいめいに断食談義に花を咲かせているが、テーブルには水しかなかった。ホテルの給仕がバーカウンターで作っているのもただの水だ。
「各自のルールに応じて、食べ物を注文してもいいんだけど、自分だけ食べるなんてできっこないね」
「そうですよね」
「じゃあ、君も楽しんでくるといいよ。俳優の城谷さんが役作りのために断食しているとかで、どこかのテーブルに居たはずだ。せっかくだから話しかけてみたら?」
「そうします」
 僕は今岡さんと別れて、奥のテーブルに向かった。
「あ、武田君じゃない、やっぱり来てたの」
みゆきさんと目が合うと彼女はにっこりと笑った。笑顔は素敵だったが、彼女も頑張っているのだろう。真っ白な顔をしていて唇の色も薄い。
「こんばんは。ここにいるということは……」
「そう、私って男運がないのよね」
 彼女は航空会社に客室乗務員として勤めていた。僕と同じマンションに住んでおり、普段から顔を合わせる機会も多く、断食クラブのメンバーの中で一番仲が良かった。彼女は失恋すると決まって断食をする。とにかく自分を追い込むことで、失恋の痛みを克服するのだという。
「みゆきさんなら男には困らないでしょう」
「それがそうでもないの。すっかり自信をなくして」
「それで今度はいつまでなんですか?」
 僕は断食の期間を聞いた。彼女の流儀も僕と同じ水断食だった。
「次の恋が始まるまでかな」
 みゆきさんは悪戯っぽく笑った。
「そんなの待ってたら、死んじゃいますよ」
「じゃあ……、武田君が助けてくれる?」
「え?」
 そう返事をして僕はしくじったと思った。こんなところで「え?」と返す男はいない。返答いかんでは、デートの一度くらいできたかもしれないのだ。
「ふふふ、相変わらずね。じゃあ、パーティーを楽しんで。私は榎本さんに呼ばれてるから」
 彼女はそう言って去っていった。
 もやもやしたまま僕は城谷さんを探した。テレビを見ない僕でも顔は知っていた。二枚目俳優として知られ、演技の質もさることながら、自信過剰な俺様キャラがバラエティーでも受けている。
 僕は彼が日常生活ではどんなキャラなのか、確かめたかった。
城谷さんは近づいてきた女と二三の言葉を交わし、握手をしていた。城谷さんの周りは常に人が絶えなかったが、彼はその誰とも仲良くなさそうだった。みんな気を使ってか、数分の談笑のうちに彼のもとを去る。
 彼はただ慌ただしく対応に追われるだけだ。それでも爽やかな笑みを絶やさなかった。有名人も大変だと妙に達観した自分に苦笑した。
 彼のもとから女性が立ち去ったのを見て、僕は彼に声をかけた。
「はじめまして、武田と言います。有名人が来ているとは思いませんでした」
「武田君か、こんばんは」
「お会いできてうれしいです。断食は長いんですか?」
「いやいや、十日前に始めたばかりでね。最初は水断食にしようと思ったんだけど、途中で自分には無理だと気が付いたんだ」
「城谷さんくらいお忙しいと、さすがに水断食は無理でしょう」
「そういってもらえると助かるよ。それで朝食だけは食べて良いことにしたんだ。それでも炭水化物は禁止。何しろ年明けには撮影が始まるから」
「それは大変ですね」
「追い込みの時期だというのに、世間はクリスマスだ、正月だってやたらと食わせようとしているだろ。だから、辛くてね。そんなときにここの存在を教えてもらったんだ。ここは良い。我々向きだね」
 僕はその言葉ですっかり参ってしまった。テレビでは俺様キャラの城谷さんが、我々と言ったのだ。そこには僕も含まれている。僕と城谷さんで我々なのだ。
 単純な僕はすっかり気をよくし、照れ臭かったが握手までして城谷さんと別れた。
 それからパーティーもすっかり終盤に差し掛かったところで一足先に帰ろうと思った。
「よお、武田じゃねえか」
 エレベーターを待っていると、図太い声が聞こえてきた。振り返ると、榎本さんが立っている。後ろにはみゆきさんがいた。
「榎本さん」
 僕は曖昧な笑みを浮かべた。実のところ僕は彼があまり好きではなかった。
「相変わらずシケたツラじゃねえか。ちゃんと食ってるか?」
 彼はこういうつまらない冗談を得意げにいう。食べてないからここにいるのだし、しけたツラはもともとだ。
「一週間目です」
「情けねえな。もう死にそうじゃねえか」
 彼は大口を開けて笑った。
「まだ平気ですよ」
「ああ、賑やかなメンバーだね」
 そう言ったのは今岡さんだった。隣には城谷さんがいる。どうやらみんな帰るみたいだった。
 五人でやってきたエレベーターに乗り、地上を目指したが、そのとき物凄い地鳴りが聞こえ、エレベーターが大きく揺れた。
「地震だわ!」
 みゆきさんが叫んた。
 スマホが一斉に鳴り響いた。耳をつんざくような高音に心臓がぎゅっと縮む。
揺れは立っていることができないほどで、エレベーターが壁にぶつかって大きな音をたてた。
 揺れは三十秒ほど続いただろうか。途中で電気が切れ、周囲を闇が包んだ。エレベーターは地下二階と地下一階の間で止まったまま動かなかった。
「凄い揺れだったね」
 今岡さんの声は僅かに震えていた。
「震度八で、震源地はここから十キロもないわ」
みゆきさんはスマホで速報を読んでいた。
 地下からか、地上からか誰かの悲鳴が聞こえてきた。小さい音だったが、絶望的な悲鳴だった。
「怪我は?」
「頭を壁にぶつけて切ってしまった。血が出ている」
 城谷さんが言った。
「酷いわ。血が止まらない」
 みゆきさんがスマホで彼の頭をてらした。真紅の液体が、髪にへばりついてた。
「助けを呼べ!」
「無駄に決まってる。つながるがわけない」
 今岡さんが言った。これより酷い有様が、市内全域、いやこの地方一体で起こっているのだ。「僕たちがエレベーターに乗ったことは、ホテルマンが見ていました。きっと助けが来ると思います」
「じゃあ、その間にできることをやろう」
 僕たちはエレベーターのドアを手動で開けようと試みた。二人ずつ左右に陣取り、淵に手をかけて引っ張る。何度かそれを繰り返したが、ドアは全く開かなかった。
みゆきさんがスマホでドアを照らしたとき、その理由が分かった。ドアは一度溶けたように変形し、うねっていた。
「どうするんだよ」
 榎本さんがドアを蹴飛ばした。
「火事が起こったら終わりだな」
 今岡さんが小さくつぶやいた。
「火事にならなくても、ガスが漏れたら終わりだぜ。ガスが漏れていなくたって、酸素がいつまでもつか分からないしな」
「そう思うなら蹴ったり、怒鳴ったり、無駄なことをしないでよ」
 みゆきさんがそう呟いた。
「なんだと?  誰に口きいてんだ」
「まあ彼女の言うことももっともだよ」
 城谷さんが榎本さんをなだめる。
 それきり僕らは黙りこくってしまった。榎本さんが酷く苛ついており、彼を刺激しないよう、余計なことはしゃべらなかった。暗がりの中で、ただうずくまって、助けが来るときを待った。
「腹が減ったな」
 榎本さんがぼそりと呟いた。
「何も食べてないものね……。こんなことになるなら断食なんてしなければよかった」
「逆に考えることもできるよ。もし、断食をしたことがない人が、取り残されたら、一日何も食べないだけでも不安で仕方ないよ」
「確かに僕たちは一週間何も食べなくても平気だって分かってるしね」
 城谷さんが話を合わせてくれた。
「とはいえ水がなけりゃ同じだよ。食い物がなくても平気だが、水はそうもいかないしな」
 それきりまた沈黙が訪れた。ほとんど光のない状況で、壁が間近に迫ってくるような錯覚に陥る。ときどき人の動く気配がするのが唯一の救いだった。狭く抜け出すことのできない空間はそれだけでかなりのストレスだった。僕は指をかんで、狂気を追い払おうとした。
「ヒトミ!! ヒトミじゃないか」
 そう声を出したのは今岡さんだった。最初、スマホで家族の安否を確かめたのかと思っていたが、そうではなかった。今岡さんは壁に向かってそう言っていたのだ。
「おっさん。ヒトミなんてどこにもいねえぞ?」
 榎本さんが苛立った声を上げた。
「長い間迷惑をかけてすまなった。僕を許してくれ。本当に反省してるんだ」
 今岡さんは幻覚を見ているようだった。壁に頭をこすりつけ、何度も謝っていた。
「うるせえから、黙れよ」
 榎本さんが言った。
「すまなかった。すまなかった。本当に僕が悪かった。許してくれ。何度でも謝るよ」今岡さんは壊れたロボットみたいに、謝罪の言葉を繰り返した。
「うるせえって言ってんだよ!! 黙れ! 黙れよ!!」
 榎本さんは立ち上がると、壁に向かってすがりつく今岡さんを蹴りあげた。鈍い音をたてて今岡さんが崩れ落ちたあと、あたりは途端に静かになった。
「今岡さん大丈夫?」
 みゆきが声をかけたが、返事がない。
「おい、おっさん詰まらねえ冗談はやめろよ」
 榎本さんがスマホで今岡さんを照らしたとき、不自然にねじ曲がった首が見えた。
「死んでるわ」
「なんてことをするんだ」
 僕は榎本さんをにらんだ。
「こいつがうるせえから悪いんだ。こんな空間で頭のおかしくなった奴と一緒にいられるか!」
「だからって酷すぎるわ」
「しょうがねえじゃねえか、とにかく腹が立ってたんだ」
 榎本さんは鼻息を荒くしていた。彼自身、自分が人を殺してしまったことに混乱しているようだった。
 それから二時間の間、僕たちは黙って救助を待った。ビルの様子が知りたかった。物が倒れ、屋根が落ち、がれき同然の有様になっているなら、救助がくるまでにかなりの時間がかかるだろう。それは二日かかるかもしれないし、三日になるかもしれないのだ。
「お腹がすいたよ」
 城谷さんが弱気な声を出した。
「誰か食べるものは持ってないか?」
「何も。断食してたのよ?」
「ここにはないよ」
「あるじゃねえか」
 榎本さんが言った。
「え? ほら、そこに豊富なたんぱく質がよ。これだけあれば五日は困らねえぜ」
「ちょっと何を言ってるの?」
「ほら、もうこいつは単なる肉だぜ」
 榎本さんは今岡さんの死体を城谷さんの方に押しやった。
「あなたが殺したんでしょ?」
「誰が殺したって死ねば単なる肉だ」
「人なんて食えないだろ」
「食べてみようと思う」
 城谷さんがぼそりと言った。
「正気で言ってるの?」
「空腹より、このまま何も食べずに死ぬのが惜しいんだ。ずっと、まともなものを食べてない。食べる喜びを忘れたまま死ぬのは嫌だよ!!」
 城谷さんは喘ぐように言った。彼の言うことももっともだった。僕たちは次の瞬間建物の崩壊とともに死ぬ可能性だってあるのだ。
「俺も食おうじゃねえか」
 城谷さんと榎本さんは今岡さんの衣服を破ると、その腕に食らいついた。皮膚を剥ぎ、そのピンク色の肉を食いちぎる。ぴちゃぴちゃと水の跳ねる音がした。
「懐かしいよ。久しぶりの肉だ!」
 榎本さんは官能的な声を上げた。
「なかなか悪くないな」
「ほら、お前たちも食えよ。もう二度と飯を食えないかもしれないんだぞ」
 榎本さんが二の腕を肉をちぎって、手渡してくる。
 僕は無意識にそれを受け取っていた。今岡さんの肉。断食クラブのメンバーで、断食をたたえ合った戦友の肉だった。人肉を生で食べることに抵抗はあったが、久しぶりの食事は喜び以外の何物でもなかった。塩気がなくても、肉そのものの味が美味しいと感じた。
 気が付けば、僕もみゆきさんも彼の肉を頬張っていた。骨にまでしゃぶりつき、頬の肉に歯を立てる。内臓と脳以外、僕たちは綺麗さっぱり食い尽くしていた。
 今岡さんを食べてしまったあと、僕たちは黙っていた。多幸感が身体を包み、ただその酔いに身を任せていた。
 しかし、それも長くは続かなかった。
「まだ何か食べたいわ」
 そう言いだしたのはみゆきさんだった。
「さっき食べたじゃないか」
 僕はそう返したが、彼女の言う通り、空腹を感じていた。
「誰かを犠牲にしよう」
 城谷さんの目に淀んだ陰が差す。
「そうだな。一人が犠牲になれば、残りが助かるんだ」
「榎本にしよう。今岡さんを殺したのは彼だし、こいつは苛立ちをコントロールできない!!」
「ふざけるな!! お前だって食ったじゃねえか」
「武田君、どうおもう? 榎本が犠牲になるべきだろう?」
 城谷さんが振り返って僕を見たとき、奥でさっと影が動いた。次の瞬間、城谷さんの肩越しに榎本さんは顔が浮かび上がる。城谷さんの首筋に食らいつき、肩の肉を食いちぎった。途端、鮮血が噴き出し、周囲を赤く染める。
 城谷さんはびくびくと痙攣したのちに動かなくなった。榎本さんは痙攣が収まらないうちから、城谷さんの腕を食い始めていた。僕とみゆきさんはただ言葉を失ってみていた。それでも、底なしの食欲に逆らえず、城谷さんの死体に手を伸ばした。
 エレベーターの床は真っ赤に染まり、ぬらぬらと不快な感触がした。
「まだ食い足りねえ。空腹がおさまらねえんだ」
 榎本さんは戸惑っているようだった。彼はおそらく、不安だったのだろう。自分はもう二度と満腹にならないのではないかと。
「やわらかい、脂の乗った肉が食いてえ」
 榎本さんの影が動き、みゆきさんの足に食いつくのが見えた。みゆきさんが悲鳴をあげる。僕は今岡さんのジーンズからベルトを抜き取ると、榎本さんの首を通し、後ろから思いきり引っ張った。
「クッ」
 喉を詰まらせて、榎本さんが暴れる。僕は腕に力を籠め続けた。ベルトが手に食い込み、鋭い痛みが走る。
 やがて榎本さんは動かなくなった。残ったのは僕とみゆきさんだけだった。
 僕たちは酷い空腹に襲われていたが、榎本さんの肉には手をつけなかった。食べたくて、食べたくて仕方なかったし、食べようと食べまいと、彼はもうただの肉塊だった。
 みゆきさんも恐らく腹が減っているだろう。だが、彼女もまた榎本さんの死体に手を付けようとはしなかった。
 それは僕と同じ理由だったのだろう。
 榎本さんを食い尽くしてしまえば、どちらかが食べられることになるだろう。僕たちはもう餓鬼道に堕ちていた。どれだけ食べようと、空腹からは抜け出せないのだ。
 それでも、何か食べたかった。目の前には肉がある。少なくとも数時間は空腹を感じずにいられるだろう。
 だけど、食べってしまった後は? 食べてはいけない。この肉だけは食べてはいけないのだ。僕は自分に言い聞かせるように首を振った。
 酷く腹が減っていた。
 


                          断食クラブ〈了〉
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