掌の上の園

すずしろ

文字の大きさ
上 下
20 / 49

15

しおりを挟む
穏やかな日が続いたある日の事、シュテファンのと共に勉強をしていた瑠璃に限界が来た。

「ここで働かせてください。お願いします!」

医務室に入るなり瑠璃は土下座した。

どだい無理な話だったのだ。社畜根性の抜けない瑠璃にとって、今の穀潰し状態は耐えられるものでは無かった。

「給金はいりません。掃除でも包帯の洗濯でも、何だっら例のおまじないを施す事だってやります」

「使ってください」

「ぬるま湯に浸かっているこの状況がもう無理!」

「身体が鈍る一方じゃん!!」

大概の人が憧れるであろう左手団扇を瑠璃は拒否した。体よく使われるのを覚悟で何でもする覚悟を決めたのだった。

「何事かは存じませんが、まず頭を上げて下さい。」
土下座を知らない医師は狼狽えながらも瑠璃に言った。医師の言葉に従い瑠璃は頭を上げた。しかし背筋は伸ばし正座は崩さない。
「助手などと烏滸がましいことは言えませんが雑用係として働かせてください」
医師の目をしっかり見てお願いをした。

「困りましたね」
「やはり駄目ですか」
溜息を吐いた医師に旗色の悪さを感じた。

「私もカイン様に雇われている身ですので。雇用の是非は私では決めかねます」
「つまり……」
「カイン様の許可があれば手伝って頂くのも吝かではないです」
希望が見えた気がした。

「ありがとうございます。許可をもぎ取ってきます」
瑠璃は立ち上がると深く医師に礼をして医務室を出た。

カインは執務室にいることが多い。割合としては七割り強といったところか。カラヤンを含め能力の高い側近が多いため、ある程度指示は出すが後は担当者に投げて、もとい割り振って結果報告を待つ事が多いのだ。

執務室の扉の前で大きく深呼吸して、逸る心を抑え込みゆっくりノックをした。

中からくぐもった声がした。

カインが不在でないことに胸を撫で下ろしつつ瑠璃は名乗った。
「坂上瑠璃です。お伺いしたいことがあって来ました」


「……ああ。入って構わない」
やや間があった後、中から返事があった。

「失礼します」
珍しく室内にはカイン以外誰もいなかった。書類を捌いているカインの執務机の前まで行くと瑠璃はゆっくり頭を下げた。
「お医者様の所での労働許可と雇用契約をお願いしに参りました」
「もっとゆっくりしていて構わんのだがな」
せわしないことだ。とカインは軽く笑った。それは揶揄も強制もない言葉だった。

「これ以上は無理です。」
苦渋に満ちた表情だった。周りが働いている中自分だけが何もしないでいるのは肩身が狭いというのもあるが、このままでは自分の存在価値もっと言えば存在意義を疑ってしまう。

「お給金はいりません。ただ働かせて下さい」
「分かった。許可しよう。マチス医師の所なら良かろう」
「ありがとうございます!!」
許可が出たことに瑠璃は満面の笑みを浮かべた。
「余り目立つなよ」
「善処します」
カインはしっかり釘を刺すことを忘れない。
ひくりと笑顔だった瑠璃の唇の端が引き攣った。

「きちんと給金は出す。馬車馬のごとく存分に働くが良い」
「そこまでは望んでないですよ!?」
瑠璃のツッコミにカインは呵々大笑した。

「しばし待て。」
カインは瑠璃を引き留め、執務机の引き出しから紙を出した。契約書を書き起こし、カイン・ジグザムのサインと共に国印を押した。そして差し出された契約書に瑠璃は目を通していく。

(秘技。最近出来るようになった地の文ではなく自動翻訳後の文のみ見る技!!)
目を閉じるギリギリまで細め、地の文にピントを結ばないように注意しながら読んだ。端から見たら視力の悪い人が裸眼で物を見ている顔だった。眉間に皺が寄っているので人相が頗る悪い。

労働時間や日数、給金について等が書かれているが、給金に関してはこの国の相場が分からないので妥当かどうかの判断が付かない。ただ瑠璃は元々無給覚悟だったのでゼロでないだけ万々歳だった。労働時間や日数は特に文句は無い。

「問題なければここに名前と血判を」
「血判」

御丁寧に用意された針を見て肌が粟立った。
(朱肉……なんて無いよな)

練習の成果で何とかこの国の文字を書けるようになったので、瑠璃はフルネームを不格好ながらもこちらの国の文字で書き、意を決して針を親指の腹に刺した。ぷくりと膨らんだ血を指の腹に広げ契約書に押印した。

しおりを挟む

処理中です...